想像小説2

相川由真

世迷言


 まず初めに、この話は壮大な物語や高尚な物論などではなく、陳腐な個性を徒らに振り翳し、反吐のような自分の汚点を他人に撒き散らすことでしか自己を確立出来ない哀れな僕の、八つ当たりにも似た衝動が産み出した世迷言であることを理解しておいてほしい


「どうでもいい」


 それが僕の口癖だった。

その言葉が僕の唇から放たれることに、僕の意思は反映されていない。


 十数年という、長いというべきか短いというべきか、判然としない時を経て、細胞の一つ一つに染み込んだ自己防衛の精神が、勝手にその言葉を紡ぎ出すのだ。


 どうでもいい。


 そのようにして、何物にも固執しなければ、何物にも属さなければ、傷つくことは無い。

宙を舞う塵芥のように、僕という存在には深く語るだけのものが無かった。

どうでもいいという言葉で、何も詰まっていないことすらも隠してしまえば、何物にも糾弾されることは無い。


 感情を失った廃人になれたらどれほど楽だろうか。

 糞尿を撒き散らす痴呆になれたらどれほど楽だろうか。


 空虚を装うニヒリストを気取った少年のような自分を、見下す自分もまた確かに存在している。

狂おうとしても狂えない感覚とは、このような状態を指すのだろうか。

思考する僕を、僕は彼の右肩の辺りでどうでもいいと見下していた。


 人生というものを指して、そこに自論を挟んで高尚な言葉を連ねたところで、その最終到達点は空虚だけだ。

語りえぬものを語ろうと努力したところで、朧げに浮かび上がったその輪郭はあまりに巨大で、捕らえどころがなく、僕たちを完膚なきまでに絶望させる。

今日もまた、頭の中にペンを走らせ、書いては消し、書いては消し、日が沈む頃には、何も残らなかった。

物心から繰り返してきたこのルーティンの比重はあまりに大きく、消し屑だけが残った空虚な自分を、どうでもいいという言葉の陳腐なベールに被せて、何者にも触れられるように隠した。


 うんざりだ。

既に止め方すら忘れてしまったルーティンは、壊れたゼンマイのように回り続ける。

黙々と虚無を積み重ねている僕自身が、その行動が如何に無益であるかを理解しているのに。


 うんざりだ!

頭の中で吠え猛る獣は、霧に飲まれて消えた。



 鳥が囀る。



 狩人は猟銃で鳥を撃ち落とした。彼から流れ出る血は青色だった。そこから無尽蔵に広がる宇宙は瞬く間にメルヘンの世界を飲み込み、僕はそこに暖色の絵の具をぶちまける。


 何も止められなかった。


 今日も嘆く。プルトニウムの雨が世界を終わらせてゆく。



「いい天気だね」


 僕は、テーブルの向かいに座る彼女に語りかける。


「うん」


 僕の目は、何の異常も無い筈なのに。

 テーブルの上のカプチーノが細やかに立てる湯気も、窓のサッシに薄っすらと積もった埃も視界に収めることが出来るのに、目の前に佇む彼女の顔だけは、見えなかった。


「ずっとこんな日が続けばいいのに」


 そう言って、彼女はカプチーノに口をつけた。

彼女の目は、いや、彼女の頭は、一体何を見据えているのだろうか。


「今どんな気分?」


「幸せだよ」


 彼女は微笑んだ。

その表情には靄がかかっていて、実際のところ彼女がどんな顔をしているのか分からなかった。

けれども、少なくとも僕には、笑っているように見えた。


「大好きだよ」


「僕もだよ」


 何百回目かの予定調和。


 きっと、何千何万回とこのやり取りを繰り返しても、僕は変わらず嬉しい気持ちになるのだろう。

彼女のことだけは、どうでもいいと掻き消すことが出来ない。

それなのに、他の有象無象はよく見えるのに、僕は、僕の中の唯一と言っても過言ではない彼女の顔すら見ることが出来ないのだ。

頭の悪い人間が書いた文章を読み解くようなまごついた感覚が、僕を焦せらせる。


 一体何に追われているのだろう。


 そのように思考することもなく何かに追われていると断定して、僕の唇は何かから逃げる為に言葉を吐く。


「大好きだ。君と出会えてよかった。君が居ないと駄目になりそうだ。でも君がいれば、僕は何にでもなれる気がする。君が望むものをあげたい。君の言葉の一言一句を聞き漏らさず、全てをそのようにしたい。ねぇ、何が欲しい? 何か苦しいことは無い? 辛いことも苦しいことも、何もしなくていいよ。君はただ笑ってくれればそれでいい。それが空虚だと言うなら、敢えて困難に挑む君の選択を尊重する。僕は全力で君のことを応援したい。でもどうしても疲れたら、何もかも嫌になったら、その時は僕に話してくれると嬉しいな。どんなことがあっても僕は君の為に在るから。だからお願いだ」


