識別不能の劣等生

前編

 書籍館しょじゃくかん学院という名の学校がある。

 二十世紀初頭に確立された現代の魔術を、選ばれたひと握りの才能あるものたちに教える学校である。




 そこのまさに魔術学科に在籍する久瀬伊織くぜ・いおりの不幸のはじまりは、入試の際に受けた魔術の素養を判定するテストで、高い値を出してしまったことに遡る。もっと言えば、すでに幼馴染が通っていたからとか、通常の高校とは試験の日程が別枠だったからとかそういった理由で、ダメでもともと以上の単なる興味で受験したせいなのだが、つまるところそのあたりに端を発しているのだ。


 魔術省の高級官僚が直々に合格通知を持ってくるくらい将来を嘱望された彼は、しかし、入学してしばらくすると学校側やその関係機関を一気に失望の淵に叩き落した。


 伊織には魔術の初歩の初歩ですら使えなかったのである。


 理論の理解は早かった。エーテルへとはたらきかける構文の構築も正しく無駄がなかった。にも拘らず、伊織の魔力はエーテルに影響を及ぼさず、何の効果ももたらさないのである。


 こうなると事前の判定が間違いだったとしか思えず、何度か診断のやり直しを行ったのだが、そちらは変わらず高い素質があることを示していた。


 原因不明で、もはやお手上げ。

 程なく伊織は自他ともに認める落ちこぼれとなり、二年に上がるころには一部の人間を除いては諦めムードが漂っていた。




 実を言うと当の伊織自身も、自分のことながらどちらかというと諦めている側の人間で、きっと周りが望むかたちで期待に応えることは一生ないだろうと予想していた。


 今は座学として魔術を学ぶ傍ら、入学以来足を運んでいなかった道場通いを再開し、衰えた体を鍛え直している。


 その一環として学校のある平日の今日も、早朝から日課のロードワークに出ていた。


 伊織は高校二年生男子の平均身長よりも少し高い程度ながら、手足がすらりと長く、走る姿が様になっている。常に理想のフォームを意識しながら走っているせいだろう。走り込みをはじめてだいぶ持久力も戻ってきた。今では一定のペースを保ちつつ、息もほとんど乱れなくなっていた。


 道路沿いの歩道を走る。お決まりのコースだ。


 ふと、正面から伊織と同じくジャージ姿で、キャップをかぶった人物が走ってくるのに気がついた。初めて見るランナーだが、だからといって気になるほどではない。このまま特に意識することもなくすれ違うだけだろう。


 と、そこに交通量の増えはじめた早朝の道路を、運送業のものらしきトラックが走り抜けていった。

 一瞬遅れたタイミングで、正面のランナーのキャップが風で高く舞う。


「あ」


 小さな悲鳴。

 セミロングの黒髪が流れ落ちた。


 それを見て女の子だったのか――と思ったのは一瞬、すぐに気持ちは空を舞うキャップへと移り、反射的に地面を蹴っていた。まずは軽くジャンプしてガードパイプの支柱に飛び乗り、そこから全身の発条バネを使って力いっぱい跳び上がった。


("跳躍"……"姿勢制御"……"滞空"……)


 飛ばした手にキャップを掴む。


「で、"落下"、と……」


 そして、とん、と軽やかに危なげなく着地した。


「ほいよ」

「あ、ありがとうございます」


 普段なら涼やかであろう少女の声音は、しかし、今は気の抜けたようになっていた。どうやら伊織の軽業師の如き動きに呆気にとられたようだ。キャップを受け取りながら、呆然と見つめるてくる。


「……」

「じゃ、じゃあ、俺はこれで」


 居心地が悪くなり、伊織は慌ててそう言い残し、踵を返した。


(かわいい子だったな……)

 逃げるようにその場を後にしながら、そんなことを思う。


 ありふれてはいないが、事件というほどでもない朝のワンシーンだった。






「久瀬、久瀬伊織。聞いていますか」


 授業中、気が緩んでぼんやりしていた伊織を我に返らせたのは、教壇に立っていた教師、アンナ=バルバラ・ローゼンハインの声だった。今はちょうど担任教師である彼女の授業だ。慌てて今頭に思い描いていたものを追い払う。


