七 祇園乙部

 六月、りょうは五条橋東詰の長円寺から東山のこうだいへと屯所を移した。

 相変わらず、新撰組からの襲撃を恐れて殺気立っている。家移りする日も、荷を抱えて身動きがとりづらいことを懸念して、尖った視線を周囲に向けていた。

 五条坂を東に向けて登っていき、きよみずざかと交わるところで北へ行く。さんねいざか、二年坂を進んでいくと、高台寺は右手に見えてくる。

 先頭を任された斎藤と藤堂のすぐ後ろで、伊東がかすかに笑った。

「このような道のりを行くとは、まるで熱心な僧侶か、田舎上がりのものさんきゃくのようだ。道の両脇の板塀の向こうは、あちらにもこちらにも、由緒ある寺や仏塔が連なっている。もう少し晴れやかな気持ちだった折に、きちんと参拝しておくべきだったな。京の古い寺はやはり風格が違う」

 高台寺は、太閤秀吉のだいとむらうため、正室であったきたのまんどころ寧々ねねによってこんりゅうされた。

 御陵衛士が居留を許されたのは、高台寺領の一角に寧々の親族が興したというげっしんいんである。

 案内のために出てきた京言葉の僧侶から、伊東はまじめに月真院の由来を聞いていた。去年がちょうど建立二百五十年の節目であったという。

 月真院の本堂の前には、八坂の塔を借景とする庭が広がっている。庭は野趣にあふれ、どこか寂然としている。

「見てごらん、斎藤くん。椿のつぼみが膨らんでいるよ。これが花開くのが楽しみだ。この椿は、きっと血のように赤いね。花びらを散らさずに潔く落ちる椿は、武士の誉れのような花だ。私は椿が好きだよ。この花が咲くまで生き永らえたいものだ」

 山門のそばの椿の巨木を見つめ、そうつぶやいた伊東の笑みは、ひどく暗かった。

 後ろめたい斎藤はそれ以来、山門の椿を真っ直ぐに見ることができない。


 秋も深まった九月のことだ。

 斎藤はおんの坂を歩いていた。半年前に新撰組の屯所を離れて以来、両手両足の指では数え切れぬほど、斎藤は祇園を訪れている。

 御陵衛士と共に行動する斎藤と渡りをつけるため、色男で鳴らす土方が選んだ策は、祇園通いを隠れみのにすることだった。土方が信を置くを仲介として、斎藤は時に土方へのことてを残し、時に土方と差し向かいで話をする。

 土方との密会に使う見世はほどほどの格式のもので、堅苦しいとまでは言わないが、派手な乱痴気騒ぎは起こらない。初心うぶな斎藤にはこれくらいがちょうどよいだろうと、土方は女殺しの微笑を浮かべてみせた。あれが春の終わりの三月だ。

 あの頃までは確かに自分は初心だったと、斎藤も自覚している。

 むろん、男所帯の新撰組にあって女を買わぬ者などいなかったから、斎藤も年上の連中に誘われて花街に繰り出し、欲を芸妓にぶつけてみなことはある。

 女を抱いて気分が晴れたかといえば、そうでもなかった。女は面倒くさいと思った。人としゃべることも触れ合うことも苦手な斎藤には、接待が細やかなくせに気位の高い京の芸妓は、気味の悪い生き物にも思えた。

 相手を生き物であり人であると思うから、溺れることができなかったのだ。何とも思わなければよい。

 それに気づいたのは、六月、土方の指図を受けて武田観柳斎を斬った後だった。

 血と脂を拭っただけの刀を差したまま、祇園をさまよい歩いた斎藤は、おつの安い茶屋で女を買った。斎藤の唇や肌を吸いたがる女の口を手のひらで封じ、言葉はおろか声も出せぬようにして、犯すように抱いた。

 誰かを殺すとき、斎藤の目に映る標的は、もはや人ではない。声など上げさせないし、まれに何かをしゃべらせてしまったとしても、斎藤の耳は言葉をまったく解しない。刀を抜けば、心は動きを止める。本能だけが、目の前の標的を斬れという使命に、忠実に働く。