 居なくならないでくれ。

 荊のようなその言葉を無理矢理飲みくだした。

 胸が張りさけるほどに痛かった。



「大好きだよ。貴方はいつも私が欲しい言葉をくれる。安心させてくれる。私ね、本当は自分に自信が無いの。皆が出来てることが、何故か私には出来ないの。性格だって悪いんだよ。優しくしてくれる人にはすぐ媚びる癖に、私はいつも何も返せないの。もう、好き。凄く馬鹿で、何言ってるのか分からないかもしれないけど、拙いかもしれないけど。私の気持ち、ちゃんと受け取って欲しいな。もう私、貴方が居ないと駄目なのかもしれない。お願い、お願いだから」


 僕達は人目も憚らずに指を絡ませ合い、見つめ合った。

僕は、自分の右頬に熱いものが伝うのを感じることが出来た。


 彼女は――――



 鏡合わせのように、僕は自分の心を照らし合わせ、彼女の中身を推測する。しようとする。

 僕の中には顔が見えない彼女しか居なくて、僕は、彼女もきっとそうであると、信じてやまなかった。

或いは、そう思い込むように努めていた。



 頻繁に会い、毎日のように通話した。その度に、愛してると伝えた。

お互いの意思の伝達に齟齬が無いと主張するように。

段々とその頻度は低くなってゆく。

彼女の顔は見えないままだ。 会わなくなっていった。最後に声を聞いたのはいつだろうと、数秒考えなければ分からないくらいに、僕達のコミュニケーションは少なくなってゆく。


「愛してるよ」


「ありがとう」


 そうじゃない。


 僕が欲しいのはそれじゃない。

私もだと、共感して欲しいだけなのに。


「愛してる」


「うん」


「愛してるよ」


「ありがとう」


「愛してる」


「分かってるよ」


 違う。違う。違う。


 胸倉を掴み、その見えない顔に張り手を見舞いたい。いや、その嫋やかな指先に触れ、温もりを再認識したい。


「愛――――」


 気付けば本当に彼女以外に何も無くなっていた。

仕事も辞めた。彼女に会えない時間がもどかしく、彼女が褒めてくれた絵を描くことも辞めた。彼女が褒めてくれた、気慰み程度に書いていた文章も全て放棄した。彼女が褒めてくれた歌を歌うことも辞めた。


 彼女を連想する全てを、意図的に葬っていった。



 改めて、自分というものを見つめてみる。

 暗渠に蠢く泥が見えた。

それを掬い取ろうと両手で触れてみるが、どうしたことか全く触感が無い。

更に不思議なことに、僕はその泥を掬えないということを、頭の中の、僕という意思が干渉し得ない深奥の部分で理解していた。

 それが哀しくて、僕は膝を抱えて泣いた。

アスファルトが崩れ落ち、僕は泡沫のように、落下してゆく世界の何も無いところを漂っていた。

 崩れ落ちたアスファルトの欠片が向かう先は、深い闇だ。

その闇をじっと見つめていると、僕はその一番深い部分に吸い寄せられているような錯覚に陥った。

けれども、身体は変わらず宙を漂うままで、虚脱感だけが僕を支配していた。


「分からないの」


「何が」


「全部」


 そう言って、彼女はカプチーノを啜った。

気付かないふりをして、漂う腐臭に蓋をして目を背け続けていたが、現実はどうやら僕の首筋に牙を立てていたようだ。


「僕のこと、愛してる?」


「分からない」


 彼女の顔が、見えない。

どうして僕は、あの時彼女が微笑んでいると、喜んでいると、盲目的に信じることが出来たのだろうか。

 あの時の僕と今の僕の何が違うのか、一体誰が教えてくれるのだろうか。


 鏡合わせのように、僕は自分の中にあるものを照らし合わせて彼女の心の中を覗こうとする。


 何も見えなかった。

しかし、不思議と焦燥感は無かった。

僕は最初から、彼女の内面について何も知らないということを知っていた。

自分という空っぽな器の中に詰め込まれた彼女という存在にだけ目を向けて、気付かないふりをしていただけなのだ。


 愛しているか。

その問いに対する答えがそうであることに焦りがあったならば、僕は最初から、ジャケットのポケットにナイフを忍び込ませたりはしなかっただろう。


 空っぽな器に詰め込んだ彼女が溢れてゆく。

湛えた水をひっくり返したように、それはどう足掻いても再び器に収まることは無い。


 空っぽであることに疲れてしまった。


 結局、彼女を僕の中に詰め込んだことによって、僕という存在が何らかの進歩を遂げることは無かった。


 延命治療のようなものだ。

僅かに生き長らえたところで、僕に何も無いのだから、何かを成すことも進歩することもあり得ない。

最初から分かっていたことなのに、僕は何を期待していたのだろう。

もういい。そのような無粋な思案に更けたところで、空っぽだから、空っぽだから、僕は――――


「疲れたね」


 せめて、空っぽな僕でも、彼女の中の何処かにいられるように。

蜘蛛の糸に縋るような、醜く身勝手な祈りを込めて――



 ジャケットのポケットから顔を出した鈍色の刃は、僕の首筋を穿つ墓標となる。


 赤い血は流れているだろうか。

 彼女はどんな顔をしているだろうか。

 何も分からなかった。だから僕は――――


 目を閉じた。

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