後編
「俺が奢るよ」
「そんな、悪いって」
体育館近くの自販機に辿り着くころにはふたりのぎこちなさはほとんど消え、話も弾みはじめていた。
伊織はさっそく自販機に硬貨を投入する。
と、そのとき、
ドン
誰かが拳の底でボタンのひとつを叩いた。
「よっ、落ちこぼれ」
見れば自販機の横にひとりの生徒が立っていた。人を見下したようなニヤついた笑み。クラスメイトの鹿島だった。先の授業で発されたひと言がこの少年のものだということは、伊織はそのときに気づいていた。
ワンテンポ遅れて自販機の取り出し口に缶が転がり落ちてきた。
「おっと、悪い。うっかりボタンを押しちまったようだ」
「いや、気にすんな。俺もそれが飲みたいと思ってたところだ」
さして怒るでもなく伊織はそう言うと、商品を取り上げた。……おしるこだった。
「ほいよ」
「わ、わたし!?」
おもむろに隣にいる優花にパス。
「お、おしるこ奢られた……」
手の中のおしるを見下ろし、呆然とする優花。
「で、鹿島、何か用か?」
「いやぁ、素朴な疑問なんだけどさ。お前って何でまだここにいんの?」
「……」
「だってさ、久瀬って魔術が使えないんだろ? だったらこの学院にいる意味ないじゃないかって思うんだよな」
この体育館そばの自販機コーナーにはテーブルやベンチなども備わっていて、今も十数人の生徒がくつろいでいる。伊織が現れたときには一瞥しただけで無視していた連中も、このやり取りに注目しはじめていた。魔術学科の生徒は鹿島と同種の笑みを浮かべ、他科の生徒はエリートの陰険ないじめを目撃してしまった気分で嫌悪の表情をつくっている。
「ああ、そのことか。目障りなんだったら悪かった。鹿島もそんなに余裕があるほうじゃないもんな。俺のことは気にせず勉学に励んでくれ」
瞬間、鹿島のニヤついた笑みにひびが入った。大きな口を叩いているが、実施のところ、彼とて魔術学科として突出した才能を見せているわけではないのだ。
しかし、伊織は彼を無視するようにコーヒーを購入。
「ふ、ふん。それでお前はとっくに諦めて、ちゃらちゃら遊んでるわけか。お前みたいな落ちこぼれは普通科の女がお似合いだよな」
口の端を引き攣らせながらの言葉にはっとしたのは、伊織の横にいた優花だった。
「ご、ごめんね。あんまり一緒にいないほうがいいよね……」
魔術学科の生徒はエリート意識が強く、他科の生徒と交わろうとしない。自分がそばにいると伊織が馬鹿にされると思ったのだろう。優花は申し訳なさそうにそう言い、後退った。
「……いい。ここにいろ」
が、それを伊織が引き止める。
「鹿島、長谷部は国際教養科だ。頭いいよ。それに向こうでは生徒会に入ってがんばってる。魔術科で『その他大勢』に埋もれてるお前とは大違いだな。何を根拠にそんな偉そうなのか知らないが、お前が馬鹿にしていい子じゃない」
次第に空気が変わっていく。
人よりも優位に立とうとするものは、風向きにも敏感だ。流れが自分にあるときにしか攻めに出ないからだ。鹿島はギャラリィの冷笑が自分にも向きはじめたことを正確に感じ取ったようだ。まるで晒しものになった気分で、顔が紅潮していく。
「下にいる誰かを見つけて安心してないで、お互い精進しようぜ。……行こうか、長谷部」
「う、うん……って、わたしおしるこ……」
伊織は、もうここには、そして、お雨にも用はないとばかりに、鹿島に背を向けた。優花も律儀に軽く頭を下げてから、その後を追う。ふたりは鹿島を残して去っていく。
「――ったら……」
やがて怒りに体を振るわせる鹿島が、絞り出すように発音した。
「だったら見せてやるよ、俺の力を! 俺の分類は『
伊織は弾かれたように振り返った。
鹿島はすでにセカイを知覚し、把握していた。後は正しく構文を組み、エーテルに記述すれば、一定空間内の自然式を捻じ曲げ魔術が発動する。今や鹿島は完全に頭に血が上っていた。きっとろくなことにはならないだろう。周囲にも緊張が走る。
(馬ッ鹿野郎……!)