 女を抱くのも同じだった。嬌声が何を語ろうと耳を貸さず、頭を使わず心も閉ざして、火照った体と本能だけを存分に動かせばいい。

 斎藤は行為に没頭する。そのほかの何もかもを忘れる。女の肉体そのものよりも、激しくて空虚な時の過ごし方を、斎藤は求めた。土方との連絡云々を抜きにして、祇園乙部へ足を向ける夜が増えた。

 初めの頃は、藤堂にも伊東にも呆れられた。が、二人とも酒量が増えている。酔わねば眠れないのだ。酒が強い斎藤は、そもそも酔えない。だから女を買うと言えば、藤堂も伊東もほかの仲間も、斎藤を引き留めなかった。

 何かに没頭してさを忘れたいとき、今までの斎藤なら、剣術稽古で事足りていた。それが最近、どんなに汗を流しても、くたびれ果てるまで剣を振るっても、晴れ間が見えない。眠ることができない。

 女を抱いたところで、心安らかに眠れるわけでもない。夢見の悪さはどうしようもない。抱いた女の顔など一人として覚えてもいない。何ひとつ楽しくもないのに、祇園に通うことがやめられない。

 土方の指図がなければ、いくら斎藤でも、御陵衛士という火種には関わらなかった。土方の命令ひとつで御陵衛士の殲滅が開始されることを、斎藤は知っている。斎藤がもたらす情報が、殲滅戦の鍵を握っている。

 付き合いの長い藤堂はもちろん、思慮深い伊東も、嫌いではない。斎藤はたぶん本当は、人というものが嫌いではないのだ。

 嫌いなものを斬るのならば、ためらいなどないだろう。嫌いではないものを斬らねばならぬから、いつの間にか体の内側におりがたまっている。

 女を買うのは、この澱を吐き出すためかもしれない。どろりと醜い欲など全部まとめて、見も知らぬ女の腹の中に捨て去ることができればよいのに。

 赤々と燃える明かりの安い油の匂いがする祇園乙部の路地裏で、不意に斎藤は、背後に近づく気配を察して、はっと振り返った。

 商家の旦那のようにまげを結った小柄な男が、大きな目をぎょろりと光らせ、斎藤に笑い掛けた。

「よう、久方ぶりじゃねえか。吉田の方には足を向けずに花街なんぞほっつき歩くとは、おまえさんもずいぶん、ぐれちまったな」

 京の商人風に変装しているくせに江戸っ子言葉を隠しもしないのは、幕府の重鎮、軍艦奉行の勝海舟である。

 勝は、前年に当たる慶応二年|(一八六六年)の秋、長州征伐に関わる交渉において同僚に足を引っ張られて失敗を重ね、憤慨して江戸の自邸に引っ込んだ。それっきり、京にも大坂にも神戸にも現れていなかったはずだ。

 前回、吉田道場へ報告に行ったのはいつだっただろうか、と斎藤は考えた。暑い時期だった。そうだ、高台寺へと拠点を移したことを志乃に話したのだ。

 その後は一度も、もう四箇月近く、勝海舟の存在を頭から追い払っていた。そうでもしなければ、勝のそうであることを土方に隠し、土方の密偵であることを御陵衛士に隠し、幾重もの偽りをまとう斎藤は、自分が何者なのかを見失ってしまいそうだった。

 立ち尽くす斎藤の胸倉を、勝は無造作につかまえて、ぐいと引き寄せた。

「酒でも奢ってやるよ。ちょいと話をしようか。なに、暇はそう取らせねえさ。夜が明ける前に、おまえさんの馴染みの店まで送ってやらあ」

 口数の多い勝は、よく笑い、すぐに熱くなり、少しもじっとしていない一方で、眼光がひどく冷たい。命令ひとつで大勢の人間の命運を決することのできる幕閣の、人斬りよりも一段と冷酷な目だ。

 斎藤は声をなくしたまま、勝に連れられて、民家にしか見えぬ料理茶屋に入った。薄暗い部屋に通され、酒が運ばれる。

 勝は手酌で、さっさと飲み始めた。にやにやしつつも鋭く突き立てるような勝の視線から、斎藤は目を背けた。

「前に会ったときは、歳の割に青臭せえ表情を見せるやつだと思っていたが、こいつぁまた色気のある顔つきになりやがったな。たいそうな床上手だって話じゃねえか。長いものを振り回して刺したり突いたりはお手の物ってわけかい」

