蟻としての生き方

天邪鬼

蟻としての生き方


 彼女は天才だった。


 高度な知能を持つだけでなく、身体も周囲より一回り大きい、まさに申し分ない存在だった。


 だが彼女は、短い生涯の中でたった三つだけ間違いを犯した。



 一つ目の間違い、それは彼女が蟻として生まれてしまったことである。一つ目にして最大の間違いだった。

 蟻として生きるには、彼女はあまりに頭が良すぎたのである。


 生まれてすぐの彼女は動くこともままならなかった。そしてそのことは、彼女にとってこの上無い苦痛であった。

 暗い巣穴、それも幼虫は大切に奥深くの部屋で育てられる。そこで彼女は退屈な日々を送っていた。入ってくる情報量が、彼女の知識欲を満たすには少なすぎたからだ。


 知見を広めたい、深く考察がしたい。その高い知能をもて余すことほど、彼女にとって辛いことはなかったのである。

 彼女は知識を渇望したが、巣の内外を行き来する働き蟻に羨望の眼差しを向けることしかできなかった。


 恋慕とも言うべき、外界に対する強い憧れを胸に、彼女は蛹になった。それはまるで深い眠りの中で、桃源郷を夢見る少女のようであった。



 次に目が覚めたとき、彼女は自由に動く身体を手に入れていた。これで念願の巣の外の世界を見れるのかと思うと、彼女の知的好奇心はすこぶる高揚せずにはいられなかった。


 羽化したばかりの若い蟻は巣の中の仕事に従事することがほとんどだが、彼女はというと働き蟻に混じって外に抜け出しては、未知の世界を求めて歩き回った。


 そうしてついに彼女の知性が、その本領を発揮し始めた。

 彼女は羽化から三日目にして、物理法則を理解した。本能的に持つ知識としてではなく、構造的かつ体系的に理解した。

 それだけではない。彼女は一度見た景色、触覚で得た情報を決して忘れることはなく、羽化から五日目にして自分たちのテリトリー内の地形を完全に把握した。


 それでも彼女の知的欲求は留まることを知らず、さらに遠くの世界に思いを馳せるようになった。


 しかし彼女は自然だけでなく蟻社会のこともよく理解しており、他コロニーのテリトリーに入ってはいけないことも了解していた。仕方なく未知を追求する冒険を諦め、彼女は自らが所属するコロニーの駒の一つになることを選んだ。



 そして少しずつ、彼女は自然への興味を忘れていった。


 だが彼女は、やはり優秀だった。毎日同じことを繰り返すだけの巣の中の生活でも、多くのことを吸収していった。


 そうして彼女は、卵や幼虫の世話をするうちに二つ目の間違いを犯した。

 もっと正確に言うと、彼女のあまりに発達した知能が、彼女に間違いを犯させたのである。


 二つ目の間違い、それは彼女に他を思いやる情の心が芽生えたことだった。

 情け容赦ない虫社会で同情を覚えてしまったことが、さらに彼女を苦しめることとなる。




 彼女は一年間巣の中だけでの従事をした後、兵隊蟻として外との行き来を許された。

 久しぶりに見た外界の空は、広く、深く、彼女の身体をゾクゾクと震わせた。

 それはある種の恐怖であった。

 しかし、自然への畏怖は次第に興奮となって、再び彼女の身体を震え上がらせた。


 もっと遠くに行きたい、もっと新しい世界を見たい。ありとあらゆる経験をしたい。彼女が一度は失ってしまった知的欲求が生気を取り戻したのである。

 長い間、彼女の心の奥底に無理矢理押し込められてきた未知へ対する欲望はもはや、三大欲求にも勝るものへと変貌していた。


 雲一つない、無表情で冷酷にさえ思える澄みきった空を、彼女はじっと見つめ、今にも暴走しそうな沸き上がる熱情を必死に堪えていた。


 テリトリーやコロニーなどといった束縛は、そのときの彼女にとってはもう問題ではなかった。いざとなれば、他の蟻と戦ってでもここを抜け出し旅をしてやろうと思った。彼女の志はそれほどに高いものだったのだ。


