裏に水溜まり

 起床時刻の音を目覚まし時計が6回鳴らして知らせる。

 児島由香はスイッチを手荒く押すと、被る掛け布団をばっと剥がして上半身のみを起こす。

 目を擦り、部屋の隅に置かれているボックス棚の上に視線を向ける。


 手の平サイズの写真盾。額縁に収まるのは頭に黄色い帽子を被り、真新しいピンクのワンピース姿で赤いランドセルを背負う少女の色褪せる写真。


「お姉ちゃん。私、社会人になったよ」


 由香がぽつりと呟くーー。



 ***



 児島由香はキッチンでガス焜炉の火で温めた夕べの残りの豚汁を鍋から貝杓子ですくってお椀に注ぎ込む。


 ご飯を茶碗に盛り付けておかかと刻んだネギとからしを混ぜた納豆を掛ける。

 箸で挟む里芋がつるりとテーブルの上に落ちるが気に止めずに手掴みをすると口の中に放り込んでいく。


 母親の目の前だったら即、説教が始まっていただろう。

 特に姉が逝ってしまってから躾が矢鱈と厳しくなったと、由香は振り返る。


 ーーお姉ちゃんが笑うよ。


 母親について買い物の最中にお菓子売り場でただをこねる。手洗いをしてタオルを使わない。思い出せばきりがないが、口癖のような由香への言葉だった。


 いない姉と比べられている。


 由香がそんなことを思うようになったのは、中学生になったばかりの頃である。


 同級生と馴染めなく、年頃の女子の話題にもついたいけないと休み時間は一人で過ごしていた。


 ーー児島さん、お姉さんがいたらお下がりばっかりだったよね。


 たまに声を掛けられても姉を話題にされてしまう。


 惨めだと由香は思う一方、姉が生きていたならばこんな調子だっただろうとも考えていた。


 だったら、自分にしかできないことをやり遂げる。と、猛勉強をして県内で学力が優秀で有名な進学校に入り、常に上位の学績で名が知られていた。


 国立大学を受けて合格をする。ただし、県内とはいえ由香は地方に暮らしていた。県庁所在地である都市部でアパートを借りて通学をする。と、両親と話し合う。


 ーー私もついていく。


 独り暮らしは心配だと、母親が理由を付ける。父親は渋々と賛同をして二人を送ることを決める。


 離れて暮らす夫婦に亀裂が入るは目に見えていた。

 元々仲が悪かった両親。距離を置く口実に娘の進学を持ち出しただけだった。


 あくまで、由香の解釈だった。


 母親との暮らしは由香としては良いものではなかった。ずるずると時ばかりが流れて学業にも専念ができないほど家計は切羽詰まっていた。


 なんとか大学を卒業したものの、肝心の職とは縁がない日々を過ごすことになる。


 アルバイトをして家計の手助けをする傍ら、就職活動も積極的に行うが何処からも採用通知は届かなかった。


 由香は疲れていた。高望みをすればするほど身が削られていくようでいつか干からびてしまうのではと、想像までをするようになる。


 息抜きにと住まいのアパートから自転車で駆けていると古びた建物が視野に入る。

 排水口を塞ぐマンホールから白い煙がもくもくと噴き上げて、更に目を追ってみると屋根の煙突から雲を象らせるように同じ光景が見えていた。


 由香は自転車を止めて朱色のポロシャツを着てソバージュと厚化粧で場所を歩く女性にこう言った。


 ーー此所は従業員の募集をされていますか?


 次の日、由香は紺のスーツを身に纏い、黒い鞄に履歴書を詰めて『会社』の面接を受ける事となるーー。


 ***


 渡された作業着の色は目が痛くなるほど派手だと、由香はポロシャツの裾を頭に被せて腕を袖に通す。幸いズボンは自前で良いと、ある人に言われていたので紫色のジャージ下を履く。


 ーー岡村と申します。


『あの日』から一ヶ月が過ぎた朝だったーー。


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