(3)


 雨の音。

 時計の針が時を刻む音。

 換気扇が回る音。

 衣擦れの音。

 彼の、吐息の音。


 私が耳を凝らして聞き取れる音といえばそれくらいで、じっとしているとそのままソファから動けなくなってしまいそうだ。

彼はじっと窓を見据えたまま。帰れとも言われないので、もう二時間近くこうしている。


 思えば何ものにも脅かされず、何ものにも煩わされず、柔らかいソファの上でこれほど長い時間を過ごしたのは久しぶりだ。

けれど、こうしているとどうしても考えてしまう。


 今思えばどう考えても胡散臭い話に騙され、危うく売られそうになったこと。


 だが私はあそこで、知らなかったことを知った。

孤独を忌み嫌うあまり、何でも出来る可能性すらも手放して、自分を貶める人がいる。

その事実自体は、知識として私の頭にあったのだと思う。

けれど、実際にああやって痛々しい様を見てしまうと、想像する自分の末路と彼女らを、どうしても重ねてしまう。


 独りって、悲しいこと?

 独りって、嬉しいこと?


 私がうんと悩んだところで、その答えは見つからないのだろう。

その時が来るとしたら、何年、十数年、嫌というくらい世間を見て、独りすら怖くなくなった時か。


「あんたって、ずっと独りで暮らしてるの?」


 窓に向いていた視線が、私に向く。


「爺さんが死んでからは、そうだな」


「……そっか」


 それ以上聞くことは彼のお爺さんの死について言及することになりそうで、私は何も言えなかった。

空になったマグカップに視線を泳がせていると、彼はそれを持って、ドリッパーに向かう。


「俺、波坂生まれなんだよ」


「へえ」


「十五まで波坂の両親の元で過ごした。けど向こうで羽目外し過ぎちまってな。親にも迷惑がかかっちまうからよ、樹楽街で探偵やってた爺さんの元に転がり込んだんだよ」


 キッチンカウンター越しに、煙草の煙が漂ってくる。


「今のお前と同い年くらいか?」


「……十八だもん」


 彼は悪態をつくこともなく、煙草を咥えたままじっと私を見ている。

その目から逃れる術を知らなくて、私はついに白状する。


「ほんとは……十五歳」


 どうせクソガキと言われる。

そう思って私はそっぽむいた。


「そりゃあ傑作だ」


 彼は今までのような意地の悪い笑みではなく、薄く尾を引くような、静かな含み笑いを零した。


「十五の俺には爺さんがいたが、お前には何もねえんだよな。よくやるよ。そんなに家にいたくなかったか? 実家はどこなんだ? ん?」


「あんなとこにいられないわよ。実家は日野国……鳳華街」


「日野国!? よくもまぁ、あんなところから来たな……鳳華街と言えば、一ノ瀬大周いちのせたいしゅうが仕切ってるところか……良い街だと聞くが……」


 不意に彼の口から零れたのはお父さまの名。

きっと表情を取り繕うことなんて出来ないから、私は逃げるように彼の視線から顔を背ける。


 確かに、鳳華街は良い街だと思う。

お父さまの統率の元、力を持つ博徒は一ノ瀬の配下となり、街の明かりから溢れた者に付き纏う、債務という名の枷は一ノ瀬の家に向かって一本化されていて、あらゆる利益が集う。


 彼の手中に収まる者は、皆平穏を享受していたと思う。

けれど、自業自得とはいえ、その恩恵に与ることが出来なかった者は? 彼と、お父さまと異なる意志を零した者は?