 もちろん彼女は、自らに残された寿命があと一年足らずであることも知っていた。この短い時間で、少しでも遠くへ行きたい。彼女は今すぐにでも冒険に出ようと考えた。


 そのときだった、危険信号を出しながらこちらへ向かってくる仲間の働き蟻を見つけた。

 外敵の排除、それが兵隊蟻たる彼女の新たな仕事だった。


 彼女は働き蟻の残した匂いを頼りに、数匹の仲間と敵のもとへ向かった。

 こんなことをしている場合では無いのに、と彼女は苛立った。


 しばらく行くと、確かに侵入者がいた。隣のテリトリーの働き蟻らしかった。

 さっさと殺して、できることならついでに自分も逃げ出してしまおう。そう考えた彼女は真っ先に侵入者へ向かっていった。


 だがその直後、彼女は歩みを止めた。彼女の中にある疑問が浮かんだのである。


 侵入者は確かに他テリトリーの蟻だった。匂いが違う、仲間ではなかった。

 しかし、近づいて初めて、侵入者が自分たちと全く同じ姿形をしていることに気が付いたのだ。

 なぜテリトリーを侵すことがいけないのか。なぜ匂いが違うだけで戦わなくてはならないのか。なぜ共に暮らすことができないのか。


 次々に浮かぶ疑問が彼女の集中を奪った。ふと我に返ると、侵入者はすぐ目の前にいて、今にも彼女に噛みつこうとしていた。

 しかし刹那、敵の動きが止まった。そして突然痛みにもがき苦しみ始めた。


 すでに仲間の兵隊蟻が敵を取り囲んでいて、一斉に四肢に噛みついたのだ。

 彼女の所属するコロニーは特に好戦的だった。それゆえ、侵入者に対して追い出すだけなどという生温い戦い方はしなかった。敵の四肢を数匹でくわえてそのまま引っ張り、八つ裂きにする。それが彼女たちのやり方だった。


 彼女もつい先ほどまでそうするつもりだった。しかし彼女に芽生えた情はそれを許さなかったのだ。無意味に互いを害し合う理由が分からなかった。

 自分たちのテリトリーを増やすことになんの意味があるのか。今あるテリトリーで十分ではないのか。なぜ人口を増やさなくてはならないのか。

 次から次に疑問が生じては、彼女に容赦なく降りかかった。


 そしていかに優秀な彼女といえど、それらの答を見つけることはできなかった。なぜなら増殖の原動力は生物の本能、そこに論理的思考は一切内在しないからだ。


 もちろん彼女がそのことに気付くまでに、さほど時間はかからなかった。彼女は解を探すことを諦めた。


 そして次の瞬間には、仲間の脚に噛み付いていた。兵隊蟻の中でも特に身体の大きい彼女なら、仲間数匹を相手にしても十分に戦えた。

 彼女は必死に仲間の身体を、侵入者から引き剥がした。だがそれでも、仲間の蟻たちは侵入者を襲うことをやめなかった。


 彼女の努力もむなしく、間もなくして力尽きた侵入者は息絶えた。


 次に他の兵隊蟻の攻撃の対象になったのは、他でもない彼女だった。気付けば援軍も到着していた。


 彼女は走った、とにかく走って逃げた。


 しかしこの時、彼女の心はかつてないほど高鳴っていた。

 命を狙われる恐怖にではない、ようやくテリトリーの外に出ることができたという喜びにうち震えたのだった。


 どれだけ走ったかは分からなかったが、とにかく彼女は追っ手を振り切った。

 こうして、彼女が夢に見続けた冒険がようやく始まったのである。




 三つ目の間違い、それは彼女が自然を侮っていたことだった。


 彼女は確かに賢かった。しかし彼女は所詮、自らのテリトリーの中のことしか知らなかった。自然の持つ絶大な権力を推し量るには、情報が少なすぎたのである。


 彼女は旅の中で、多くの他の虫に出逢った。空を飛ぶ生き物に出逢った。水中を泳ぐ生き物に出逢った。彼女の数百倍もある大きな動物とも出逢った。

 何度も何度も命の危険に晒されたが、その優秀な頭脳と強靭な身体を武器に、なんとか危機を振り切った。


 そんな死と隣り合わせの日々の中においても、彼女は幸せを感じていた。毎日毎日、歩けば歩くほど新たな発見があった。彼女にとってそれは至極の快楽だったのだ。



 彼女は山を知った。川を知った。

 存在するかも分からない世界の果てを目指して進み続けた。


 しかし、彼女の旅は思いもよらぬところで終わりを迎えた。


 ある雨の日のことだった。

 ちょうど沢筋に入ってしまったことに気付いた彼女は、鉄砲水を恐れ雨の中を走り回っていた。

 彼女には蟻ゆえの弱点があった。それは視力の悪さだ。

 まして雨の日は触覚から得られる情報も少なく、ルートをまともに選定できない状況で、沢筋からの脱出は困難を極めた。

 それでもなんとか沢を抜け出たところで、彼女は何かに身体を押し潰された。


 土砂崩れだった。彼女は何が起こったのか、その明晰な頭脳で考える間もなく短い生涯を終えた。



 果たして彼女は不幸だったか。


 先にも述べたように、彼女は三つ間違いを犯した。


 もし彼女が野望を捨て、コロニーに留まっていたのなら、もっとまともな死に方をしただろうか。

 もし彼女が情を持たなければ、優秀な兵隊蟻として仲間から慕われただろうか。

 もし彼女が蟻でなく、もっと高尚な生物として生まれてくることができていたのなら、その知性を有効に使うことができただろうか。



 果たして彼女は不幸だったか。


 しかし彼女がその小さな身体で、果てしなく膨らむ知的好奇心に大きな興奮と悦びを感じていたのも、また事実である。

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