14歳 夏 一人旅 スタンドバイミー 上

 夏休みに入り、時也は前々から考えていた計画を両親に打ち明けるとともに、父にも自分が兄と入れ替わって、手紙を代筆していたことを打ち明けたのだった。

 父は時也の告白を受けて狼狽えたものの、相手方に直接会って説明したいんだという息子の言葉を聞き、中学二年とは言え彼の熱意に負けてしまい。彼の一人旅を止める気にはなれなかった。


 出発の一日前。神奈川県小田原市の自宅で、

「時也ー、電話よー。西島さんって方からー」

 時也は、母の多佳子たかこに今回随分心配を掛けたなと思っていた。

 正也兄さんが亡くなってからというもの、父も母も元気が無いのに、母には時也が秘密裏に柚原萌恵さんと文通していることを父に意図せず、伏せていて居て貰っていた形だったのだから。時也はこれ以上心配は掛けまいと、いろいろ打ち明ける旅に出て、さらに自分の周りのことは自分でなるべく何とかしようと思うようになっていた。

「ああ、ありがとう。お母さん、学校の友達だよ」

 階段を下りて、一階のリビングで受話器を受け取る。

 母は相手にまで言及してなかったが、そういった意識の一環からか、つい補足する言葉が付いて出てしまっていた。

「もしもし、二宮ですが――」

『もしもし、時也君? 私、西島明音だけど』

「うん、何か用?」

 西島さんは電話では比較的通る声だった。

 クラスではあまり目立たない子だけど、ハッキリしていて明るいところもあるのかも知れない。

『あのね、明後日。小田原のちょうちんまつりでしょ?』

 電話機の横の冷蔵庫に貼ってあるカレンダーを観ると、今日は7月の28日だった。小田原提灯祭りは毎年7月最後の土日に行われる。今年は30、31日だ。

「うん、そうだね」

 受話器の向こうからは思案する様な吐息が聞こえてきた。

『あのね、よかったら一緒にお祭り行かないかな? って。ゴメンねいきなりお家に電話しちゃって。私携帯持ってないから』

「僕もまだ持ってないよ」

『そか。時也君たまーにすごーく元気無さそうな顔するときあるじゃない。だからお祭りとか行けば元気になるかなーって、余計なお世話なんだけど』

 と言って、口ごもったときの彼女の吐息の音は、受話器越しでも優しさを感じられるものだった。時也はこの時始めて、クラスメイトにも自分のことを心配してくれている人も居るのだと気付いた。だが、そんなにすぐにその気持ちを上手く言葉に変えて表現することはできなくて。

「ううん、あり、ありがとう西島さん。なんかわざわざそんなことのために電話してくれて、嬉しいな。ありがとう」

『ううん、いいの。私も一人で行くより誰かと行きたかったから』

 受話器の向こうで笑うショートカットで背がちょっと小さめの女の子の姿が見える気がした。

「誘ってくれてありがとう、でも、僕、明日からちょっと旅行……って言うのかな、行くから」

『えっ。そうなの? 遠い、所?』

 思いの外の返事が来たのでがっかりさせてしまったのかも知れないと時也は思う。

「岐阜県の中津川市。その、ちょっと、どうしても会いたい人が居て、僕一人で行ってくるんだ」

 時也は自分の中での意思を表明したい思いもあって、誰かにこう告げておきたいと思っていた、この電話が良い機会になりそう告げてしまったのだが。

『一人で。すごい。そんな遠くまで、そのもしかして会いたい人って女の子かな?』

 尋ねた明音自身、ずいぶん思い切ったことを聞いてしまったと思ったに違いなかった。まだ時也と自分との仲は始まってすら居ないのに。

「え、ああ、えーっと。そうだよ」

 時也はそれを女の子に打ち明けることになってしまうとは思っても居なかったのもあり歯切れの悪い返事しか返すことが出来ない。

『――そ、そうかぁ。タイミング悪いね、私。気をつけて行ってきてね?』

「うん、ありがとう。そうだ、おみや……」

 ツー、ツー。

 お土産でも買ってこようか? とは言い出そうとはしたものの。その前に電話を切られてしまった。

 電話の向こうの明音も、どうして慌てて切ってしまったのだろうと思ったが、誘うのに相当頑張ったんだなぁ私と、ちょっとほろ苦い想いがしていた。

 電話のこちらの時也も、そうだよね。もうちょっと言い方があっただろうに、これから萌恵さんに会いに行くというのに、これじゃあダメだなぁと反省したのだった。

「はぁ……」

 溜め息を吐きつつ、部屋へ戻ろうとすると、母が後ろから声を掛けてくる。

「時也、岐阜旅行なんて無理して行かないでも、クラスの子と夏休み楽しんだっていいのよ?」

 母と時也の間も、兄と、その手紙の事があったり、時也が思春期だったりして少しギクシャクした仲であることは時也自身承知していた。この母の問いへの答えはどれも正しい回答に結びつくとは思えないこともまた、彼が口にする前から判っていることだ。