「え? あ、はい、聞いてました」


 伊織は慌てて背筋を伸ばし、答える。但し、小さく「――と思う」とつけ加えたが。


「そうですか。……では、久瀬、立ちなさい」

「……」


 言われた通りに席を立つ。教室中の視線が彼に集まった。


「エーテルとは何ですか? 答えなさい」

「エーテル?」


 思わずその単語を繰り返す。


 無論、知らないわけではない。現代の魔術においてエーテルはなくてはならないものだ。だが、それを改めて説明しろと言われると、そう簡単にはいかない。伊織は頭の中で素早く整理した。


「エーテルは大気中に満ちる物質です。魔力にのみ反応し、適切に組み上げた構文と強い観測者効果によってエーテルにはたらきかけ、魔術を限定的に発動させることができます。なお、このエーテルはアリストテレスが言うエーテルとは厳密には別ものですが、第五の元素を予言した偉大なる哲学者に敬意を表して『エーテル』の名称を頂いたと言われています」

「その通りです。さすが久瀬ですね。でも、授業にはちゃんと集中するように」


 座りなさい、とアンナ。伊織は肩をすくめてから着席した。


 と、そのときだった。


「実技はさっぱりだけどな」


 教室のどこかで、聞こえよがしに誰かがつぶやいた。途端、そこかしこで鼻を鳴らすような冷笑が沸き起こった。誰かひとりを槍玉に挙げて嘲笑う嫌な空気だ。


 書籍館学院の魔術学科は、ある意味エリート集団である。

 努力ではどうにもならない天性の素質を見出され、ここで魔術を学び、国際的なルールを徹底的に叩き込まれ、いずれは魔術をもって社会に貢献する人物となる。すべては国費で賄われ、一度でも魔術がらみの校則を破ればその素養を封印されて放校処分だ。


 こうした厳格な環境だからこそ選民意識にも似たものが生まれ、魔術学科以外の生徒やできないクラスメイトには冷たくなる。例え基礎知識において優秀でも実践が伴っていない伊織は、彼らにとっては座学ができるだけの落ちこぼれでしかないのだ。


「今言ったのは誰ですか?」


 厳しい口調でアンナが問うが、しかし、誰も名乗り出ようとはしない。


「では、質問を変えましょう。久瀬より素早く、且つ、的確な構文を組み上げる自信があるものは?」


 やはり沈黙。

 このあたりでようやく何人かの口許から笑みが消えた。アンナはため息をひとつ。


「その程度にしておくことですね。少しばかり魔術が使えるようになっていい気になっているようですが、そんなものは初歩の初歩。私から見れば全員歩きはじめた赤ん坊のようなものです」


 冷たいガラスを思わせる硬質な声が容赦なく生徒たちを打つ。


「希望者には放課後、補習を行いますので、我こそはと思うものは遠慮なくどうぞ」


 この時点ですでに、ほぼ全員が押し黙っていた。優しく美しいドイツ人女教師が見せた迫力に気圧されてしまったのだ。目の前にいるのはまぎれもなく『魔術師』なのだと思い知らされる。


 一方、伊織は「やれやれ」といった思いでそれを聞いていた。


(そんな思いっきり鼻っ柱を折らなくても……)


 折られるような鼻のないものは気楽だった。






 その日の昼休み、伊織は職員室に呼ばれた。


「あまり気にしないように」


 事務デスクのイスに腰掛け、伊織と向き合うアンナはそう言う。


「してませんよ。事実ですからね」


 対する伊織は相変わらず飄々としていた。


「それならいいですが。……芽が出ないようなら、残念ですが転科も本気で考えたほうがよさそうですね」

「前と言っていることが違っている気がしますが?」


 以前、伊織は自分から国際教養科か普通科への転科を申し出たことがあるのだが、そのときはあえなく却下された。彼の潜在能力を信じ、もう少し様子を見たいというのが理由だった。


