第7話


 今朝話題にしたその喫茶店は、大通りから道を二本挟んだ少しだけ奥まったところに店を構えていた。大通りに連なる飲食店の裏側や小さな美容院が並ぶ中で、観葉植物を脇に添えたシックな木目調の建物は、周辺の雰囲気をガラリと変えてしまっている。

 温かな暖色の証明は少し暗めで、落ち着いた雰囲気を醸し出している。話題のお店とは言うが込み入っている訳ではなく、程良く空きがあって余裕のある空間を、ジャズ調の小綺麗な音楽が欧州風の雰囲気に飾りたてる。

 学校帰りという状況から一転したお洒落な空間で、僕は一筋の冷や汗を頬に伝わせた。


「あの、詩織さん。飲食店でスプーンが一本しか出されないのは、どういう根回しの結果なんですか?」

「さあ、うっかり出すのを忘れてしまったんじゃないかしら?」

「そうですか。じゃあ店員さんがさっきから僕の挙手を頑なに無視しているのも、うっかり屋さんだからなんですね?」

「知っている? 私の笑顔、とっても綺麗で素敵なの。人を蕩けさせちゃうなんて御茶の子さいさい。そんな美人に食べさせてもらうんだから、新くんは果報者よね。はい、あーん」

「自分で言うのはなんか違うでしょ……あむ」


 愚痴りながらも、詩織さんに差し出されたスイートポテトを食べる。

 ……うん、甘くておいしい。女の子がおすすめするだけあって、たっぷりのバターのとろける風味がよく利いている。温かいスイートポテトの脇には冷たいバニラアイスが添えられていて、その違う温度のコントラストも、新しい味覚でいい感じだ。

 僕がそんな感想を脳内でつらつら述べている間も、詩織さんは唇の端を少し持ち上げて、じっと僕を見つめている。深い夜色の瞳はまるで万華鏡のように、いつ見ても違う色を見せる新鮮な驚きがある。


「それにしても……今日はやけに積極的じゃないですか?」

「そう? いつもこんな感じじゃないかしら」

「そりゃいつもこんな感じですけど……なんだろう。深みが違う? というか?」


 詩織さんの瞳が、より興味深そうに、僕をじっと見つめる。

 その視線は、ふだんも中々外れることがないのだけれど、今日は特に雰囲気が違った。

 まるで、小説のクライマックスに突入したような真剣味。没頭している、という表現が適切なそれ。

 積極的なのは変わらないんだけど、その一つ一つを、いつもより大事にしているというか。女の子が前髪をほんの少し切ったとか、そういう類の、いつもされているからこそ感じられる、些細な違和感だった。

 その対象が僕だということに、むず痒い嬉しさを感じたりもするけれど、それでもその目は、平凡な女の子がする類のものではない物々しさがあった。


 僕がそう言うと、詩織さんはスプーンをくわえて上を向き、思案顔を作る。詩織さんは間接キスなんて気にしない。だから気にする方が馬鹿らしいのだけれど、僕の目はついついその口元に集中してしまう。

 不意に昼のキスの味を思い出して、口の中がさつまいもとは違う、もわもわとした甘いものに包まれた。頬に種火がぽうっと灯った気がして、水を含んで冷やす。


「そうね……そろそろかもなって、思ってるの」

「何がですか?」

「あの日」

「べふっ!?」


 飲み込んだ水が軌道に突っかかり、盛大にせき込んでしまった。跳ね上がった膝が机を打ち付けて、詩織さんが落としたフォークがカチャンと高い音を立てた。喫茶店でくつろいでいた多くはない人の視線が一気に集中する。


「げふっ! えっふ!? き、気道! 気道がっ! 肺がねじれる!?」

「ふふっ。どうしたの? 新くんはそんなに私の経血が気になるの?」

「超直接的なワードで僕を高濃度変態認定しないでください!」


 悲鳴に近い声で否定する。詩織さんは瀟洒に頬杖をついて、静かに僕を見つめている。


「えっち」

「ち、違いますって……!」

「じゃあ新くんは、私の周期を完璧に把握してカレンダーに○つけたりしている訳なのね。視線を交わしていても、意識はお股の内側にご執心と言うこと……むしろ経緯を評したいわね。さすが新くん、脱帽よ」

「イヤに生々しいですね!? こういう時だけ無駄に想像力を働かせないでくださいよ! あとそんな評価いらないです!」


 精一杯否定はするのだけど、違うことなんて詩織さんはとっくに分かっているのだ。拗ねることもしないし、気持ち悪いとも思っていない。ただ反応をいちいちからかって、楽しんでいる。

 そういう時の詩織さんがどんな彼女よりも生き生きしていて、僕はどうしても、この時間を嫌いにはなれない。


「でも、そうね……新くんはわかるかしら? 何となくなんだけど、なんだか今日は特別な日だなーって思う時があるの。何気ない日常が一番幸せって、しみじみ感じられるというか」

