8.七瀬は夜を駆る
(1)
マヤ襲撃の日から、ちょうど一週間が経った。
ドレープが入った藍色のシャツは涼しげで、白のスキニーパンツは、彼女の細い足を更に引き締める。
七瀬は久しぶりの、自身の私服姿を鏡で見つめながら、満足げに表情を作っていた。
「あんたにしてはいいセンスしてるわね」
襲撃された際に事務所は全焼してしまい、七瀬の私服は、その時着ていたもの以外焼失していた。
残っていたのは入院時に渡された、カズミ爺の娘が着ていたお古で、とてもよそ行きに着られるようなものではなかった。
退院祝いも兼ねて、坂崎に渡された服はどれも彼女にぴったりだ。
着替える度に坂崎は病室を追い出され、それが一時間弱ほど続いたので、彼の機嫌は悪かった。
ようやく七瀬が満足したのを確認すると、坂崎は深く溜息を吐く。
「ったりめえだ。俺を誰だと思ってやがる」
鼻を鳴らす坂崎は、内心どぎまぎしていた。
なぜならこうして渡した七瀬の服を選んだのは、彼ではなくカズミ爺だったからだ。
女性が好む服はおろか、自身の服装にすら、スーツを着用するようになってからは碌すっぽ気を遣っていないので、服飾に関わる美的センスなど、皆無であるも同然。
だからと言って、カズミに委ねた選択が正しいとは微塵も思っていなかったので、坂崎はこうして満足げな七瀬の顔を見て、ようやく胸をなで下ろす。
「ネックレスとか、小物があった方が良かったんじゃねえか?」
「いらないわよ暑苦しい。安物で卑しく飾るくらいならつけない方がましよ」
貧しい放蕩生活の最中は、着られるものであればなんでも良かった。
だが本来七瀬はスマートに洗練された服装を好み、また、自身のファッションセンスにはそれなりの自負があった。
自身の美的感覚から見ても申し分のないチョイスに、七瀬は僅かながら違和感を覚えていたが、それでもこれらの服はカズミ爺が選んだものであるという確信には至れていない。
そんな詮無い推測は、荷物を纏めているうちに消し飛んでしまっていた。
「それじゃ、退院手続きしましょうか」
なんの気もなく坂崎の手を握った拍子に、七瀬は気付く。
初めて出会った時は、つい数週間前は、皺一つないスーツを几帳面に着こなしていたのに、今の彼は見る影も無く、くたびれたジャケットを羽織るように着て、ネクタイもだらしなく緩んでいた。
「…………」
「……なんだよクソガキ」
この一週間、彼は何をしていたのだろうか。
それを思うと七瀬は申し訳ない気持ちになった。
坂崎の緩んだネクタイを締め、肩を叩く。
「だらしない格好はするなって、いつも私に言ってるじゃない」
扉を開くと、看護師が慌ただしく行き来している様子が目に飛び込んできて、七瀬は帰ってきたような気持ちになった。
帰る家は燃えてしまったけれど、静寂に包まれた病室から、再び、この慌ただしい日常へ。
▼
桃花庵は相変わらず閑古鳥が鳴いていて、七瀬が快気祝いにと振る舞われた甘味を暴力的な勢いで消化する音だけが響いていた。
「退院おめでとう七瀬ちゃん。大したことは出来ないけど、食べるものならいくらでもあるからね。何か困ったことがあったらおいちゃんに言うんだよ」
「おじさま……ありがとね。こんなろくでなしだけが店番だと心細かったでしょう? 私はもう大丈夫だから、大船に乗った気でいてね」
坂崎は蔑ろにされたことに苛立ち、わざとらしく舌打ちした。
七瀬と、坂崎。そして、坂崎の隣には、暑さも盛るこの時期にもかかわらず、厚手のコートを着込んだ優男が座っている。
一週間ぶりに桃花庵を訪れるなり、店の真ん中のテーブルで一人くつろぐ彼を見て、七瀬は思わず後ずさった。
事情を聞いてようやく、七瀬は彼の、御堂善鶴の存在を許容したが、初対面のジゴロな印象は拭いきれず、気安く話しかけられずにいた。
「いやあ、頼りないなんてことは無かったさ。何せ軍警の御堂さんがいらっしゃったから、頼もしい限りだったよ」
カズミすら、一切自分に対するフォローをしないことに、坂崎は更に苛立つ。
「聞けば倉科さんとかいう方、明らかに法に抵触するやり口でカズミさんに迫ってるみたいだしね。僕も一応軍の人間だし、みすみす放置は出来ないさ。賭場の人間を取り締まる職権も持たない私立探偵さんだけでは、少し心許ないしね」
「さっきから聞いてりゃなんなんだお前ら全員! 人の脇腹にちくちく刺すような嫌味ばかり吐きやがってよ!」
坂崎がテーブルを叩いて立ち上がるが、その怒号に気圧される者は一人もおらず、カズミ爺の控えめな笑い声だけが響いた。
テーブルの上の甘味をあらかた消化し終えた七瀬は紙ナプキンで口元を拭いながら、御堂にのみ注視している。
「……どうかしたかい?」
「べつに。あまりにも出来すぎた話だなって」
