八 油小路事件
慶応三年(一六七八年)十月十四日、京は二条城に居留中の江戸幕府第十五代将軍、徳川
大政奉還と呼ばれるこの一大事は、佐幕派と倒幕派、武家と公家との複雑な抗争が続く京都のみならず、日本中を揺るがした。
慶喜公の狙いは、二百六十年余り続いた幕藩体制の改革を徳川家の主導で行うことと、倒幕派の急先鋒である長州や薩摩が幕府を相手取って開戦するのを防ぐことであった。
このとき、慶喜公は確かに政権を天皇に返上したが、武家の長たることを放棄したわけではなかった。朝廷の中心である公家連中は佐幕寄りの立場の者が多い。ゆえに、全国の大名による合議が始まることになるとしても、徳川家の力はさほど失墜しないと見られた。
大政奉還を受けて、伊東は一和同心を軸とする案を練り直し、新たな世の政を提言する建白書をしたためた。
斎藤が知る限り、十一月上旬までに書き上げた建白書は五通に上る。伊東は、朝廷や徳川家との対話を試みる一方で、新撰組の近藤とも語り合いたいと望んでいた。時局が変わった今ならば互いに歩み寄れはしないかと、伊東は対話を求めたのである。
今こそ伊東は近藤や土方の誘いに乗るだろう。その知らせを携えて、十一月十日、斎藤は高台寺を抜け出した。
普段と何ら変わらぬ昼下がりだった。
伊東が、ここの椿はまだ咲かぬらしいと、少し寂しげに笑っていた。藤堂が、
「さよなら」
吐息のようにつぶやいて、斎藤は東山の坂道を駆け下りた。
底冷えのする寒さの中でも体はたちまち火照ったのに、胃の腑は凍えるように痛んだ。
塩小路堀川の辻のそばにある新撰組屯所まで、斎藤は駆け通した。何度も噛み締めた唇と、きつく握って爪を立てた手のひらは、あちこち裂けて血をにじませていた。
屯所に戻った斎藤を、近藤や土方、永倉、原田たちは迎え入れた。
斎藤は、今なら伊東が近藤の誘いに応じるであろうと、淡々として告げる己の声を聞いた。御陵衛士の面々の様子、大事が起こった場合の役割分担、伊東が通じている相手、連携を望む相手。そうした事柄を逐一、覚えてきたとおりに語った。
近藤が微笑んで斎藤をねぎらった。
「よくやり遂げてくれた。ずいぶん長く、あちらに潜っていてくれたな。気が休まらなかっただろう。ここに戻ってきたからには、もう肩の力を抜いていいぞ。あまりのんびりとはさせてやれんが、それでも、少し羽を伸ばすといい」
懐かしい笑顔だった。試衛館に通っていた頃、まだ幼いところのあった斎藤に見せていたのと同じ笑顔だ。
斎藤は
「頼みがある。斎藤一の名を、すぐに新撰組から消してほしい。伊東さんたちにもそれを知らせてほしい。裏切り者の斎藤一はもう存在しないと、そう言ってくれ」
「嘘をついて油断させるのか? それも一つの手だとは思うが」
「俺は斎藤一の名を捨てて、別の名で生きる」
だから、もうここには斎藤一がいないと言えばいい。なすべきことがあるから、まだこの命は捨てられないが、名ならいくらでも捨てられる。
どうでもよいのだ。
十一月十八日、伊東は近藤の誘いに応じ、新撰組の屯所のそばにある近藤の
伊東は酒を飲み、久方ぶりの話に花を咲かせた。近藤も土方も真剣に伊東の話を聞き、議論に応じた。互いの論との違いを挙げては問いを重ね、歩み寄りを探るかに見えた。
本籍の姓から取って山口二郎と名を改めた斎藤は、永倉や原田と共に、宴席の隣室に潜んでじっと様子をうかがっていた。
斎藤、と原田がささやき声で呼び掛けた。その名は違うと何度言っても、誰も山口二郎とは呼んでくれない。斎藤はあきらめて、彼らの呼び掛けに応じるようにしている。
「原田さん、何だ?」
「伊東甲子太郎は、高台寺ではいつもあんなふうだったのか?」
「いつももっと沈んでいた。今日は楽しそうだ」
「そうかい。面の皮の厚そうな男だと思ってたんだが、勘違いだったな。小さい犬みてえに虚勢を張って、ずいぶんとよく鳴いてやがる。よっぽど不安だったんだろうし、今も肝が冷えて仕方がねえんだろう」
「でも、伊東さんは一人で来た。それが精いっぱいの虚勢だとしても」
「覚悟はできてるってことだろうよ。伊東は、山南さんと親しかったわけだしな。俺は伊東のすかした顔も頭でっかちの論も好きじゃねえが、伊東が山南さんのために詠んだ歌は、いいと思った。伊東が山南さんのことをわかってるんじゃなきゃ、あんな言葉は出てこなかったはずだ」
斎藤もその歌を見た。物静かな中にも力強さがあり、武士としての立ち居振る舞いが美しかった山南を、伊東はちょうど満開だった山桜になぞらえて、歌に詠んだ。物覚えが存外よい永倉が、暗記していた二首の歌を口ずさんだ。
春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな
吹く風に しぼまんよりも 山桜 散りてあとなき 花ぞ勇まし
