風を薫らせる

 児島由香は知らない。

 大村澄子が大病を患っていることを岡村晴一が知る。


 児島由香は告げられる。

 大村澄子の役職を引き継ぐ。

 岡村晴一が伝えるーー。



 ***



「大村さんをそんな風に見ていたなんて、それでも『課長』なのですか」


 前日が指定休日だった児島由香。休憩時間になったら会議室に来るようにと、出勤早々に岡村晴一に呼び止められた。言われるがままにやって来ると岡村からの言葉に逆上をするかのように感情的な態度を示す。


「児島、勘違いをするな。大村さんが会社の方針に付いていけなくなった」

 顎を突き出して睨み付ける児島由香に岡村晴一は言う。


「理由はどうあれ、私が納得をするなんてありません」

 由香は座る席の前にあるテーブルに掌を押し当てると腰から上を前方にへと傾けていく。


「年功序列より仕事に於いての能力。其処を会社は展開させる。児島、おまえが正社員に昇格となったのはそんな期待も含めてなのだ」

「今は大村さんについてのお話し合い。あやふやにされては困ります」


「休憩時間はとっくに過ぎている。業務に戻れ」

 岡村は由香を促すと先に会議室を後にするーー。



 ***



「岡村さん、あれほど普通に振る舞って欲しいと念を推したのに児島さんを怒らせてどうするのですか」


 大村澄子は昼休みを使って岡村と会社から徒歩5分の場所にある『五笠うどん』の暖簾を潜る。


「売り言葉に買い言葉ですよ。児島の性格は嫌というほど理解をしていたつもりですが、想像以上に食って掛かれてしまった。大村さん、貴女が同席していなくて良かった」

 岡村は大村とテーブル席に着いてお品書きを手に取る。


「海老天うどんと山菜うどん。高菜おにぎりをどっちにも付けて」

 岡村は呼鈴で来た女性店員に流し目で品物を頼む。


「はい、ご注文を繰り返しますーー」

「時間がないから直ぐに持ってきて」

 岡村は店員が言うことを遮って催促をする。


 ーー海老天と山菜、高菜おにぎりをふたつ。


 店内いっぱいに女性店員の甲高い声。聞き耳をする大村は堪らず「ぷっ」と、吹き出し笑いを岡村へとして見せるーー。



 ***



 月日は流れて、大村は言う。

「岡村さん、残念ながら病に負けてしまいました。今後は緩和での療養となります。既に施設に入ることも決定しております」


 時は残酷だ。

 岡村は額の汗をハンカチで吸いとりながら思う。


「大村さん、僕はお別れは言いません。貴女が僕に教えてくれた総てのことを、特に児島にはみっちりと仕込みます」


 大村は首を横に振る。

「『あの子』だけでは駄目よ『あの子』の傍で文句を言わないで付いていってる米屋よねやさんにも平等にしなさい」


「ああ、大村さんは確かに米屋についても会社を担う人材になると見抜かれていました。しかし、今の会社の方針ではーー」


 ーー岡村さん、貴方が風を薫らせるのよ。貴方の行動で濁る空気が漂う会社を変えてくれるーー。


 岡村は大村のか細い声を聞き逃さないと耳を傾ける。


 其れから僅か二週間後。大村澄子は眠るように息を引き取ったと、夫の拓郎から会社に連絡が入るーー。

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