七瀬は桃花庵で御堂と合流して、一通りの事情を聞いていた。
父が自分を捜していること。軍が大賭場九郎を潰そうとしていること。そして、その主犯となることを、坂崎が承諾したこと。
彼らしくない。七瀬は思った。
博徒のような日の当たらない稼業ではないとはいえ、彼自身の気質はどう見ても博徒のそれと似通っている。
組織に属することを良しとする性格ではないので中庸的な立ち位置ではいたが、よりにもよって軍に下るという選択はあり得ないのではないか。
そこまで考えたあたりで、七瀬は事柄と事柄を繋ぎ合わせ、ある結論に至った。
お父さまが自分を捜しているならば、使うのは自分の手駒か軍の人間。
迂闊に反抗すれば社会的な枷を強いられる軍の人間を差し向ければ、そうそう逃げ果せることは敵わない。
ともすれば、厄介な軍の人間を抑えておくために、軍の人間である御堂とのパイプを築いておくのが得策なのではないか。
その答えに辿り着いたと同時に、余計な気を遣わせてしまったと、七瀬は悔いる。
坂崎に視線を移すが、当人は素知らぬ顔で煙草を咥えている。
世話焼きのくせに、何も言わないんだから。
そんな風に胸の中で毒突くも、彼の気遣いは七瀬にとって嬉しくもあった。
「出来過ぎた話でもないと思うけどね。九郎を潰すと、口で言うのは簡単だけれど、それが出来るのなら権力や金は一つのところに留まったりしない」
「仰るとおり。眠たくなるくらい正しいわ。でも、正しすぎて話にならない」
「と、言うと?」
御堂は意味深な笑みを浮かべて、上目遣いに七瀬を見る。
彼は類稀なる観察眼を以って、目を見た人間の心すらも明け透けに出来るだけの洞察力を有していたが、敢えて七瀬の口から、言葉を引き出そうとしていた。
弱冠十五歳の少女とは言え、大博徒一ノ瀬大周の娘。
この少女はいったい何を成せるのか、何をもたらすのか。
即ち、人間としての度量。
御堂は言葉から滲み出るそれを、汲み取ろうとしている。
「簡単な話よ。権威は権威の元に集まる。お金と同じよね。同じような尺度を持ってる人が集まるから、欲しいものだって同じ。欲しいものをちらつかせれば、人って面白いくらい集まってくるんだもの」
それは漠然とした人生観ではなく、七瀬自身が実際に見てきたものだった。
大博徒一ノ瀬大周は、そのようにして人を惹きつけ、統率し、手中に収めた。
だが、彼とて初めから権威集う場所に身を置いていたわけではない。七瀬はそれを知っていた。
「でも、私達博徒の尺度はあんた達とは違うの。食えるから食う。御せるから御す。打算めいた策略なんて、いらない」
銀のフォークを器用に指先で立てながら。
七瀬の指は御堂を指し、フォークは支えを失って傾く。
一瞬、宙に浮かぶ形となって、自由落下を開始するはずのそれは、御堂の額に向かって飛んだ。
アメーバの如く姿を変える
煌めく銀色は、刹那、御堂にとって凶器に変わる。
頭を引きながら咄嗟にフォークを掴んだ御堂は、冷や汗を垂らしながら苦笑いを浮かべた。
「……真っ向からぶつかって潰すってことかい? ほんとに似た者同士だね……」
「そう? 馬鹿が移ったのかしらね」
「打ち勝てる見込みなんて無いだろう? 九郎を潰すということは、当然君を襲った博徒も出張ってくる。今度は一週間じゃ済まないかもよ?」
「次は私が勝つわ。あの女、殺しても死なないんだもの。だったら次は最初から手加減なんてしない」
「……呆れた。貴方も何か言ったらどうだい?」
フォークを手元のグラスの中に放って、御堂は救いを求めるような目で坂崎を見る。
もしかすると博徒の力を持たない者の視点から、向こう見ずな七瀬を窘めてくれるかもしれない。そんな淡い期待があったが、御堂は坂崎の目を見るなり深い溜息を吐いた。
「今度はこっちが乗り込む側だ。向こうはわざわざお前の土俵に上がる必要なんかねえんだぞ」
と、坂崎。御堂は、そこからの会話の一連の流れを、容易に想像することが出来た。
「そんなの知らない。あんた達が考えなさいよ。言ったでしょ、上手く使いなさいって」
何も言わなければきっと彼らは明日にでも九郎に赴く。
緻密に作戦を練るなど阿呆らしいと言わんばかりに、愚直に、無鉄砲に――
軍の上層部は、なぜこんな暴れ馬を選定したのか。
御堂は分からなかった。一瞬でも、彼等の度胸を買った自分を恨んだ。
「上等だクソガキ。しくじったら柿の木に吊るすからな」
引き攣った笑みを湛えたまま、御堂は溢れかけた言葉を飲み込んだ。
こいつらは、馬鹿だ――
七瀬乱舞 相川由真 @ninosannana1
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