後編

 数日後――

 

 放課後、終礼終了から2時間近くが経ったような時間に、伊織はひとり小演習場から校舎へと歩いていた。

 脱いだブレザーを人差し指に引っ掛けるようにして、肩から背中にぶら下げている。顔には疲労の色。


(今日は道場に寄るのはやめだな)


 などと思っていると、クラブハウスの方向から歩いてくる人影に気がついた。

 長谷部優花だった。


「よう」

「あ、久瀬くん」


 遅れて優花が伊織に気づき、足を止めて待っていた彼のところに駆け寄ってくる。


「こんな時間まで生徒会の仕事か?」

「うん。久瀬くんは?」


 ふたりはそろって足を踏み出した。


「まぁ、特訓みたいなものかな」


 格好のいい理由でもないので、伊織は言いにくそうに言葉を濁す。


 実際、不思議なほど魔術の能力を発揮しない伊織が気になって、担任教師アンナ=バルバラ・ローゼンハインが自ら突発的に個人レッスンを行ったのだ。尤も、結果は相変わらずだったが。アンナは、状況に応じた構文の組み立ては素晴らしいと彼を褒めていた。にも拘らず、伊織の魔術は効果を現すことはなかった。


「すごーい。真面目」

「結果が伴わなけりゃ一緒さ」


 自然、自嘲気味になる。


 最近になって伊織は、そんな自分に見切りをつけられるようになっていた。そして、この書籍館学院に入学して以来、魔術学科の勉強に時間を割かれて行けなくなっていた道場通いを再開したところだった。少し思うところがあって、フィジカルを鍛え直そうと思っているのだ。


「大丈夫だよ。久瀬くん素質があるんでしょ?」


 そんなふうに励ましてくれる優花の横顔を、伊織は思わず見つめてしまう。


「え? なに?」

「あ、いや、前から気になってたんだけど――長谷部は魔術科とも普通に話すんだな」

「ううん。そんなことないよ」


 と、彼女は首を横に振る。


「やっぱりそっちの人たちって頭の出来とか考え方とかがぜんぜん違ってて、住む世界も見えてるものも違うんだなって思う。でも、久瀬くんと巻島先輩だけは別、かな?」

「まぁ、あの人はあんな性格だからな。俺のほうはたぶん、魔術科は魔術科でも落ちこぼれだからだろうな」

「もう、またそんなこと言って」


 己を卑下する伊織に、かわいらしく怒る優花だった。






「ふぅ」

 巻島まりあは作業が一段落したところで、かけていた眼鏡を外して息を吐いた。


 軽く首を振れば、長い髪も揺れる。ずっとデスクワークをしていたから全身が固まっていた。立ち上がり、体を動かしがてら何気なく窓へと近づいていく。目も疲れているし、少し遠くを見ようと思ったのだ。