 酒を飲んでも赤みの差さぬ斎藤の顔に、かっと血が上った。怒りではない。恥じだと気づく。そんな感情が自分の胸に残っているとは知らなかった。

 斎藤は唇を噛んだ。胡坐あぐらの膝をつかむ手に、おのずと力が入った。

 勝は鼻で笑った。盃の酒が、ぐいと飲み干される。

「やけっぱちになっちまってるのかねえ? 藤堂平助や伊東甲子太郎を裏切るのが、そんなに苦しいか? 武田観柳斎のときでさえ、勝手が狂っちまったみてえだしな。なあ、あの夜、ぜにとりばしの上で永倉新八と立ち話をしてたようだが、何を話してたんだ?」

「なぜ、そこまで……」

「俺がおまえさんについてどれだけ知ってるかって? おまえさんは俺にとって、京でいちばん優れた間者だが、おまえさんひとりじゃ足りねえんだよ。ほかにもいろいろ子飼いがいるわけさ」


 六月、土方が選んだその日の夜、洛中から伏見へと伸びる竹田街道の銭取橋で、斎藤は武田を斬った。

 すでに近藤や土方の信用を失っていた武田は、口のうまさを活かして、倒幕派の急先鋒である薩摩藩に近づく様子を見せていた。

 新撰組において裏切り者に下される罰は、死だ。斎藤は一刀のもとに武田をほふった。

 斎藤のほうへ、人影が明かりを手に近づいてきた。夜目の利く斎藤は、瞬時にそれが新撰組二番隊組長の永倉新八であることを見抜いた。

 永倉は斎藤の事情を知っているらしかった。御陵衛士と行動を共にしているはずの斎藤がそこにいて、土方の命じた暗殺を決行した。その一連の流れを目にしつつ、永倉は平然としていた。

 それでも一応、斎藤は問うた。

「なぜここに?」

「土方さんから検死を頼まれたもんでな。死体をここに放り出していくわけにもいかねえし、応援を呼んで、こいつを持って帰る。斎藤は、その前に行ったほうがいいんだろう?」

「ああ」

「それにしても、相変わらずいい腕だ。すぱっと見事にやってくれたな」

「試合では、俺より永倉さんが強い」

「実戦でいちばん強いのは斎藤だろうよ。しんとうねんりゅうの俺は、力任せの一撃必殺で打ち込むのが流儀だ。わかりやすいことこの上ねえ。しゃに噛みつくみてえな天然理心流も、何を仕出かすかわからなくておもしれえが、斎藤の左利きの剣はひときわとんでもねえ。しかも、心を殺したような目で、声まで殺して振るう剣だが、斎藤の剣は熱い。不思議な男だよ、おまえは」

 斎藤は、かぶりを振った。

 死んだ心を映す目も、静けさと熱を共に孕んで矛盾する剣技も、不思議ではない。そのままの自分だと、斎藤だけが知っている。

 十九の頃、勝海舟に見出されてしまわなければ、矛盾せずに済んだのだろうか。苛烈な声を上げながら熱い剣を振るうことができただろうか。

 いや、もしも勝の走狗とならずとも、両手の剣技を使い分ける斎藤は結局、近藤や土方によって間者の役割を与えられたはずだ。今まさに武田を殺したように、新撰組の中でもとりわけ濃い闇を担うことになったはずだ。

 あるいは、二重三重に偽りの身の上を抱え込むという矛盾がなければ、斎藤の剣はもっと素直だっただろう。そうであったなら、斎藤の剣は相対する者にとって不思議ではあり得ず、実戦でいちばん強いなどと称されることもなかったかもしれない。