「状況が少し変わりつつあります」

「状況?」


 問い返す伊織。


 アンナはどう答えたものか、そもそも答えていいものかと逡巡の末、口を開いた。


「最近、魔術関連の施設や機関を標的としたテロが増えているのです」

「へぇ」


 伊織は平和な日本の学生の平均的な反応を示した。即ち、いきなりテロと言われてもピンとこないのだ。


「まだそこまで目立たないし、規模も小さいですが、世界中の魔術の研究機関や教育機関、管轄省庁で被害が報告されています」

「いったい誰がそんなことを」

「真偽のほどは定かではありませんが、『科学アカデミー』だと噂されています」


 そこでアンナはデスクの上のノートパソコンを操作しはじめた。マウスを動かしてスクリーンセーバーを払い、慣れた指使いでパスワードを打ち込んでデスクトップ画面を呼び出す。伊織はその画面を覗き込もうとするが、「あなたは見ないように」と釘を刺されてしまった。いつものやりとりである。


「まるで公的機関のような名称ですが、アカデミーはれっきとした科学の秘密結社です」


 十九世紀以前、まだ魔術が絵本や御伽噺の中だけのものだと思われていたころ、本気で魔術を研究するものたちは人目を避けるため秘密結社を組織していた。だが、今や魔術と科学のその地位は逆転し、今度は科学の側の過激な思想をもったものたちが結社化してしまったのだ。


 科学も今の時代には必要不可欠で、携わるものは敬意を払われるべき存在である。だが、それだけでは飽き足らず、現代の魔術を敵視し、排除した上で復権を目指す過激な科学の徒たちが少なからずいるのだ。――『科学アカデミー』はそんな過激派の最たるものだった。


「知っていますか、久瀬。嘘か真か、彼らは超科学とも言える技術を実用化しながらも、それを伏せているという話もあるのですよ」

「ネットで見たことがありますね。戦闘用パワードスーツだとか何とか」

「そうです」


 そう答えながら、アンナはカチカチとマウスを操作する。モニタに表示させた何かを見ているようだ。「虚実織り交ぜて、わざと情報を流しているのかもしれませんね」と独り言をもらす。


 彼女がノートパソコンに向かっていると、どうしてもその画面を覗きたくてうずうずしてくるのだが、伊織はその衝動を抑えて問う。


「で、そんな連中にこの学院も狙われると?」

「その可能性は十二分にあるでしょうね」


 なにせここは魔術先進国である霊國・日本が誇る魔術の教育機関なのだ。


「そんな不穏な空気なので、成果が上がらないようであれば、あなたを早々に魔術から遠ざけるのもひとつの手かとも思うのです」


 もし仮にこの書籍館学院がテロの対象となるなら、それは魔術学科のほうだろう。学院の規模から考えて、他科にまで被害が及ぶことはまずないはずだ。


「……考えさせてください」

「あなたも変な子ですね」


 アンナはくすりと笑う。


「この前は自分から言い出したのに、今度は考えさせてくれとは。……いいでしょう。久瀬の人生です。自分で決めなさい。私は久瀬がどの道に進んでも、その才能に見合った活躍をしてくれることを期待していますよ」