「ああ。なんとなく」


 言われて思い返せば、今日はそういう日に近い気がする。

 卵焼きが焦げずに上手に焼けたとか、朝起きたときの空気が心地いいとか、ご飯がいつもより甘く感じるとか、赤くなった紅葉を見て秋の訪れを感じるとか。そういうちょっといいことは、結構重なったりする。


 それに……朝から、詩織さんにも会えたし。

 口中で一人呟くと照れくさくて、胸の中に甘酸っぱい感情がふつふつと沸いてくる。

 そして、詩織さんは、気分が緩んだ僕の隙に絶妙に入り込んでくる。


「で、ね。私の『ちょっといいことスイッチ』は、ぜーんぶ新くんについてるの」

「えっ?」

「朝から新くんに会えたし、面白いぐらいに狼狽えてくれるし、いっぱいかわいい所見れたし、こうやって放課後一緒に甘いものも食べれたし。まるでフルコースを頂いちゃった気分ね。私、今日は大満足よ」


 そう言って、詩織さんは、その言葉が本当だと証明する笑みを見せた。花弁が開く瞬間を目撃したようで、僕の時間がスローモーションになる。


「さ。新くんも、アイスが溶けないうちに……あーん」


 彼女が緩やかにスイートポテトをアイスと一緒に僕の口に運んで、熱くて冷たくて甘い味覚がじんわりと広がる。

 視覚も味覚も。この一瞬、僕の心は詩織さんが中心になってしまっている。

 詩織さんは、ずるい。好きというあまりに純粋な思いが、僕をぴしゃりと射止めてしまう。


「……楽しそうですね、詩織さん」

「うん。とっても」


 瀟洒な顔立ちで、無邪気に笑う。僕の知る限り、最強のギャップだ。

 スプーンをくれない微妙な気分すら、甘酸っぱいもどかしさに感じてしまう。


「でも、そうね。ちょっと足りないかも。デザートが欲しい気分ね」

「え? ……今食べてるのがデザートでは?」

「私の新くんフルコースは、まだメニューが埋まっていないのよ」

「どこの美食家ですかあなたは」


 詩織さんがすっと目を怪しく美しく細める。今日は特に頻発する表情。ああ、これはからかう目だ。


「ねえ。新くんは、頬に白いクリームがたら〜っと垂れて『んっ……やぁっ、つめたぁい♪』とか過剰に反応する女の子っていう喫茶店の定番シチュエーションは好き?」

「大分エッジの効いた定番ですねそれは」

「でも一応やってみようかしら。こうやって、いかにも口からこぼれちゃった、みたいに……」

「いいですいいですやらなくていいですから! 食べ物で遊んじゃダメですって!」


 そう言って僕が制した時には、もう時すでに遅く。

 僕が詩織さんの手を掴んだことで、すでに持ち上げられていたアイスクリームはスプーンからこぼれ落ち、詩織さんの胸元にぽたりと落ちてしまった。

 あっと思ったのもつかの間。僕の鼓膜が揺さぶられる。


「はぁ……っ」


 詩織さんが僕の耳に向けて、艶っぽい吐息を吐きかけてきた。甘い風が耳をなぞって、ぞわぞわが体中を駆け巡って腰が砕けそうになる。

 今の……絶対狙ってた。

 顔がかぁっと熱くなったことが自分でも分かる。弾かれたようにつんのめっていた体を戻すと、詩織さんは胸元を気にしながら、上目遣いでこちらの反応をしっかり楽しんでいた。


「……ふう。こんなこともあろうかと、胸元を大胆に開け広げておいて正解だったわ。私ってば用意周到ね」

「そういうのはしたたかって言うんだと思いますよ?」


 今日の詩織さんの攻め手は緩まない。アイスの小さな塊は詩織さんの艶やかな肌色に落ちて、谷間に向けてツーっと雫を落としている。下着までは見えないけれど、露出した肌色からは胸元の膨らみが確認できる。無防備すぎて、誰かに見られないかと気が気ではない。

 僕が見るべきか見らざるべきかの葛藤を繰り広げている間に、詩織さんはひらりと優雅に席を立つと、僕の隣にすとんと腰を落としてきた。艶やかな黒髪がふわりとゆれて、女の子の匂いが鼻孔をくすぐる。

 肩が触れ合うような至近距離。理性がどうとかいう段階じゃない強制力が視線を下げさせて、胸元の膨らみに意識を集中させる。

 それを全部見越した上で、詩織さんはシャツをちょいちょいと引っ張った。


「食べて?」

「……えっ、え?」

「食べ物を粗末にしちゃいけないんでしょう? だから残さず食べちゃってね」


 指先でアイスのついた肌をなぞる。ふにんと指が柔らかそうに沈み込んで、白い滴が伝っていく。谷間の方にも伝って、今にもこぼれてしまいそうだ。目にぎゅうっと力が篭もって、視線が固定されてしまう。

