(2)
雨が降り始めたのは、私達が樹楽街に辿り着いた頃だった。
まだまだ、傘を差さずとも平気な程度の小雨だけれど、雨粒の一つ一つがやけに大きく思えた。
今はまだ平気だけれど、ぬかるんだ道でキャリーバッグを引くことを考えると、少しだけ億劫だ。
そんなことを考えているうちに、探偵は足を止めた。
両隣は更地で、ぽつりと浮いたような佇まいの、こじんまりとした事務所。
木造の古い造りだけれど、長らく野宿を続けていた私にとっては、豪奢な城のように見えた。
探偵は坂崎探偵事務所と記された看板にぶら下がったプレートをひっくり返す。
営業中という太字を見て、この粗暴な男も、立派に身を立てているのだなと思った。
「坂崎って言うんだ」
少しだけからかう調子で話しかけてみたけれど、坂崎は仏頂面で暫く見つめ返してきて――
「あがれよ」
それだけ言って、さっさと室内に上がり込んでしまった。
そんなつもりは無かったのに、彼の事務所にまで来てしまった。
あてのない旅だったけれど、こんなに浮わついた気持ちで、導かれるままに歩いたのは久しぶりだった。
それに気付いた時、何故か事務所にあがるのが少しだけ怖くなったけれど、開きっぱなしのドアが吸い寄せるみたいに、私は敷居を跨いでいた。
中に入った途端、どこか懐かしい匂いが鼻を突き抜けた。
実家のものとは全然違うのに、自分が帰ってくるべき場所に帰ってきたような気分になる。
古い事務所だからだろうか。
玄関にキャリーバッグを置いて、うんと伸びをして、深呼吸をしてみる。
身体が、爪先から解れてゆくような気がした。
テーブルを挟む二つのソファの更に奥、階段が二階に続いている。
ここからでは二階の様子を知ることは出来ないけれど、きっと生活感が漂っているのだろうなと思った。
古い木造、メゾネットタイプの住居兼事務所。
ささやかな城の主に羨ましさが芽生えてくる。
けれど、こんな素敵な場所に招いてくれたことに対して、無性にお礼が言いたくなった。
「紅茶は、切れてるな。おいクソガキ、コーヒーでいいか?」
「だからクソガキじゃないってば」
やっぱり、言わない。
ちっとも似合ってない金髪に、私とちょっとしか変わらない背丈。
ぶっきらぼうで、すぐクソガキと呼んでくる。
どんなに幼かった時でも、そんな失礼な呼ばれ方をしたことなんて無いのに!
ややあって、コーヒーの芳ばしい香りが漂ってきた。
豆の良し悪しなんて分からないけれど、私はこの香りが好きだ。
コーヒーを淹れる彼の後ろ姿は、小慣れているような雰囲気を漂わせていて、正面から見るよりよほどいいなと思った。
「砂糖とミルクは」
「砂糖を二つ。ミルクはいらないわ。舌がざらつくような感じがして好きじゃないの」
「なんだそれ。ブラックでいいだろ」
「やだ!」
自分でもびっくりするくらい、大きな声を出してしまった。
耳が熱い。きっと真っ赤に染まっているのだろう。
彼は意地の悪い笑みを湛えながら、二人分のマグカップを持ってソファに座る。
「クソガキの舌だな」
きっちりと締めていたネクタイを緩めながら。
するすると嫌味ったらしい言葉を零し続ける彼の口に、私はもう怒りを通り越して感心しつつあった。
受け取ったマグカップから浮かぶ湯気を額に当てると、何かが解けてゆくような気がする。
芳ばしい香りに誘われて、一口。
角砂糖二つ分の甘みが、そのまま舌に染み込んでゆくようで、胸がすっとする。
視線を感じて、彼の胸元に目をやり、恐る恐るそのまま徐々に上へ。
仏頂面を貼り付けて、彼はじっと私を見ていた。
何か? と威嚇する気は起きなくて、けれど、目を背ける気にもなれなかった。
付き合いがある、というほど見知った関係でもないから、こんな風に思うのは適当ではないのだろうけれど、こうして彼の顔をまじまじと見るのは初めてかもしれない。
お酒が飲める歳なのに、私が学校に通っていた頃の、クラスメイトと大して変わらない幼い顔立ち。
けれどあまりにも不遜で、堂々としているその佇まいと、彼が着ているダークスーツはまさにぴったりだ。
緩めたネクタイはやがて彼の首元をすり抜けて、骨張った手の中に収まる。
意地の悪そうな三白眼はまだ私を見ているけれど、嫌な気分ではない。
彼は今、その視線の奥でどんな事を考えているのだろうか。
「あの」「なあ」
声が重なって、私は口を噤む。
そうしている間に彼はコーヒーを啜る。眉を顰めながら。
「なんだ」
何を言おうとしたのだろうか。私は。
何か言おうとしたのは間違いないのだけれど、頭の中から弾かれた言葉の行方を、私は知らない。
「……美味しい」
苦し紛れな四文字。捻り出すのがやっとだ。
「コーヒー」
彼は興味無さげに、マグカップを置いてソファの背もたれに肘を置いて。
「ふうん」
彼の視線はやっと私から離れて、窓に向いていた。雨が、窓を叩いていた。
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