あなたの名前を教えてください

水谷 悠歩

あなたの名前を教えてください

「あなたの名前を教えてください」

 リビングの真ん中で行儀よく正座した少年は、空色の瞳でわたしをじっと見つめ、淡々とした口調で尋ねた。

 わたしは腰をかがめて相手に目線を合わせると、生まれたての赤ん坊でも分かるよう、ゆっくりとした口調で答えた。

「わたしの名前は、あおい

「あ、お、い」

 少年は表情を変えぬまま、一つ一つ音節を区切りながら復唱した。

「そう、葵。よろしくね」

「それはどのような表記になるのですか」

「……表記?」

 まだ学習が足りていないのか、やや堅苦しい言葉遣いに眉をひそめて苦笑しつつ、少年に向かって答える。

「えーと、……漢字一文字で植物の『葵』なんだけど、この説明で分かるかな?」

「はい。『三つ葉葵』の『葵』ですね」

「うん、それで合ってる」

 見た目以上に賢い子なのだと、改めて感心する。

 さて、自分の名前が伝わったので、今度はわたしが尋ねる番だ。

「それで、君の名前は?」

「僕はクレモンといいます」

 彼のファーストネームが「Clement」という綴りであることは、マニュアルに記載があったので知っていたものの、想定していた英語の発音ではなかった。でもこちらの方が彼らしくて可愛らしい。

「素敵な名前だね。フランス語かな?」

「はい。父につけてもらいました」

「なるほど。――ちなみに、クレモンってどういう意味なのかは知ってる?」

「はい。『温和』という意味のラテン語が語源ですよね」

「よく知ってるね」

 手を伸ばして頭をそっと撫でると、クレモンははにかんで小さくうつむいた。この家で起動してからずっと無表情だったので、こういう人間らしい表情もできることを知って、ほっと胸をなで下ろした。

「さっそくだけど質問してもいいかな?」

「はい」

「クレモンは何が得意なの?」

「僕は役立たずなので、何もできません」

 瞬きもせず、空色の瞳でわたしをまっすぐ見上げ、クレモンは答えた。

 ――その言葉が意味するものを瞬時に理解し、わたしは胸が痛んだ。

 決して謙遜ではなく、本心でそう思っているのだろう。まだほんの少し言葉を交わしただけだが、彼はとても聡明な子で、相当の知識を有しているのは明らかだ。それでいて自らのことを「役立たず」で「何もできない」と答えざるを得なかった、これまでの彼の境遇を思い描き、心から同情した。

 でも、今日からは家族の一員だ。彼の味方となって少しずつ居場所を整え、心も解きほぐしてやりたい。

 黙ったまま見つめていると、クレモンは静かに頭を下げた。

「どうか僕に色々なことを教えてください、葵」

「……もちろん。一緒に頑張ろうね、クレモン」

「はい。よろしくお願いします」

 そう言って、目元に小さな笑みを浮かべた。わたしも微笑み返す。

 そのとき、不意に部屋の壁時計が鳴った。二人で同時に見上げると、針が夜の十一時を示していた。

 本当はもっと話をしたかったが、わたしたちの関係はまだ始まったばかりだ。互いに知らないことはたくさんあるものの、焦る必要はない。ゆっくりと時間を掛け、一つずつ覚えていけばいい。

「さてと。とりあえず初期設定はこんなところかな。今日はもう時間も遅いからこれくらいにして、続きは明日にしようか?」

「はい」

 わたしは顔を上げると腰に手を当て、辺りを見回した。

 一緒に届けられたはずの段ボール箱が部屋の隅にあるのを見つけると、近づいてガムテープの封を開け、中から一冊のバインダーを取り出した。

 クレモンのところへ戻り、手渡しながら補足説明をする。

「これが運用マニュアル。最初の六ページだけでいいから、時間があるときに目を通しておいてくれるかな?」

「はい。分かりました」

 わたしは無言でうなずくと、コーナーソファまで移動し、腰を下ろした。まだ床で正座したままのクレモンに顔を向けて目を細め、小さく手を振る。

「じゃあ、わたしはここで寝るから」

「はい」

「おやすみ、クレモン。いい夢を」

「はい。おやすみなさい、葵」

 ゆっくりと立ち上がったクレモンはわたしに近づくと、背伸びをしながら顔に手を伸ばし、前髪をかき分け、額にあるスイッチを押した。

 スリープモードに移行したわたしは静かに目を閉じ、夢の中へと入っていった。


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