 決まっている。

鳳華街という一集団の平穏を乱す因子は、彼の手によって徹底的に嬲られた。

その牙が折れて、自力で立ち上がることすら出来なくなっても、嬲られて、嬲られて、それでも瞳に光を宿した者は、並べて殺された。


 多様化した価値観、思想が、一集団という形で統率されてゆくその過程は、きっと弱肉強食という摂理の縮図なのだろう。


 それでも、私は割り切れなかった。


 嬲られても気高く猛り、それでも、その命を散らせる間際に瞳を汚す淀んだ闇。


 手首から先、病的な震え。それでも、私は刀の柄を握る。やがて、風前の灯となった彼等は同じような目で私を見る。

憐れみを孕んだ目。そんな目で、そんな目で――――


「おい、コーヒー」


 彼の大きな声で、はっと我に帰る。

目の奥が熱い。心臓と脳が繋がっているみたいに、鼓動が頭の中でがんがん響く。

マグカップを受け取るために差し出した手は、震えていた。


 先程と同じように、彼は尊大に足を放り出してソファに座る。

目の奥の熱の堪えようとしているのに、喉の奥には何かが詰まったみたいで、耳が熱くなる。


「泣きそうなツラして何考えてんだ」


 彼は全てお見通しだと言わんばかりに、深い溜息を吐いた。

だって、だって仕方がないじゃない。

あんなところにいたら、私はきっと何も考えられなくなってしまう。

籠の中の鳥ならばまだいい。

その在り方はあまりにも空虚で、無為で――


 まるでそれは、お父さまに愛でられる剥製。


「ものを喋らねえとなあんにも分かんねえぞ」


 この街で、私は多分色んなことを知った。考えた。


 自由であること。

それがどんな苦難を孕んだものか、きっと私はまだ、知らないのだろう。

けれど、その朧げな輪郭に触れて、それでも私は、それが欲しいと思う。


 ありきたりで、平凡な暮らしでいい。欲しいものも買えずに、指を咥える人生でもいい。

刀の鋭さから離れて、誰にも縛られない平穏な日々が、欲しい。


 けれど、普通に生きてゆくということは、私が思った以上に痛みを伴うらしい。

刃が身体を切り裂かずとも、自由ゆえの孤独は、やがて私を押し潰すのだろう。


 出涸らしとなった末路が、あの部屋にいた彼女達だ。


 私はああなりたくない。

 私は押し潰されたくない。

 私は奪いたくない。奪われたくない。

 何者にも、干渉されたくない。

 けれど、けれど、寂しい。


 きっと我儘なのだろう。きっと無謀なのだろう。


 だって仕方がないじゃない。だって、仕方がないじゃない。


 私は、私は――

 私は――


 ▼


「なんで泣く」


 奥歯を噛み締めて、両目を見開いて。

それでも込み上げてくる涙を堪えることは出来なくて、頬を伝う涙を拭ってしまえば、この漠然と痛みを認めてしまうような気がして、私はじっと彼を見つめた。


「わたし、わたし……」


 しゃくり上げてしまって、上手く言葉を吐き出せない。


「一ノ瀬、七瀬」


 やっとの思いで、忌むべき姓を添えた自分の名前を吐き出す。

どうして、名乗る気になったのだろう。


 同じ年に家を出た、同じ境遇の人間だから?

 彼の自由に対する解釈に触れたから?

 ぶっきらぼうに見えて、不意に見せた笑みが優しげだったから?