 ふと眼下を見れば、そこに見知った顔がふたつ並んで歩いていた。


 伊織と、優花だ。

 楽しそうに言葉を交わし、笑い合っている。


「世の中今日も平和だ」


 まりあはしみじみとそんな感想をこぼした。


 と、ふと思う。あのやれやれ系の伊織が笑っているのを見たのは久しぶりのような気がする。優花に思いを寄せているらしいし、それも当然か。


 そう言えばアンナから、伊織が国際教養科への転科の希望を出してきたと聞いた。それはやはり彼女がいるからだろうか。


 いい雰囲気だ。

 伊織が優花に想いを打ち明けるなら、今が絶好の機会だろう。


「……」


 まりあは楽しげなふたりを見ていられなくなって、そっと窓から離れた。






 伊織と優花は自動販売機横のベンチで、並んで座って缶ジュースを飲んでいた。


 校舎に戻る前に休んでいこうということになったのだ。伊織は疲れていたし、優花も少しサボりたい気分だったので丁度よかった。


「あ、でも、久瀬くんと初めて話したとき、途中でそっちの人だってわかったときはどうしようかと思った。早く逃げなきゃって」

「ひっでぇな、おい。俺は化けものかよ」


 ふたりは笑い合う。


 それから伊織はスポーツドリンクを煽り――ふとまりあの言葉を思い出した。




『切り込むのならいい雰囲気のときにしなさい。女の子相手に雰囲気は大事だよ』




 もしかして今がそのときだろうか。


 よし、と心の中で自分に勢いをつける。


「あ、あのさ――」


 思い切って伊織は切り出した。






 それから少し後、


 まりあができ上がった書類を職員室に届けた帰り――2階の渡り廊下を通っているときだった。丁度その下に差しかかろうとしている伊織の姿を見つけた。


 彼女は廊下の前後を見る。――誰もいない。そして、窓の外に目をやっても見える範囲に人影はなかった。


「りっくん!」


 窓を開けるなり叫び、


「とうっ」


 軽やかに身を投げだした。


「うわ、バカ。まり姉!」


 ぎょっとする伊織。そうしながらも尻から落ちるようにして落下してくるまりあを、しっかりとキャッチした。


「さっすが、りっくん」

「じゃねぇよ。危ないだろうが」


 腕の中におさまって無邪気に喜んでいるまりあに、伊織は呆れるやら腹が立つやら。


「ったく……」


 と、まりあを降ろそうとすると、


「あ、待って」

「んだよ?」

「上履きだから。ここじゃダメ」

「……」


 思わず脱力し、ついでにこのまま落としてやろうかと思った。


「んなこと気にするくらいなら、飛び降りるなよな」


 文句を言いつつ渡り廊下の下へとまりあを降ろす。そこは土足のものが横切る場所でもあったが、ふたつの校舎を結ぶ連絡通路でもあり、公式にれっきとした廊下である。


 そうしてから彼女をキャッチする際に手放したブレザーを拾いに戻る。


「……ねぇ」


 その背中にまりあは呼びかけた。


「さっき優花と一緒にいるのを見たけど……告白、したの……?」

「あ? あー、あれな……」


 伊織はつい先ほどの出来事を思い返した。





                  §§§





「あ、あのさ――」

「あのっ」


 思い切って切り出した伊織の言葉に、思いがけず優花の発音が重なった。


「……」

「……」

「ど、どうぞ」


 わずかな沈黙の後、先に声を発したのは優花だった。伊織に先を譲り、続きを促す。


「ん? そうか? じゃあ――」


 と、仕切り直しかけた伊織だったが、そこで止まってしまった。


 そして、結局。


「あ、いや、たいした話じゃないんだ。……長谷部は?」

「え? わ、わたし? わたしは、えっと……な、何を言うのか忘れちゃった……」


 話すのがかぶっちゃったからかな?――と、どこかぎこちなく照れ笑いを浮かべる。


「そ、そっか。あー、じゃあ、そろそろ帰るかな」

「わたしも戻らないと」


 結局、伊織は切り出すタイミングを逸してしまい、優花とはその場で別れたのだった。





                  §§§





「……やめた」

「やめたぁ!?」


 予想外の答えに、まりあは思わず大きな声を出してしまう。


「どうして!?」

「どうしてって……」


 庵は言い淀む。


 なぜだろうか? 自分でもわからない。ただ、強いて言うなら、


「俺、向いてないんだよ。そういうのさ」


 伊織はブレザーを拾い、ついた砂埃を手で払う。これ以上この話題に踏み込まれると困るので、できれば話を変えたかった。そういえば今日初めて気づいたことがあったのを思い出し、振り返る。


「つかさ――まり姉、眼鏡かけてたんだな」

「え? あ、しまった。人前じゃかけないようにしてたのにっ」


 特に伊織の前では。ずっとかけていることすら内緒にしていた。まりあは慌てて眼鏡をはずして、後ろ手に隠す。


「おせーよ。でも、まぁ、いいんじゃないの。似合ってるし」


 横長でスタイリッシュなアンダーリムのフレームは、なかなかにファッショナブルで、それでいて知的な印象も引き立てている。


 それに、


「かわいいと思うよ」

「え? あ? う……!?」


 途端、まりあの目が泳ぎ出す。


 てっきり笑われるのだとばかり思っていただけに、伊織のこの反応は想定外だった。どうせかけなければいけないのならできるだけかわいいものを、と思って悩みに悩んで選んだのがこの眼鏡なのだ。お金もかかったけど、それだけの甲斐はあったようだ。


「そ、それよりさ、りっくん、もう帰り?」

「ん? ああ、もうっつーかやっとっつーか、とりあえず今日はこれで終わり」


 伊織はアンナの突発個人レッスンを思い出し、辟易とした気分を蘇らせた。


「だったら、久しぶりに一緒に帰ろっか?」

「まぁ、家が近いのにわざわざ別に帰ることもないしな」

「わかった。じゃあ、帰る用意して昇降口で待ち合わせね。せっかくだからりっくんに、道々、お姉さんが恋愛の何たるかを教えてあげよう」


 まりあはそう決めてしまうなり、ポニーテールを棚引かせて校舎の中へと駆けていった。


「だからお姉さん言うなっつってんだろうーが」


 しかし、そのときにはすでにまりあの姿はなく、伊織はやれやれとため息を吐く。魔術学科の生徒会長も、生徒がいないところでは単なる幼馴染のお姉さんらしい。

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