14歳 夏 夏のお土産
時也は小田原の家に帰り着き、玄関を開ける前、行きにお弁当箱の中に入っているのを見つけた母からの手紙を改めて広げ、読んだ。
僕は――僕も乗り越えることは出来なかったよ……。
どう、このことを母や父に伝えればいいだろう。
僕はこれからもまだ正也兄さんの替わりを彼女に対してはしなくてはいけない。
このまま一生明かすことは出来ないのだろうか――。
暗い気持ちのまま、自宅のマンションのドアを開ける。
「ただいま」
母が迎え入れてくれて、父も心配して様子を見に玄関まで出てきてくれた。
だけど、僕は伝えきれないことがあった事を打ち明ける前に、
どうしても悔しい気持ちが前に来てしまって、
「おかえり、時也……時也?」
お母さんにも伝えなきゃ行けなくて、それが辛くて、泣き出してしまった。
「お母さん、お父さん、ごめんなさい、僕は……僕はやっぱり伝えられませんでした」
「時也――」
玄関に立ち尽くして嗚咽の声をあげて泣き出してしまった時也を、
母の多佳子は優しく抱きしめ、どうしたの、どうしたのと声を掛け続けた。
時也がここまで泣いたのは、兄の正也が亡くなって以来だった。
その夜、二宮家。
「時也、いきなり一回で言おうとしないでも良かったんじゃないか」
眼を腫らした時也が黙々とご飯を食べるのを見て、父の昌朗が声を掛けた。
優しいとも、気を掛けているとも、仕方ないさともいえる口調だった。
「そうかな」
そう呟いてから、時也は箸を置きご馳走様でしたと言って立ち上がり、部屋に帰ろうとする。
「待って、時也。
お母さんね、
お母さん、手紙にも書いたけれど、
あなたが岐阜まで柚原さんに会いに行こうとしただけでも、
とてもすごいなって思ったの」
母の言葉に振り返る。
「でも僕は、何もして来れなかったんだよ?」
「ううん、そんなことない。時也は柚原さんに会いに行くこと、
お兄ちゃんの替わりをしてくれていること、
ちゃんと私達に説明してくれたでしょう?」
母の顔は今にも泣き出しそうに見え、時也は自分の中の不安と葛藤していた。
「でも、肝心の二人には説明してこれられなかったんだ……」
「あなたはまだ中学生じゃないの、無理していきなり前を向こうとしないでもいいのよ、時間を掛けて、いずれ彼女たちにも説明できる日が来るわよ」
弱々しく笑いながら母は続ける。
「それに、萌恵ちゃんのご病気とかもあって、打ち明けられなかったんでしょう? 自分だけを責めちゃ駄目よ。あなたの今回の行動は、とてもすごかったと思う」
帰宅して、泣きながら母には事のあらましを説明したのだった、
当然萌恵の腎臓病の話もした。
彼女により辛い現実を突きつけるわけにはいかないから、
とは言わなかったが、多佳子も昌朗も解ってくれているようだった。
「だから無理しないでね。そんなに急がなくてもいいから」
母は心配そうに席に着いたまま、時也に指を伸ばしたが、
触れようとはしなかった、この子も未だに今も傷ついているのだと理解して。
時也は両親の気持ちが痛いほど良く解った。
解っているつもりだった、あの手紙を読んだときから。
いや、そのずっと前から。
「ありがとう。お父さん、お母さん。そうだね、今は言えなかったけれど、
僕、いつか柚原さんに言えるようにするよ。
僕の口から伝えるから、お父さんとお母さんは見ていてね」
見守っていてね、と言うつもりだった、だが十四歳の時也にはこの表現が限界だったのかも知れない。
「今日は、ごめんなさい。ありがとう、おやすみなさい」
そう言ってから、ドアが閉ざされた兄の正也の部屋の前を通り過ぎ、
自室に戻って、少し泣いてから、眠りについた。
机上の電子時計は7月30日の午後8時を示していた。
まだ夏休みは始まったばかりだった。
8月10日、水泳の授業で登校日だった。
時也は今日小さなお土産の箱を持ってきていた、
男子と女子は更衣室が別だし帰り際に、女子を待つというのは初めてだったので緊張してしまう。西島さんは茶道部だったから、水泳のあとすぐに部活動と言うことはないだろうと、更衣室を出た後の通用口になる、学校の裏門のところで彼女を待っていた。
「あ、西島さん」
都会の学校なのにどこからやってきた蝉がうるさく鳴く中で、時也は水泳の授業の後、西島明音に声を掛けた。
彼女は制服のブラウスの上にタオルを肩に掛けていて、少し濡れた髪を気にしながら、校舎から出てきたところだった。
「時也君……」
小田原のちょうちんまつりを断ってしまったからだろうか、彼女も少し窺うように時也を見つめている。
時也もプール上がりで、短い髪はすぐに乾いたが、黒いズボンの学校の制服が纏わり付くような暑さを感じていた、もちろん緊張していたせいもある。
中学校の裏門の付近は緑に茂った桜の木々が落とす日陰以外は燦々と真上から照らしてくる太陽を遮るものがなかった。
「西島さん、あの、ちょっといいかな? こんなとこじゃなんだし、渡り廊下で」
時也がそう言うと、彼女はこくりと頷き、二人して渡り廊下に向かった。
学校の校舎と、水泳の授業を行うプールは渡り廊下で結ばれており、
