月は欠ける
「岡村さん、班長を降ろしてください」
業務終了後、大村が会議室で岡村にそんな話を持ち掛ける。
岡村は顔を険しくしながら大村の目を見つめると、どんな言葉をかけようかと考える。
「お待ちください、大村さん。僕は貴女がひとつの部署をまとめられている実績を評価をしている。何故、そのような事をおっしゃるのかが僕には解りません」
動揺は隠せないともいえる岡村。どんなに考えても口から出た言葉に嘘はなく、どうにかして大村を止めようと必死になる。
「嫌だわ、岡村さん。私は何も会社を辞めたいとかは申し上げていないのよ」
大村は岡村の態度に苦笑いをして言う。
「解ってはいますが、貴女が班長を降りたい理由が思いあたらない。かといって深くは訊くなんて出来ません。いえ、聞きたいとも思えない程のご事情があるが貴女が今されている仕草にあるのかと思われます」
岡村が見る大村は頻りに頚筋を掌で押し当てている。大村も誘導されたかのように口を開き始める。
「ふふふ、岡村さんには隠し事が出来ませんね。お願いがあります。どうか、心を静かにさせて私が今からお話しをすることをしっかりと受け止めてください」
「勿論ですよ、大村さん。よろしくお願いします」
岡村は生唾を呑み込み、大村の語りを待ち構える。
「リンパ線に腫瘍が見つかったのです。生存率は二年以内とも宣告をされてしまいました。しかし、じっとしているなんて出来そうにありません。此れからご迷惑をお掛けしてしまうけれど、最後まで働きたいのです」
大村は穏やかな口調で言う。そして、岡村に封書を差し出していく。
岡村は大村の前で開封をすると、中に入る白い折り畳まれている用紙を開いて記される文字を目で追って読む。
用紙を持つ手は小刻みに震えて岡村は堪らず目蓋を強く綴じる。
やっとの思いで乱れる呼吸を調えると、大村と顔を正面にさせる。
「貴女は素晴らしい人です。ご要望は受け入れますが、僕は管理職の立場。何処まで今の貴女を守れるかは正直にいえば自信がありません」
「別に大掛かりにしなくても良いのよ。貴方は今まで通りに皆の前で振る舞うで十分なの。私もしれっとした態度を見せるわ」
大村は満面の笑みを岡村に向ける。
「相変わらず明るい性格ですね。此方が呆気に取られる」
岡村は前髪に手櫛をすると、テーブルに置かれている冷茶が注がれるガラスのコップに口を着けて一気に飲み干していく。
「さて、本題に入りましょう。私は既にきめております。宜しいですか、岡村さん」
「僕も貴女と同じでしょう。ユニフォーム班班長はーー」
岡村は大村の後釜として相応しい人物の名を言う。
「此れからも見守りは致しますが、会社の人材として育成するのは、岡村さん。貴方よ」
「ははは、何せ『あれ』ですよ。僕はさぞかし貴女の気を揉ませているだろうと想像をしております」
「私に子供がいれば『あの子』の歳くらいでしょう。其れは其れで楽しいと、思っているから大丈夫よ」
「体調が優れない日はちゃんとお休みをされてください。僕は貴女が治療に専念出来るようにと、人事課に従業員の募集を提示致します」
岡村は大村に右手を差し出す。
大村は「ありがとうございます」と、岡村の掌を両手で挟みむと何度も頭を下げる。
児島由香が正式に『正社員』に登用されたばかりの梅雨空の時期の出来事だったーー。
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