5 せめてもういちど、誰かの英雄に
ぱりんと、飴細工のようにしてグラスが砕ける。即席の刃物と化したガラスの欠片は、手に刺さることは無い。痛みが感情の渦を和らげることは無かった。
「ああ、おい!」
一瞬、怒鳴られるのものだろうと思った。けれども、トビーは驚いたように俺を見て、その手を引っ張った。
「零、ホウキを持ってこい。怪我は……なさそうだな。お前の事だから」
「ああ……こいつだけが取り柄なんでな。弁償するよ……じゃあ、おれはそろそろ仕事に戻るよ」
トビーの手を軽く押して、おれは立ち上がった。ポケットから数枚の10ドル札を机の上に置いて、そのまま背中を向ける。
「スレイブ!」
かつてのヒーローの名前、おれの名前。トビーの口から出た言葉を聞いて、思わず立ち止った。振り返りはしない。けれども、その声は中華料理屋の無愛想な店主、トビー・キングマンではなく、バックドラフトのそれだった。言葉を探すように呻き、彼はこう続ける。
「その……何だ。前に進む者が、勝利を手にする、だ」
「……前って、どこだろうな」
苦笑と共に出て来た言葉。口の悪い、不器用な彼の精一杯の励ましだと分かっていても、意地悪な考えを口に出さずにはいられなかった。
前とは何だ。分かり切ったことだ。ヒーローであることに見切りを付け、ひとかどの平和を手に入れることだ。社長になって、大勢の前でプレゼンし、成果を世に広める事だ。あるいは、街の片隅に料理屋を開いて、そこを切り盛りして、夫婦になって子供をつくることだ。
だが、本当にそうだとしたら、おれのこの数年間は何だったのだ。三流の下劣で低俗なテレビや雑誌に出て、ヒーローおたくやカイジンおたくを満足させ、見世物になったおれはどうなのだ。勲章や賞状、かつての活躍を切り取った新聞を見返して、静かな優越感に浸るのが唯一の楽しみだったおれがあまりにも惨めじゃないか。数年間をドブに捨てたと認めることになるではないか。
お前らはまだいい。年がら年中頭が良くて困ることは無い。
ちょっと加減を間違えただけで物を粉々にして、肩をぶつけてしまえば相手を骨折させ、飯を食うにも時間がかかるなんてことはない。
コントローラーを握ってテレビゲームに熱中することも、女を抱くこともおれは出来ない。
ちょっとしたしぐさにも気を遣わないと生きて行けない。
ヒーローの身体は、力は。この平和な世界で生きるにはあまりにも強大すぎる。
底なし沼に入ってしまったような気分だった。どこまでも冷たい泥に沈んでゆくような感覚があった。
もしもこれがおバカなハリウッド映画の続編だったらと思う。そうであれば、カイジンの残党がこの辺りでやって来て、落ちぶれていたおれが活躍するとか、そういう展開もあるのかもしれない。やたらと眼を輝かせておれの話を聞いていたあの兵士たちが意外な活躍を見せるかもしれない。
すべて、夢想だ。世界は続くし、変わらない。
この全てをぶちまけてしまえば、いくらかスッキリするかもしれない。けれども、そうしてしまえば全てを認めてしまうことになる。
それだけは、嫌だった。
おれは、おれたちは英雄のはずだ。
言葉にすればこれだけ使うが、実際のところはほんの数秒の逡巡だった。トビーと零の視線が、背中に刺さるのが分かった。
ちょうど開店の時間だったようで、俺の脇を通るように何人かの男女が店内に入って行く。わざと明るい声を張り上げた。
「ごちそうさま。美味かったよ。赤ん坊が生まれたら、俺にも顔を見せてくれ……名前のことは、光栄に思うぜ」
「ああ。気をつけろよ、ヒーロー様」
返事変わりとして、おれは軽く手をふった。それだけでちょっとした風が吹き、ノレンがゆれた。
トビーの店から出たおれは、近場のコインパーキングに停めてあるバイクへと向かう。人通りのあまりない道路。それにも関わらず、おれの腰骨あたりを何かが後ろから擦っていったような気がした。
一瞬、誰かがぶつかったのかとも思った。けれども、おれの周りに人影は無い。軽く首を傾げたところで、ポケットに挿し込んでいたアクセルキーの感触が消えたことに気が付いた。
ぶおお! とコインパーキングから力強いエンジンの音が響く。聞き慣れた音だった。ほとんど毎日乗り回すバイクの音を、忘れる筈がない。