春風とは、山南自身が見出した己の去り際を指すのだろうか。もしかしたら伊東は、自分の姓にある東の字と、春風である東風とを掛けていたのではないか。
伊東の参入が山南の退場を決定づけたことは否めない。伊東に自責の念が強いことを、斎藤は知っている。
宴はやがてお開きとなった。
伊東は、来たときと同じく、たった一人で帰路に就いた。
だが、いくらか酔いの回った足取りで歩いたのは、半町ほど(約五十メートル)に過ぎなかった。
油小路の暗がりの板塀の向こうから、突如として槍が繰り出された。
悲鳴が上がった。
伊東は右肩を貫かれた。
傷は深かったろう。だが、伊東を即座に死に至らしめはしなかった。仕損じた、と槍を繰る
斎藤は板塀を越えて油小路に降り立った。永倉、原田が続く。
伊東はよろめきながら、ひとけのない油小路から脱出しようとしている。
斎藤は足音もなく駆け、伊東の正面に回り込んだ。
伊東は目を見張った。
「これは……こんな冗談をやらかすものではないだろう、斎藤……」
息を切らせた伊東が、傷を押さえて顔をしかめつつ、苦しげに笑った。
斎藤は刀を抜いた。永倉も原田もほかの隊士も、各々の
伊東はじりじりと後ずさった。本光寺の門前の台石に
「冗談はよしてくれ……私は、ただ……」
斎藤は一歩、伊東に近づいた。だらりと崩れた伊東の右肩は、骨が砕けているに違いない。喉にも裂傷があるのがわかる。噴き出す血の量が尋常ではない。伊東は間もなく死ぬ。
伊東は斎藤を見上げていた。苦痛の表情が次第に緩慢になっていく。暗がりの中、伊東が吐き出す息が、白くせわしなく漂う。
あっけない、と斎藤は思った。
本当に伊東を殺す段になれば、途方もなく悲しかったり苦しかったりするかもしれないと思い描いていたが、どうということはない。左手で刀を抜くときの斎藤は、心など失っている。人の死を平然と見据えていられる。いつもと同じだ。
伊東がかすかに唇の端を持ち上げた。
「いくらなんでも、卑劣に過ぎるぞ」
かすれる声がそう言ったように聞こえた。
伊東は、がくりとのけぞって、そのまま動かなくなった。
伊東を殺した後の手筈はすでに打ち合わせてあった。
深夜を回っても伊東が帰投しない場合、御陵衛士は仲間内の取り決めに従って、一団となって伊東を探しに来るはずだ。新撰組はそこを迎え打ち、一網打尽にする計略である。
永倉の指図で、伊東の遺体を
七条沿いは町屋の明かりが漏れていて、存外遠くまで見通せる。ぼんやりとした闇の中に転がる亡骸の血は、夜半過ぎの冷気によって、たちまち凍った。
「本当にあいつは来るのか?」
白い息を吐きながら、永倉がつぶやいた。あいつとは、ほかの誰でもなく、藤堂のことだ。斎藤の耳には、来るな、と永倉が願っているように聞こえた。
藤堂は来るだろう。役割を放り出すような男ではない。ほかの誰が尻込みしようとも、藤堂こそが先陣を切って駆けつけるはずだ。勇敢で真っ直ぐなのだ。だから斎藤も永倉も、試衛館で共に汗を流していた頃から、藤堂平助という男を好いていた。
油小路七条の辻を取り囲む闇の中に、新撰組の応援が次々と到着した。斎藤が確認できただけでも、十五名を超えている。
しんしんと冷え込んでいた。息すら凍りそうだ。
斎藤たちは押し黙り、油断なく待ち続ける。
ふと、原田が空を仰いだ。斎藤もつられて上を向いた。
冷たい夜には星明かりが鋭く明るいと、十年近く前、山南に教わった。あのときは確か、
天の川の形は、江戸で見ようが京で見ようが同じだ。濃紺の天空に懸かるまばゆく白い流れから、斎藤は目を背け、うつむいた。
星の光は変わらない。人は変わっていく。あるいは心変わりのない者がいたとしても、まわりが変われば流されずにはいられない。
闇の向こうから足音が聞こえ始めた。まだ少し遠い。息を殺して、耳を澄ます。駆ける足音が近付いてくる。
「来た」
斎藤は短く告げ、冷えた左の手のひらに息を吐き掛けた。一度、拳を握って、開く。体はしなやかに動く。心は凝り固まって動かない。
藤堂たちが、横たわる伊東を見つけたらしい。足音が真っ直ぐに駆け寄ってくる。罠だと察しているだろうか。卑劣だと、伊東が最期に言ったように、藤堂の口からも
斎藤は唇を噛んだ。舌先に血の味がにじんだ。甘くて塩辛い。こんな小さな痛みの感じ方は、とうに忘れた。
惨劇が間もなく幕を開ける。
斎藤は、刀の柄に左手を掛けた。
〈了〉
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インディーズ出版レーベル【出版サービスWille - ヴィレ】さんより、冊数限定の企画誌として2016年7月発刊。
企画誌版には、ページ数の関係で「四 会津藩主」が入りません。
表紙と扉絵が付きます。
斎藤一、闇夜に駆けよ 馳月基矢 @icycrescent
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