 そうしてようやく伊織は担任教師から解放された。






「やほ、久瀬君。今日も平和だね」


 伊織が職員室を出ると、そこには凛々しき美貌の上級生にして魔術学科の生徒会長、巻島まりあが待っていた。


 伊織は思わず立ち止まり、ため息をひとつ。


「何か用ですか、会長」


 そして、そう問いつつも彼女の前を素通りして廊下を突き進む。当然のようにまりあもその後を追い、横に並んだ。


「いや、私もさっきまで職員室にいたんだ。そこで君の姿を見つけてね」

「お忙しいことで。その多忙な生徒会長殿に俺なんかと話してる暇があるんですか?」


 しかし、まりあはそれを無視する。


「アンナ先生と何の話だったんだい?」

「転科を勧められました」

「抗議してくる」

「待て待て」


 伊織は、細く長い栗色のポニーテールなびかせて転進するまりあの二の腕を掴み、その動きを制した。


 まりあは何か言いたげな目で伊織を見る。


「その場で断ってますよ」


 正確には保留だが、いといとそこまで詳しく言う必要もないだろう。実際、今のところ転科するつもりはないのだ。


 まりあはほっとしたようだった。


「あと、アンナ先生は俺のためを思って言ってくれてるんで、できないやつを放り出そうとしてるみたいに思わないでください」


 ふたりは再び歩き出した。


「まぁ、実際のところ、アンナ先生としては俺みたいなのは放り出してしまったほうが楽だろうにな」


 入学当初は多くの教師が伊織の潜在能力に目の色を変え、それはもう鬱陶しいほど面倒を見てくれた。だが、次第に彼の無能っぷりが明らかになってくると、ひとり離れふたり離れし、今では根気よくつき合ってくれているのはアンナだけだ。


「期待してるんだよ、君にね」

「期待、ね……」


 そう言えばアンナが口癖のように「期待しています」と言うのを思い出した。


「もちろん、私もだよ」

「……」


 担任教師に生徒会長。背負っている期待は自分で思っている以上に大きいようだ。


「っと、じゃあ、私はここで。……頑張ってね」


 突然、まりあは伊織の肩をぽんと叩くと、ここまで歩いてきた廊下を戻っていってしまった。


「なんだ、ありゃあ」


 伊織は呆然とその後ろ姿を見送る。


(『期待してる』の次は『頑張れ』か……)


 やれやれ、と肩をすくめてから振り返る――と、今度はそこに長谷部優花の姿を見つけた。正面から歩いてくる。


 優花はショートカットで、ちょこちょこと動く小動物を思わせる小柄な少女だ。魔術学科ではなく国際教養科に在籍し、そちらで生徒会役員として駆け回っている。そして、伊織が少なからず思いを寄せている相手でもあった。


「よ、よう」


 不意の遭遇に伊織はぎこちなく挨拶らしきものを口にする。


「あ、あれ? 巻島先輩が一緒だと思ったのに……」


 優花も落ち着きなくきょろきょろと周りに目をやる。さっきまでいたはずのまりあの姿を求めているようだ。


「あの人なら戻っていったよ。何か用でも思い出したのかもな」

「そ、そうなんだ。先輩もいるからと思ってたのに。……どうしよう、いきなりで、こ、心の準備が……」


 すーはーと深呼吸をする優花。


「今から追いかけたら間に合うんじゃないか」

「ううん。今日は特に用はないから」

「そ、そうか」

「う、うん……」


 ぎこちないこと極まりない会話はそこで途切れ、ふたりは黙り込んでしまった。


 廊下の真ん中で向かい合ったまま、目も合わせず押し黙るふたりを、行き交う生徒が横目で見て通り過ぎていく。やがてその視線に気がついた伊織がタイミングを計るようにして口を開いた。ここでこうしていても埒が明かないし、不審な目で見られるだけだ。


「あ、あー……喉が渇いたな。何か飲みにいくか」

「う、うん……」


 優花が小さく頷き、ふたりは並んで歩き出した。





                  §§§





 巻島まりあは伊織と別れた後、少し進んでから後ろを振り返る。


 彼はもうこちらを見ていなかった。長谷部優花とぎこちなく言葉を交わしている。


「そういうのは向いてない、ねぇ……」


 伊織が言うには、自分は恋愛には向いていないのだそうだ。まりあには何を指して彼がそう言っているのかわからない。だが、これでも幼馴染なのだ。そう言いつつも、まだ優花のことが気になっているのは明らかだろう。ならば、単に足踏みしているだけの自分に、なんだかんだと言い訳をしているだけか。


 まりあは複雑な思いでふたりを一瞥した後、再び体を前に向ける。


「この調子じゃ明日も変わらず平和だね。……さーて、何か飲みにいこっかな」


 そうして努めて明るくそう発音した。

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