うすっぺらい木の板の割れる音が聞こえた。コインパーキングのバーが真っ二つになって、おれのバイクが飛び出す。少年が乗っていた。薄汚れた服に、細い体躯。几帳面に、ヘルメットを被っているから顔は見えない。ハンドルを握る少年の後ろには陽炎のようなゆらめきが、淡く細い輪郭を浮かべている。
もうひとりいる。透明人間だ。おれは確信した。なんてことだ。おれたちの知らない、
当たり前のことになぜ気付かなかったのか。
誰が、異能を持つ人間が世界に8人〝しかいない〟と決めたんだ。
悔しい事に、その泥棒のほうがおれよりも反応が速い。もう一度アクセルを吹かせたかと思えば、まるで手足の延長のようにバイクを操っておれの真横を通り過ぎてゆく。
驚き、呆れ、己のうかつさへの罵倒。あらゆる感情が過ぎ去り、最後に喜びが来た。思わず込み上げて来る笑いを、どうにか抑えた。
――良い度胸だ。このおれに、スレイブにこそどろ紛いの行為をやるとは。
ネクタイを緩め、おれは軽く跳ねる。久しぶりの感覚だった。全身に込み上げて来る力を出し過ぎないようにセーブしながら、力強く一歩を踏み出す。ブランクがあったとはいえ、それでも軽快に速度を上げる事が出来た。カイジンと対峙した時と同じような高揚感がおれを満たす。
全能感だ。
どこまでも行けるという歓喜にからだが震えた。
規格化されたフォードを、トヨタを追い抜く。交差点は信号が赤なのも気にしないで突っ込み、トラックの車体下を、スライディングで潜り抜ける。周囲の目を思い出す。完全にとは言えないけれども、全能感は薄れる。
何よりも、こそどろたちの運転はなかなかのものだ。事故も起こさず、バイクの小回りを活かしてちょこまかと逃げまわっている。おれの足を以てしても、追い付くのは難しい。
「なかなかやるじゃないか」
思わず笑みがこぼれる。けれども、おれを御するには程遠い。周囲の眼を避けることも兼ねて、手ごろなビルとビルの間にある路地に駆け込み、跳躍する。壁を精密な力加減で蹴り、反対側を蹴り、三角跳びの要領で一気に壁を駆け上る。
ものの数秒で、おれは屋上までたどり着いた。見晴らしは悪くないから、じきに見えてくるはずだ。
マンハッタンの郊外へと走る、粒のようなバイクをも、補足するのは難しい事じゃない。目当てはすぐに見つかった。速度は落ちていたし、通るルートも単調なものになっていた。
とはいえ、それなりに距離はある。道こそ綺麗に格子状になっているとはいえ、バカ正直に追いかければ、間違いなく逃げられるだろう。
ビルの高さ、感覚はまちまち。けれど、「いける」と思った。
軽く助走をつけ、一気にその縁を蹴って跳躍。隣のビルへと飛び移る。転がって勢いを残したまま立ち上がり再度加速。跳躍。次は少し高い。跳躍して窓の縁を掴む。
まだ夕刻というのに、若い男女がベッドの縁でキスをしている。それを見なかったことにして、背筋と腕の力で一気に飛び上がり、マンションの屋上の縁を掴む。
同じことを数セット繰り返し、バイクの向かう方向へ、先回りするように走る。距離はどんどん詰まって行ったし、彼らの行く場所は概ね見当がついていた。
徐々に低くなってゆくビル。豆粒ほどだったバイクと少年らの姿も大きくなる。最
後に大きな跳躍をする。
後ろに乗っていた透明人間――いまは姿を見せているが、少女だ。が、落下してくる俺を見て眼を剥いたのが分かった。
「ちょっと、あれ何!」
運転する、浅黒い肌の少年はそしらぬ顔だった。良い事だ。運転中の余所見は事故の元だからな。
「鳥か、飛行機か」
お約束をありがとう。そう思いながら、おれは体勢を整え、身を丸めるようにして、片膝と両手の三転着地を決める。衝撃でアスファルトが割れるが、ここらあたりの通りであれば、気にするものもいないだろう。運転する少年も、良い反応をした。バイクを横倒しにして、その窪みを避け、急停車をする。
「いいや。M・A・Mさ。スーパーマンと言ってもいい」
古くから続くお約束の台詞を言いながら、おれはスーツについた埃を軽く払って笑う。少年は警戒して、アクセルキーを抜いて手首をスナップさせる、動きに連動して、即席の警棒になる。もう仕組みを理解するとは呑み込みが早い。
「誰だ、アンタ」
「そいつの持ち主だよ。返してくれないか」
「やなこった!」
少年が警棒を担ぐように構え、じりっと間合いを詰める。すぐに、得物の使い方を心得ている。それが、
