4 ありふれていて、遠い日常

 仕事を終えたおれは、軽いP・Tをこなしてから(当然、独りだ)すぐにダウンタウンの小さな中華料理屋へと足を運ぶ。


「まだ、準備中だ。時間通りに来てくれ」


 人のいない店内。カウンター席に腰掛けて新聞紙を読む赤髪の店主が、顔を上げることもなく、ぶっきらぼうに告げる。それを無視して、店主の隣のカウンター席に座る。油があちこちに跳ねた、お世辞にもきれいとは言えない厨房では、忙しそうに女が動き回っていた。短い髪を頭巾に押し込んでいて、表情は慌ただしさのせいで険しい。


「回鍋肉と酸辣湯、それから白飯も」


 店主は顔を上げず、厨房の奥にいる女性に「リン!」と呼ぶ。女性はコクリと頷いて手際よく調理に回った。


「昨日の雑誌、読んだぜ。色々と口が回るじゃないか、ジェームズ……いや、ヒーロー様よ」

「そいつはお前もそうだろう。“バックドラフト”」


 皮肉の込められた言葉。おれは苦笑で応える。「バックドラフト」そう言うと、店主は新聞紙から顔を上げて、露骨に顔をしかめてみせた。


「前にも言ったはずだぜ、ヒーロー様。そいつは死んだ。M・A・∞の美男子バックドラフトさまも、クソガキ暴風バオフェンも、とっくにおっ死んだ」

「よく言うよ、そんな髭面で。悪かったよ、トビー」


 トビー・キングマンと廖零リャオ・リン。それが、M・A・M・∞の生き残り……もとい、歴史の表から姿を消した、ふたりのヒーローのほんとうの名前だ。


「悪いと思うなら、一時間ほど後で来てくれ」

「そうは言っても」


 香辛料の香りがした。

 おれとトビーの前に、白飯と、赤いスープが並べられる。加えて、大皿に乗った回鍋肉もだ。取り皿も置かれている。


「もう作っちゃったから。ほら、アンタも食いな」


 ずいとカウンターから身を乗り出して零は笑う。右の頬は、うっすらと赤く、火傷の痕のようなものが残っていた。トビーは軽くその頬に口づけをして、いつも通りの憎まれ口を叩く。


「ったく。お前が甘やかすから、ヒーロー様は調子に乗るんだ」

「気にしないでいいよジェームズ。コイツは他の男に構うのを見て妬いてんの、最近してるからさ」


 零の意味ありげな笑みに、おれは苦笑を返すことしかできなかった。ぶつくさと、けれどもどこか楽しそうにトビーと零は話をする。曰く、ようやく料理屋が軌道に乗り始めた。

 曰く、夫婦生活は円満だ。曰く、兵隊どもはバカスカと食って量を増やせと要求してくる。


「そこで俺は言ってやったのさ。大盛を作るにゃ、火力が足りねぇ。お前らがもっと食って、もっとデカいコンロでも買えるくらいに店を儲けさせろってな」


「っはは。お前も丸くなったな。前なら両手から炎でも吹き上げてただろうよ。キャベツやレタスなら、炭にするんじゃないか?」


「このバカ。マジでやりかけたんだ。慌てて向こう脛を蹴って止めてやらなかったら、ジェームズの苦労もなくなってた」


「変わりにお前が本気を出した。見ろ、まだアザが残ってる」

「仲がよろしいようで何よりだよ。充実しているらしいな」


 トビーは椅子に足を載せ、ズボンの裾をまくりあげておどけてみせる。実際に、青黒いあざがうっすらと出来ていた。食器を片付けながら、零も「だから、悪いって言ってるじゃん」と小さく笑った。


「手は荒れるし、おっぱいは大きくならないし、あまり激しい運動が出来ないから、太っても来たけれど」

「あの時の傷か?」


 マンハッタンでの最終決戦。巨大なカイジンを前に、零は脚に大きな怪我を追っていた。ほとんど、歩くこともままならないような怪我だった。トビーも片腕を失っている。今の技術であれば義肢でもそう変わらず動かせるが、からだの欠損は言うまでもなく、ヒーローを続けるには難しい。


 それが功を奏して、二人を「死んだ」として表舞台から姿を消すのが上手く行ったわけだが。


 零は「違うよ」と笑いながら言い、首を横に振った。その顔は、はねっ返り娘のそれではない。


 母親の顔だ。


「4か月なの。男の子」


「だから、これからしばらくの間は休業ってことになる」


 じわり、また俺の腹の底に言い表せない、しみ出す水――いや、ドブかクソのような感情が滲んで広がってゆくのが分かった。無理やり押し込んで、冗談に変える。

「そうか。あの小生意気な娘と小僧が、パパとママか」

「まあな。考えたことも無かったけれど」


 屈託の無い笑みを浮かべ、小突いて来るトビー。それがとても羨ましく思えた。歳はさほど変わらないし、しぐさも昔のまま。なのに彼らがおれよりもずっと成長しているように見えた。


「あ、ああ。そうだったな。名前は決めたのか?」


 零はトビーと視線をかわし、今からとっておきのジョークを教えてやると言う風に、ふっくらとした唇を歪めて笑う。


「ジェームズっていうんだ。アンタも、知ってるっしょ? 世界を救ったヒーローの名前」

「寝る前に毎晩、お前と、俺たちの活躍を聞かせてやる。現代のアラビアン・ナイトにしてやるくらいにな」


 思わず、添えるように持っていたグラスに力が入った。

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