「うん、でも、今年は兄さんが亡くなってから一年経つし、どうしても動いてみたかったんだ」

 階段の手すりに掴まって、身体だけ母の方に向けて言う。

 そう、と頷いた母は一年前と同じようにやはり小さいものに見えた。

 母がここ一年で急に老け込んでしまったように見える。父もだが、髪に白いものが混じっているのに、それを染めて隠そうともしていない。

 お母さんは、22の時に僕と正也兄さんを産んだから、今まだ36歳だ。若くしようと思えば、ファッションに気を遣えば、髪の毛だって華やかにすれば、きっと十分に綺麗だし、美人にも見えるはずなのに。はずなのに。

 時也は口に出さずとも、正也を喪ったことが両親に与えた心の傷がどれくらい大きいものなのか良く理解していた。だからそれを敢えて口に出そうとは思ったことは無かった。

「お母さん、僕は大丈夫だからね。ちゃんと柚原さんに伝えてこれられるから!」

 励ましにはならない事は重々承知していたが、弱々しい母にはそうでも声を掛けてあげなければと思う想いが強く。そう口にする。

「うん。時也。岐阜は遠いんだから、無理しちゃダメよ。ちゃんと泊まるのに必要なものとかもう一度確認しておいで」

「はい」

 そう言ってくれたときの母の顔はどことなく兄が亡くなる前の元気な母の面影と重なるところがあって、時也は嬉しくなって階段を上っていった。


 翌朝、父の昌朗まさあきと母の多佳子に玄関で見送られる。

 小田原駅からは新幹線で名古屋まで行き、名古屋からは在来線の特急で中津川へ行く予定だ。父と母はそれでも心配してせめて小田原までは送るから、と言ってくれたのだが、どうしても一人だけで、自分の力だけで行きたいんだと言い張って、時也は今回〝一人旅〟をしよう。と思っていた。

「時也、ほんとに大丈夫なのか?」

「うん、宿の場所と時間とか、タクシーとか、新幹線のチケットとか全部確認したから」

「解らないことがあったらすぐうちに携帯で電話するのよ? あと、向こうに着いて、柚原さんのお家に着いてからも連絡してね」

 母の携帯を持たされたのだった。母は専業主婦なので、家では電話を使うことはあまりないから。

「解ったよ。お父さん、お母さん、あんまり心配しすぎないで? よく可愛い子には旅をさせよっていうじゃんか。ね?」

 そう戯けてみせるのは時也だけで、二宮家では父も母も、これ以上息子が側を離れるのは耐えがたいという空気すらあった。それから逃れたいというのも少しだけあったのだが。

「無理しないでな。気をつけて」

 お父さんですら、これじゃまるで今生の別れのようだ。

「すぐ連絡するから大丈夫だってば」

「行ってらっしゃい!」

 お母さんに至ってはやっぱり行かないで! と泣きついて来そうな雰囲気すらある。時也は小田原駅に向かうのには必要ないのに、早々に自宅前のひとつめの角を曲がって両親の視界から逃れることを優先し、幹線道路沿いに小田原駅を目指した。


 時也は〝一人旅〟をするつもりだったのだが、実際はそうじゃなくて多くの人に支えられて、多くの人のおかげで行ってこられるんだと言うことは幼いなりに解っていた。ポケットにしまい込んでいたぼろぼろになったミサンガを引っ張り出す。

 これは事故当時兄の正也が身に付けていたものでもある。

 ミサンガをみつめつつ。

「兄さん、兄さんと行くんだから一人じゃないよね。

 上手くいくようにみててね。

 柚原萌恵さんにもちゃんと伝えられるとおもうからさ」

 そう言って、リュックの大荷物を背負ったまま、左手と口で器用に右手首にそのミサンガを巻き付けて留めた。


 こうして14歳の夏の時也の旅が始まった。

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