突き出した警棒を軽く体を捌いて避け、ぴんと伸びた腕を軽く叩く。加減はしているが、それだけで少年は苦痛の声を漏らし、警棒を取り落とした。
拾い上げようと身を屈めた瞬間、陽炎が揺れ警棒が一人でに持ち上がる――違う。後ろに乗っていた透明人間の仕業だ。
少年と同じく、容赦のない突きだった。だが、喉仏を狙ってのそれを避ける必要は無かった。
分厚い革を叩いた時のような音が響く。はっと、少女の息を呑む声が聞こえた。驚いたせいか、姿が露わになった。くすんだブロンドの髪、勝気そうな眼。ネコ科の動物のようなしなやかな体躯。そのまま警棒を掴んでドライバーを回すようにぐりんとやると、少女の身体ごと宙を舞って、地面に落ちた。
「透明人間に、凄腕レーサーか。バイク泥棒が捕まらんわけだ」
先に起き上がって来た少年が、少女の前に立ちはだかっておれを見る。闘志に燃えている、戦士の眼だった。
「……アンタ、何モンだ?」
「……まさか本当に、スレイブなの?」
「他に、こんなことをやれるやつがいると?」
少女が庇おうとする少年を押し退けておれに尋ねる。頷くと、くすくすとティーン・エイジャーらしい笑みを浮かべた。
「わお。ホントにバカみたいな力を持ってるんだ。実は、ファンだったの。映画は5回は見たし、フィギュアも買ったわ」
「メカを盗んで、バラした金でぐふっ」
突然少女から飛ぶひじ打ちに、少年は脇腹を押さえて呻いている。さっきのおれに叩かれた時よりも痛そうだ。
「そいつはありがたいが、泥棒ってのは感心しない。親御さんが悲しむぞ」
そう言うと、少年は一瞬視線を落とし、それからおれを見上げて肩を竦める。その表情に、眼に奇妙な親近感を覚える
「いたらもっとマトモだったかも。ハイスクールに行って、バスケでもして、可愛いガールフレンドは……もういるけど」
「それは光栄。こいつだけならいくらでも大丈夫だって言ってるのにあたしに構ってきてさ……」
少女が苦笑する。時折少女の身体が透けるのが分かった。それは右腕だったり、頬だったりと規則性は見えない。制御しきれていないのだ。それが、彼らの言うマトモを難しくしていることが分からないほど鈍感では無い。
彼らを追いかけようとした理由が分かった気がした。
こいつらは、おれと同じだった。マトモな生活にはありあまる大いなる力を抱え、その捌け口を見つけ出せないでいる。おれのように英雄の肩書を作る機会すら与えられず、ちんけな犯罪に手を染めるしかなくなっている。
そして今、彼らの眼を見てしまった。ヒーローへの憧れと、自らがそれを得られないことへの羨望、あるいは嫉妬の混ざった眼を。何度も見て来たはずだった。みなしごも、ストリートチルドレンも。莫大な富の使い道を考えあぐねて寄付だってした。けれども、その時とは違う感情だった。ヒーローになりたい。悪を倒したいわけでは無い。ましてや、あの時のような喝采を浴びたいわけではない。
少なくとも、目の前の二人には胸を張れるような存在でありたい。出来る事なら、彼らだけではなく、世界中にいる、おれたちにも。おれは意を決して二人へと声をかける、
「なあ、お前たち。おれと一緒に来てくれ」
「警察? そうね、逃げたいとこだけど――」
「違う。確かに管理されると言う意味では近いかもしれないが、管理するのはおれだ。世界中の、君のような人間を、おれがまとめ上げ、組織する。君たちは記念すべき、ナンバー2と3だ」
「まさか、そんなこと……」
「おれはこう見えても世界を救ってるんだ。だったら、お前たちを救うことだって出来る。おれはヒーロー、スレイブだ」
呆気に取られる二人を前に、おれは今まで感じたことの無い高揚感に包まれて未来を語る。難しいことは分かっている。トビーたちには迷惑をかけるかもしれない。けれど、おれは見つけた。人生を捧げるもの。奉仕者(スレイブ)としての新たな生き方を。
前に進んでいるかは分からない。
だが、歩き続けたいと思える道を見つけることは出来た。
世界は少しばかりだが、おれたちが生きやすくなるという予感があった。
良い方向か、悪い方向かは、まだ分からない。
英雄 文月遼、 @ryo_humiduki
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