魚と水

 分厚いアクリルガラス越しに差し込む光が、ゆらゆらと彼女のほほを照らしている。

 なだらかな流線型が左右にくねる様子を見つめたまま、そこに立ち尽くしてどのくらい経っただろう。

 あまりにも熱心なその瞳に、僕は声をかけられずにいた。

 親子連れが僕らを追い越す。

 同じくらいのタイミングでこの水族館へ入場したカップルは、とっくのとうに先へ進んだようだった。


「いいなぁ」


 いきなりのその声に、思わず肩がはねた。

 それでも彼女は水槽の中の鮫を眺めたまま、僕にイチベツもくれることはない。

 少しくらい僕のことを気にしてくれても良いのにと思うけど、それを口に出す勇気は僕にはなかった。


 なにが、と、つぶやく。

 僕からしたら精一杯のその問いかけに、彼女は相変わらず鮫を見つめたままで口を開いた。


「キレイに泳げて、いいなぁ」


 ぱちりと目をまたたいて、水槽を眺めた僕は、そういえば彼女はプール授業のときずっとビート板を離さなかったな、なんて思い返していた。

 そんなことを言ったらなんて思われるか分からない。

 だから、僕は素知らぬフリで首をかしげる。


「そりゃ、魚だし」

「それは、そうだけど」


 彼女がむっとほほをふくらませる姿が、アクリルガラスに映った。

 ああ、失敗した。

 女の子はセンサイだから冷たくしちゃだめだとお母さんに言われているのに、僕は守れずについ余計なことを言って泣かせてしまうのだ。

 だから彼女も泣いてしまうかな、と思ったけど、違った――しおしおとほほをへこませて、それでもじっと鮫を見つめている。


「みんなみんな、気持ち良さそうに泳いでて、楽しそうなんだもん」


 そうつぶやかれた言葉は、どことなく落ちこんだような響きをしていた。

 アクリルガラスに映る正面から見える表情も、目玉だけ動かして見えた横顔も、いつもふにゃっと笑っている彼女には似合わなくて、なんだか心臓がざわざわする。


 ――何か言わなくちゃ。


 心臓の音に急かされるように、言葉を探す。

 いつもは余計なことを言ってしまうくせに、どうしてこういうときは、何も言えないんだろう。

 少しだけヤケになって、僕は無理やり口を開いた。


「楽しいのかなんて、分かんないじゃん」

「え?」


 目を丸くした彼女が、僕を見る。

 その表情に見えるのは純粋な驚きと疑問で、一応の目標は達成したと気付く。

 でも、彼女は僕の言葉を待っていた。

 ゆらゆらと照らされながら、僕が何を言うのかじっと黙って見ている。


「……魚が泳ぐのは、泳ぐしかないからかもしれない。僕ら人間は陸にいられるけど、魚は水の中にしかいられないから、しかたなく泳いでるのかも」

「そうかなぁ」

「そうだよ」

「こんなにキレイなのに?」

「キレイって思うのは、僕らの勝手じゃん。魚は必死かもよ」


 ええー、と、彼女はくちびるをとがらせた。

 納得していないっていうのが丸わかりで、上手く言えない僕もつい口をへの字にまげる。


「必死でも、泳いでるよ」


 すねたような声に、ガリガリと頭をかいた。

 もどかしい。


「おまえだって、歩いてるじゃん。息して、しゃべるじゃん」

「それとこれとはちがうと思う」

「ちがわない」

「どうして? 本ばっかり読んでて言ってることむずかしいよ」


 めずらしく食い下がる彼女にいらついて、思わずむにーっとほほを引っ張る。

 痛い痛いと僕の手をはたき落とした彼女がにらみ付けてくるけど、にらみたいのは僕も一緒だ。

 分からず屋め。

 たたかれた手を振りながら、僕はため息をついた。


「魚は魚でがんばって生きてるってだけ。もしかしたら泳ぐの下手なヤツだっているかもしれないし、人間から見てキレイって思う魚ばっかじゃないし、そもそも魚はたぶん人間にキレイって思われたいと思ってない」

「ええー」

「それでもキレイって思うなら、やっぱりがんばってるからだ。ホントは海にいたいのに、こんな水槽に閉じ込められても、がんばって生きてるから」


 ぱちりと、彼女がまた目をまたたいた。

 クラスでは八番目くらいにかわいいって言われてる彼女だけど、僕は三番目くらいにはかわいいと思う。


「……じゃあ、わたしもがんばったらキレイって思ってもらえるのかな?」


 よくしらない顔をした彼女がそうつぶやいたから、僕は、そうじゃない、なんてそっけ無く答えて歩き出した。

 なにを思っている顔なんだろう。

 やっぱり心臓がざわざわして、落ち着かない。




 夏休みが開けて始まった二学期、教室に彼女の姿はなかった。

 羽山さんは急ですが転校しましたと、残念そうに言う担任を僕は茫然として見つめることしか出来ず、どうして転校したのかとか、どこへ引っ越してしまったのかとか、何も尋ねることが出来なかった。

 ただひとつ言えるとするなら、あれから十年と少し経ち成人するまで、彼女と顔を合わせる機会はなかったという事実だけ。


 何気なく付けたままのテレビに、食レポなんてやっている彼女の姿が映し出される。

 希望の大学に通うために実家から大分離れた街へやってきたけど、そこで、こんな再会をするとは思わなかった。

 とはいえ一方的で、そもそも彼女が僕を覚えているのかは分からない。

 デスクに肘をついて、だらしなくテレビ画面を眺める。

 楽しげにレポートする彼女はキラキラと輝いていて、とても綺麗だと、素直に思った。


 彼女が映っていたのは時間にしたら、ほんの数分だ。

 すぐ終わってしまったけど、毎週このくらいの時間に出演しているらしい。

 来週のシフトを替えてもらおうなんて考えながらテレビを消して、ぐっと背伸びをした。

 僕の部屋に置かれた水槽には、水草だけが揺れている。

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ひいなぼん 相良あざみ @AZM-sgr

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