 きっと、どれもだ。

けれど私は無条件に、自身を人に委ねることの愚かさを知ってしまったから。

それでも誰かに語りたくて、聞いて欲しくて、つまり……


 私は、孤独に耐えられるようには出来ていないらしい。


「一ノ瀬、大周は、私のお父さまよ」


 彼はなぜか、悲しげな表情を浮かべた。少なくとも私には、そのように見えた。


「かの大博徒、一ノ瀬大周の娘か……とんでもねえ拾い物をしちまったな」


 その言葉は私にとって気持ちのいいものではない。

一ノ瀬大周という名を聞いて私を見れば、お父さまを知る人の目には、私だけが映ることはないから。

偉大な父の幻影に私を重ねて、十五歳の、何もない少女の中にありもしない威光を見出す。


 そんな視線は、もう飽きるほど浴びてきた。


「お父さまはもう、今は関係ないわ」


 鼻をすすりながら言い返したものだから、きっと彼には間抜けに見えているのだろう。もう、どうでもいい。


「私はお父さまと違って、自分のために人を殺したりしないんだから。だから、私はあの家を出たの! 鳳華街なんて関係ないの!」


 感情を剥き出しにするのも久しぶりで、思いのままに言葉を吐き散らすのも久しぶりで、きっと幼稚な地団駄だと思われているのだろう。


「そりゃそうだ」


 クソガキの戯れ言を、彼はあっさり肯定した。

私はそれ以上何を言えばいいのか分からなくなって、不意に溢れそうになるうめき声のようなものを、喉元で堪えていた。


「自分で選んで出て行ったんだ。親の庇護なんてクソ食らえってよ。おとーさまなんて関係無いし、言うまでもなく外の大人はお前しか見てねえよ」


 棘のある物言いだ。

少なくとも一ノ瀬の家で、私にこういう口を利く人はいなかった。

だから、その分彼の言葉は突き刺さるものがあった。


「エルのとこの狸親父もお前の見た目と若さだけを評価したから、お前を騙そうとした。見た目は上々だが、頭は悪そうだ。だから簡単に騙せる。至極真っ当な評価だわな」


「……あんた!」


 この男は、全て知っていた。

知った上で、何食わぬ顔をして私を家に上げたのか。


「あの髪飾りはエルが唾つけた女に渡すもんだよ。浮かれてあんな大仰なお飾りなんかしやがって。だあからお前はほいほい騙されるんだ」


 彼にどうこうしてやろう、なんて気持ちは微塵も湧かなかった。

ぐうの音も出ない状態とは、まさに今の状態のことを指すのだろう。

彼を直視することが出来なくて、私はマグカップに視線を落とした。


「無鉄砲で世間知らずなクソガキ。俺がお前に下す評価はこんなもんだな」


 もう、いい。

これ以上聞きたくない。

ソファに預けて重くなった背を上げて、立ち上がろうとする。


「これに加点」


 彼の人差し指が立った。


「どんな手を使ったのか知らねえが、誰の助けも求めずにあそこから脱出した胆力を評価しよう」


 次いで中指。


「一ノ瀬の娘ならば、お前も博徒だってことは容易に想像出来る。博徒の力があれば多少の無理は利くし、使いようによってはいい商売道具になるだろう。これも評価する」


 次いで、薬指。


「いたずらに博徒の力を振りかざさなかったことは、お前のその貧乏くさいなりを見ればすぐに分かる。目先の利益に釣られずに、悪目立ちしない道を選んだその忍耐力も評価してやるよ」


 そして、小指。


「お前は昨日何があったのか、最後まで俺に話さなかった。不幸を人と共有せずに、痛みも自分のものにしようとした。多分、孤独とかいうものを背負うにあたって一番重くのしかかる痛み。その小さいタッパで受け止めようとする頭の悪さを、何よりも評価してやるよ」


 彼はおもむろに立ち上がり、中腰のまま固まっていた私の頭に手を置いた。


 こんなに温かいものの正体は、一体なんなのだろう。


「二階に物置部屋がある。とても人が住めるような部屋じゃねえが、自分の寝床くらい自分で拵えろよ」


 直後に、私の髪を押さえていた掌が離れて、頭を叩く。

そのぶっきらぼうな手は、優しかった。

 キッチンカウンターに戻り、煙草を咥えた彼は、思い出したように口を開く。


「役に立たなかったらすぐ追い出すからな」


 意地悪な笑顔だ。


 でも、望むところだ。

お父さまも、一ノ瀬の家も関係ない。

地位も名声も無い私が、役に立つということを証明してやるのだ。


 目尻を、頬を伝うものすら煩わしい。

乱暴に擦るとひりひり痛かったけれど、どうってことない。


「あんたこそ、上手く使いなさいよ」


 デリカシーのない粗暴な彼には、きっとこのくらいでちょうどいい。

彼はもう、私を見ていなかった。新聞紙に視線を落とす彼は、少しだけ皮肉交じりな鼻息を漏らした。


 ▼


 御堂は黙り込んだまま、坂崎が語る二人の出会いに聞き入っていた。


 一頻り語り終えた坂崎は煙草に火をつけて、そっぽ向いてしまっている。


「つまり、貴方は七瀬ちゃんには商売道具としての価値があるから、側に置いているということかい?」


「それ以外に何かあんのか。一回りも歳下のガキに欲情するような趣味はねえぞ」


「その方がまだしっくり来るよ。情に厚いタイプだと思ってたけれど、とんだ思い違いだったみたいだ」


「あのガキに同情したことなんて、一度だってありゃしねえよ」


「鳳華街の一ノ瀬大周からあの子を匿っているのに?」


「それはクソガキを雇った俺が果たすべき義務だ」


「あの子を雇うメリットと釣り合ってないと思うけど」


「損得の話じゃねえ。道理の問題だ」


「ほら、矛盾してるじゃないか。損得の話じゃないなら、あの子に商売道具としての価値があるっていう最初の主張とは食い違うんじゃない?」


 御堂は坂崎の主張の中の矛盾を明らかにしたが、坂崎はそんなこと知るかと言わんばかりに、指摘に対して無視を決め込んでいる。


 御堂とて、しちくどく揚げ足を取り合うような議論をするつもりは無かった。

一際大きな溜息を吐いて、御堂は坂崎から真意を聞き出すための言葉を厳選してゆく。


 坂崎はとうにそれを待つ気など失せており、まだ長い煙草を灰皿に押し付け、わざとらしく椅子の脚を鳴らして立ち上がる。


 御堂は彼の背中を見据えて、選りすぐった言葉の中で、最もシンプルなものを投げかけた。


「じゃあ、七瀬ちゃんといて、楽しくない?」


 坂崎は足も止めず、顔を御堂に向けることもなく……


「んなわけねえだろ」


 それだけ言い残して、坂崎は店を後にした。

残された御堂は、しばらく惚けていた。


 坂崎が押し潰した煙草の吸殻が、灰皿の上でまだ燻っている。

僅かに残った火種を潰そうとした手を止めて、御堂はやれやれと零して頭を掻いた。


「似た者同士、大変仲がよろしいようで」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る