 詩織さんが愉しそうに微笑む。ささやき声が、僕の耳を優しく撫でる。


「んっ……でも、ほとんど溶けちゃったわね。これじゃあスプーンは使えないわ……舐めとるしかないかしら?」

「ぁ、ぅ……」


 僕の動揺をさらに煽るように、詩織さんが腕を寄せて胸を持ち上げる。まるで差し出されるように、二つの柔らかなボールが弾んだ。


「ふふっ。わたしはぜーんぜん、気にしないわよ? 新くんが……わたしを食べちゃっても」

「っ——」


 甘い声に耳元で囁かれて、ぷちんと音がしたような気がした。

 僕の反応は素早かった。一瞬でテーブルに手を伸ばしてナプキンを抜き取ると、疾風の速度で詩織さんの手に握らせて、胸に押しつけさせた。


「ひゃっ」

「ふ、服が汚れるとまずいですから。自分でちゃんと拭いてくださいっ」


 びっくりしたような詩織さんにあえて突き放すように強めに言って、僕は体ごと逸らして詩織さんからそっぽを向いた。

 胸がドキドキと高鳴って、耳を中から揺さぶっている。危なかった……今の攻撃は、強烈すぎた。

 ただでさえ美人で、近くにいることすら慣れなくてドキドキが止まらないというのに……あんなにも扇状的に迫られたら、平常心で接することは絶対に無理だ。

 さすが定番シチュエーション。テンプレにはテンプレたる所以があるんだ。こんなの、目の前でされたら誰だってくらりとくるに決まって——


「新くん」


 ちょいちょいと、後ろ肩をつつかれた。まだ何かあるのだろうか。半ばやけくそに、僕は体を回す。


「はい? ——もぐっ」


 振り向いた瞬間、返事をしようとした口に何かが押し込まれた。ガサガサする奇妙な感触が。口の中を蠢く。


「ふぁ、ふぁんですかこれ……紙?」

「ぴんぽーん」


 詩織さんがくすくすと笑う。押し込まれたのはテーブルに備え付けられている紙ナプキンだった。薄く堅いざらざらした感触が、僕の唾液で塗れて小さくなっていく。

 突然の行動の理由が分からず、僕は瞠目して固まってしまう。


 すると、くわえさせられえていた紙から、ふんわりと甘いバニラの香りが染み出してきた。

 バニラビーンズがふんだんに使われた、薫り高くまろやかな味わい。さっきまで食べていたそれに、すぐに合点が行く。詩織さんは、零れたアイスを拭ったナプキンを僕の口に入れたのだ。


「っ……!」


 それに気づいた瞬間、気が動転して目が白黒する。

 零した箇所なんて、一カ所しかない。僕の瞼の奥に、柔らかく指の沈む詩織さんの胸が蘇る。


「ふふ……こういうのも、間接キスって言うのかな?」


 僕の腕に両手をそっと絡めて、詩織さんは耳元で、アイスよりも甘くまろやかに、囁いた。

 僕は何度顔に火を灯せば気が済むのだろう。自分が口に含んでいるものの大変さに、大慌てで席を立ち上がった。勢いよく紙を噛んで小さくすると、ぐしゅっとバニラの味が染み出した。


「ちょ、ちょっとトイレに行ってきます!」

「いってらっしゃい。十分ぐらいあれば足りるかしら?」

「なに考えてるんですか!? ただのトイレですよ何もしません!」


 ひらひらと優雅に手を振る詩織さんに見送られて、僕はトイレに小走り。どうやら一部始終を見ていたらしい若い女性のウェイトレスさんが、トレーで顔を隠しながらこちらをチラチラと見ていた。


「うぅ……動揺しすぎだろ、僕」


 つい、そんな自責の念に駆られてしまう。洗面台から顔を上げると、自分の童顔が恨めがましく僕自身を睨んでいた。顔はまるでゆで上げられたみたいに真っ赤だ。

 毎度毎度、ほんのちょっとした性的なアピールに、泡を食ったように狼狽えて、女の子みたいに過剰な反応をして。いい加減慣れろよ、と僕の冷静な部分がやれやれと諦観する。

 向こうが一方的に告白してきて、まだ実感もないとはいえ……仮にも僕は、詩織さんの彼氏。だというのにこの体たらく。男として情けなくなってしまいそうだ。


「詩織さんも詩織さんだよ。人目とか全然気にしないんだもんなぁ……」


 詩織さんにとって、僕をからかってかわいい反応を楽しむことは、他の何よりも優先度が高いのだ。それに、それだけ情熱をかけているからなのだろうか。詩織さんのからかいはバラエティに富んでいて、僕を慣れさせない。


 いったいどれくらい、僕の事を考えているんだろう。

 いつだって僕は、詩織さんの手のひらの上だ。


「……すごかったな、今回のは」


 新鮮な驚きに、思わず口元が緩む。

 滅茶苦茶恥ずかしくて、照れてばっかりなんだけど、それでも趣向を凝らした詩織さんの大胆な行動は、やっぱり楽しかったりする。


 ……それだけ、詩織さんが真剣に楽しんで、僕が好きでいてくれるということだから。

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詩織は多くを語らない brava @brava

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