渡り廊下には屋根が付いている。その下は土足で歩けるようになっている。
丁度水泳の授業は途切れていて、生徒の姿は付近になかった。
太陽の陽から逃れて、二人で渡り廊下の陰に入ると、
時也は彼女と向き合い、
「西島さん、こないだはごめんなさい。せっかく誘ってくれたのに」
彼女は少し悩むような躊躇うような笑みを浮かべてから、
「ううん、私が急に誘ったのがいけないよ。
それに何処に行くかとか、誰に会いに行くかとかいきなり訊くいちゃったりして。
私の方こそごめんなさい。
私って友達つくるの下手なんだ」
へへへと笑いながら肩に掛けていた黒い運動用の鞄を後ろ手に持ち替える。
申し訳なさそうに頭を少し下げて、彼女の髪が揺れた。
「そんなことないよ。電話くれて嬉しかったし。
僕の方こそ、女の子に会いに行くとか変なこといきなり言ったから、
怒らせちゃったかなと思って」
時也は黒い鞄は肩に掛けたまま、目線を泳がせながらそう言葉を接いで、
「あの、これ、岐阜のお土産、大したものじゃないけど、よかったら受け取って」
小さな緑の箱を彼女に差し出した。
「え、ありがと。私にくれるの?」
彼女は一歩時也に近づいて手を差し伸べて、箱を受け取った。
箱を受け取るときに指先が少し触れてしまい時也は驚いて手を引っ込めたのだが、
彼女は穏やかに笑って。
「ありがとう時也君……」
と呟いた。
「あ、あのさ、女の子に会いに行くとか言っちゃったけど、会いに行ったのは兄さんの友達なんだ」
時也は自分から、事情を説明するつもりは無かったのだが。
「え? そうなの? でも、時也君のお兄さんって確か」
彼女は顔を曇らせた。同じ学校の子はクラス替えがあってもそのことは知っていた。中には正也の葬儀に来てくれた子達も居たはずだ、正也は活発で友達も多かったから。その中に西島明音が居たかどうかは時也は知らなかった。
「うん、去年ね。
その……、会いに行った子と兄さんが文通してて――」
そこから先は言葉がつっかえた。
彼女は顔に疑問符を浮かべながらも話の続きを待っていてくれる。
時也は親以外の誰かにこの時始めて、この話を明かしてもいいかなと思った。
「その子は、去年兄さんが亡くなったことは知らなくて。
僕が兄さんの替わりに彼女に手紙を代筆してるんだ……」
「え!? どういうこと」
彼女には何故か正直に、萌恵には隠してしまった事実を伝えることが出来た。
時也自身、第三者に話すことでこんなに気持ちが楽になるとは思っても居なかったが、話し終えたときの彼女の表情は真剣だった。
「そうなの。
私、サイアクだね。
勘違いどころか、そんな事情があったなんて知らずに」
彼女は時也が女の子と会いに行くと訊いて、やはり焼きもちのような気持ちを抱いていたことを思い返す。14歳の少女としては当然だろうその気持ちだったはずだが、彼の事情を聴いて稚拙なことをしてしまったとこの時早くも後悔しだしていた。
「そんなことないよ、
僕だってこの話は親以外にはいままで誰にも出来なかったから、
それになんか今、訊いて貰っただけで、すっごい肩の荷が下りた気がして。
いきなりこんな話してゴメンね」
話が途切れてしまった。
渡り廊下にも蝉の声が鳴り響いていた。
「おみやげ、受け取ってくれてありがとう」
時也はさっきの話をしたことなんか無かったかのようにそう言った。
彼女にも余計な心配は掛けるわけには行かないし、
自分の問題は自分で解決しようという意思を改めて固めることが出来た。
しかし彼女はそうは思わなかったようで、
「時也くん。お話。聴かせてくれてありがとう。
あの、
私で良かったら相談に乗るから、
その、
なんていうのかな。
私の友達になってくれないかな?」
彼女の告げた言葉に時也はしばらく頭の理解が追いつかなかった。
「え?」
「私、時也君がたまに元気ないの、お兄さんが亡くなったことが原因で、
それで悩んでるんだろうって今まで勝手に思ってて、
気になってたのもあってお祭りにね、誘おうと思ったんだ」
二人の距離はお土産を受け取った時の距離のままで、時也と彼女はすぐ近くで話し合っていた。
「そうだったんだ。心配してくれてありがとう」
時也が言葉を落とす。
「でも、もっと悩みを抱えてるなんて知らなくて、
そんなの、一人で抱えてたらダメだよ」
時也は学校に友達らしい友達は今は居なかった、
兄が亡くなる前はたくさん居たのに、兄の事故のあと、時也の周りからも自然と人が離れていったのだ。
彼女はまるで自分のことのように、少し怖いものをみつめるような眼で真剣に時也に問いかけた。
「だから、友達になって」
時也は今まで、こんな優しい顔をした女性に見つめられたことはなかった。
母親とも違う、クラスメートの女の子というのだけとも違う。
もう一歩内側に入らせてということわりのように感じた。
「――ぼ、僕なんかの友達で良ければ。よろしく」
「うん、ありがとう」
彼女のこの時の微笑みはとても暖かいものだった。
それが二宮時也と、西島明音が親友になる切っ掛けとなった。
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