 つまるところ、自分はどこへ向かっている何者なのだろうか。今、何のために武田を殺したのだろうか。

 斎藤は、まだ温かいであろう武田の死体を、ぼんやりと見下ろした。左手には、斬撃の感触がまだなまなましく残っている。

 人を斬れば、どうしようもなく疲れる。

「斎藤」

 ぴんと張り詰めた声で、永倉が呼んだ。斎藤は顔を上げた。永倉は、表情豊かによく動く眉を、どこかが痛むかのように、ぎゅっとしかめた。

「なあ、斎藤よ。はじめってのは、おまえに似合いの名だと思うよ。おまえの気性は一本気だ。なのに、表と裏の顔を使い分けるなんてさ、似合ってねえよ。あまり無理をするな。俺は、一の名が似合うおまえのままでいてほしい。餓鬼の頃からずっと見てきただろう。おまえにも平助にも変わらずにいてほしいってのが俺の本音だ。二人とも帰ってこいよ」

 今さらそんなことを言われても、どうにもならない。

 永倉や藤堂と初めて出会ったのは、もう十年以上も前のことだ。あの頃に比べたら丸っきり変わっちまったよ、と胸の内でつぶやいて、斎藤は永倉に背を向けた。

「一本気の一の名が似合わないなら、捨てる。捨てて、二郎とでも名乗るさ。二心ありの二郎、と」

 本当はもうとっくに、二心ありの二郎と名乗るべきなのだ。

 斎藤と勝の繋がりを知らぬ永倉に、何ひとつわかっていないくせにと、罵声をぶつけてみたくなった。洗いざらい吐き出して、いっそ剣など捨ててしまえたら、俺はようやく笑えるのだろうか。

 永倉をあざむき続けている。それよりさらに輪を掛けて、藤堂と伊東を欺いている。

 なぜそうする必要があるのだったか、自分がやっていることがわからない。帰るべき場所がわからない。居場所を尋ねていいのかもわからない。自分が何者なのかわからない。

 その晩、初めて、肉欲がもたらす浅ましい忘我の心地に溺れた。つい今しがた武田を殺した左手で女の口を塞いで嬌声を封じ、ほしいままに荒々しく振る舞った。


 勝が、斎藤の差し向かいで、にやりとした。

「困るなあ、斎藤。女の体に逃げることを覚えた今のおまえさんじゃあ、気配が消せねえ。崩れた色気がれなんだよ。ちったぁ自覚しろや。間者であり続けるのが性に合わねえんなら、さっさと決着つけちまうことだな。伊東をおびき出して殺すんだろう?」

「……頭のいい人だと思う。ただ、あの人は、手を組む相手を間違えた」

「一和同心かい。公家中心の合議に徳川家も加えて、公武が共に政を動かす。国民皆兵で軍制改革をして、開国による富国強兵を実現する。これからは英語の時代だと、辞書を買い込んでは学んでみようとしている。確かに、伊東という男は悪くねえ。まあ、新撰組との相性だけは最悪だ。出会っちまったのが運の尽きさ。ご愁傷様だ」

「伊東さんは、誰と出会えばよかった?」

「福井藩主のしゅんがく公かねえ。あとは、もう死んじまったが、長州のよししょういんや松代のしょうざんってところか。何にしろ、新しいことを言い出すやつは早死にしちまうのさ。俺は長生きしてやるつもりだが」

 気紛れを起こしたらしい勝が、空のままだった斎藤の盃に酒を注いで差し出した。受け取った斎藤は、干上がった喉に酒を流し込む。

 伏見の酒だと、さっき聞いた気がする。伏見の酒は口当たりが軽すぎ、まるで水のようで、酒を飲んでいる心地がしない。灘の酒のように辛いほうが、斎藤は好きだ。

 勝は斎藤の飲みっぷりを誉めた。斎藤はそれに応えず、土方が言って寄越した思惑を勝に漏らした。

「今年中に伊東さんを殺す。御陵衛士も、大人数で囲い込んで始末する」

「土方はすでにそう腹を決めているってわけかい。まあ、せいぜい気張れよ。新撰組にはまだやってもらわなけりゃならねえことがごまんとある。まだまだ乱世は続くだろうからな。こんなところで死ぬなよ、斎藤一」

 斎藤は勝の酌を受け、また一息に酒を飲み干した。舌から喉にかけて、じわりと熱い。何も入れていなかった胃が、よじれるように痛んだ。

「斎藤一の名は、近々変える」

 御陵衛士を裏切るときに名前も捨てようと、不意に思いついた。

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