伊織は心の中で罵りの言葉を発し、地を蹴った。一瞬で距離を詰め、右の拳を力いっぱい振り抜く。
直後、鹿島の体が吹き飛んだ。
自販機に背中から叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。顔面を殴られた痛みにうめき、すぐには立てそうにない。それを見て伊織は「やれやれ」とため息を吐いた。
場が静まり返る。
まいったな――と思ったのも束の間、突然、伊織は腕を捻り上げられた上、足を払われ地面に組み伏せられた。
「そこまでだ。おとなしくしなさい」
まりあだった。
「お、おい、ちょっと待――」
「いいから、今はおとなしくしてて」
背中の上で彼女は伊織にだけ聞こえるよう小声で囁く。
「これは何の騒ぎだ!?」
今度は大人の男性の声。どうやらたまたま近くにいた教師が騒ぎを目にし、駆けつけてきたようだ。
男性教師はあたりを見回し、まりあの姿を認めた。
「いったい何があった?」
彼女は問われると、「立って」と伊織に対して殊更に厳しい口調で促し、まずは自分が先に立ち上がった。続けて伊織も起き上がる。
「どうやらそこにいる彼が久瀬君を過剰に挑発し、頭に血が上った久瀬君が手を出してしまったようです。……そうだね?」
彼女が確認を求めたのは鹿島にだった。送った視線の先では、彼が丁度のそのそと立ち上がるところだった。
鹿島は、まりあの鋭い視線に射すくめられながら、弱々しく言葉を紡ぎ出す。
「……はい。その通りです。でも、俺……いや、僕も少し言い過ぎたと反省してます……」
当然、彼にはそう答える以外に選択肢はなかった。
男性教師は伊織と鹿島とを交互に見ると、「ふむ」とうなずいた。
「わかった。詳しく話を聞こうか」
そうして伊織は生徒指導室に連れていかれ、鹿島のほうは先に保健室へ行くことになった。
その後、ふたりには説教と使われていない倉庫の掃除を言い渡されただけで、それ以上の処罰はなしとなった。
§§§
アンナ=バルバラ・ローゼンハインは、魔術を学び、その意味を理解し、且つ、人格を備えたものにだけ与えられる『魔術師』の称号を持っている。
現実的な手続きとしては、魔術の教育機関において高い成績を修め、機関からの推薦を受け、記述、実技、面接などの試験を経て与えられるものである。人格に関しては相撲の横綱に求められる人格、品格並みに曖昧なもので、どちらかと言えば不祥事を起こした際に称号剥奪の理由によく使われる。
とは言え、狭き門であるのは変わりない。
しかし、アンナは常々自分を人格の面で魔術師失格だと思っていた。なぜなら教師でありながら、特定の生徒に非常に強く肩入れしてしまっている自分を自覚しているからだ。
久瀬伊織が暴力事件を起こしたと聞いたときも気が気ではなく、喧嘩両成敗的にお咎めなしと決まって心底ほっとした。
その後、伊織とふたりきりで話をし、正しい状況と彼の意図を聞き出した。
「一緒のクラスのやつが脱落なんてつまんないだろ?」
彼はそう言って笑うのだった。
正直アンナは伊織の経歴に傷がつくくらいなら、鹿島に魔術を使わせて退学にしてしまったほうがよかったと思った。己の感情も制御できず、私闘に魔術を使おうとするものは、そもそもが不適格なのだ。いずれまた問題を起こす。だが、もし本当に鹿島が魔術を使った場合、いちばん近くにいて狙われていた伊織はもちろんのこと、周りにも被害が及んだかもしれない。そういう意味でもやはり伊織の判断と行動は冷静で正しく、そこに至らない自分にはつくづく『魔術師』だる資格はないと感じるのだった。
放課後、
たまたま昼の事件の現場を通りかかったとき、アンナはそこに巻島まりあが立っているのを見つけた。
彼女は久瀬伊織の意図をいち早く汲み取って、今回の件を穏便にすませるのにひと役買った功労者であり、ちょうど礼を言わねばならないと思っていたところだった。だが、今はそれ以上になぜそんなところで佇んでいるのかが気になった。
「巻島まりあ、そこで何をしているのですか?」
そばに寄って問いかけるが、まりあは何か考えごとに没頭しているようですぐには答えなかった。
やがて、
「最初に私が見たとき――」
彼女はアンナのほうを見ないまま話しはじめた。
「りっくんはここに立っていました」
「……」
「そして、一瞬であそこまで移動しました」
まりあは自販機のあたりへと目を向ける。その距離、約10メートル。
「もちろん、一瞬というのは比喩です。瞬間移動や目にもとまらぬ速さというわけでもなく、りっくんが走る姿は私も目にしました。ただ――たぶん、あのときの速度を数字にすれば、尋常ではない値が出ると思います」
速いとはその場にいた誰もが思っただろう。だが、その異常さに気づいたものが、果たして何人いただろうか。
「まさか久瀬が"加速"か"強化"の魔術を使ったと?」
「わかりません」
まりあは首を横に振る。
「さっき残留魔力を調べてみましたが何も出ませんでした。つまり、使う前に止められた鹿島君はもちろんのこと、りっくんも魔術は使っていないということです」
「……」
アンナは考える。
この状況を説明する言葉がないわけではない。
所謂『火事場の馬鹿力』だ。
有名な実例がある。外から帰ってきた主婦が、今まさにベランダから落下しようとしている我が子を見たとき、彼女はオリンピック選手をも上回る速さで駆け寄り、落ちてきたその子を受け止めたという。
だが、命よりも大事なもののために走った母親と、今回の伊織の状況が重なるとは思えなかった。
考えれば考えるほど久瀬伊織という存在がわからなくなる。
類稀なる魔術の素養をもった期待の新入生として迎えられたにも拘らず、今は魔術の初歩の初歩もできない落ちこぼれ。いったいこれにどう説明をつければいいのだろうか。アンナにはわからなかった。きっとまりあもわからないから、こうしてここに立ち尽くしていたのだろう。
「……」
「……」
「ところで巻島」
「……はい」
「普段久瀬のことを『りっくん』と呼んでいるのですか?」
その瞬間まりあは、ぶはあっ、と血でも吐くかのように盛大に噴き出し、その勢いでげほげほと咽た。
「あ、いや、これは、つい……」
両手を振ってわたわたと慌てる様は、凛々しき生徒会長にあるまじき姿だった。実はまりあは、思考と推理に集中するあまり、自分が幼馴染の愛称を口にしていることに気づいていなかったのだ。
「し、失礼しますっ」
結局、彼女は誤魔化しきれず、一礼して逃げるように去っていった。
「そうですか、久瀬伊織で『りっくん』ですか。……彼をそう呼べる貴女が少し羨ましいですね」
アンナはそれを見送り、小さく笑った。
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