十七日目。

「本当にいいのかい?」

「はい! バッサリいっちゃってください」

 背中から問うてくる由来に、鏡の前に座っている咲希は笑顔で頷く。その笑顔は、目こそ少し腫れてはいるものの、吹っ切れたような、清々しく爽やかなものだった。

「でもこんなに伸ばしたのに、もったいないねえ」

「いいんです。決意表明? みたいな感じです」

 咲希の長い黒髪を手に、どこまで切ろうかと悩んでいた由来は、咲希の言葉を聞いて鏡越しにニヤリと笑う。

「なにを決意したんだい?」

 ジョキッ、と鋏が髪を切る音が咲希の耳に入る。咲希はいたずらっ子のようにニッコリと笑う。

「内緒です」

「ええー? そう言われると余計に知りたくなるなあ」

「ふふっ。また夏休みに結果報告も兼ねて言いますから、楽しみにしててください」

 咲希の言葉に、由来はあらあら、とどこか嬉しそうに笑う。

「そんなにはやく結果が出せるのかい?」

「絶対に出してみせます」

「そうかい。じゃあ、楽しみにしてるよ?」

「はいっ!」

 二人は鏡越しに笑い合った。


「はい、完成!」

 由来の言葉に、咲希は左右に顔を向けて具合を確認する。腰まであった黒髪は、顎と同じくらいの長さまで短くなっていた。首元をかすめる毛先が、くすぐったい。

「こんなもんでどうだい?」

「ちょうどいいです」

 咲希は鏡の中で由来にニッコリと笑い、頷く。サラサラと音を立てて咲希の黒髪が揺れた。

「よかった」

 由来も笑うと、咲希に巻いていた布を取る。咲希は立ち上がると、横にあったほうきとちりとりを持って、床に落ちた髪の毛を掃除しようとする。が、由来がそれを止めた。

「いいよ」

「え、でも切ってもらいましたし、これくらいは……

「大丈夫だから。咲希ちゃんは、忘れ物がないか確認しておいで」

「……わかりました、ありがとうございます」

 咲希は一度お辞儀をすると、そのままリビングを出る。そして階段を上り、自分の部屋のドアを開いた。一番に咲希の目に飛び込んだのはやはり、開けっ放しの窓から見える桜の樹だった。咲希はその樹に小さく微笑むと、部屋の中に入り、中央に立ってグルリと見回す。ここに来たときに持ってきた鞄以外は、もともと置いてあった家具を除いてなにもなかった。窓の前まで行くと、咲希は目に焼き付けるように桜の樹をじっと見つめる。気が済むまでそうしたあと、咲希は静かに窓を閉じて机の方へ視線を向けた。瞬間、朔矢との思い出が鮮やかに頭の中で動き出す。困った微笑み、悲しげな微笑み、切なげな微笑み、優しい微笑みに、柔らかな微笑み――。咲希が思い出す朔矢は、ほとんど微笑んでいた。そっと咲希は自分の額に触れる。あのときに触れたのは、桜の花びらだったのか、それとも別の、そう、例えば朔矢の――。

咲希はフッと息を吐くように小さく笑うと、額から手を放した。

「いってきます」

 呟くように言うと、咲希は回れ右をして鞄を手に持つ。そして部屋を出ていった。


 家の前で待ち構えていた泉と櫻井、そしてもとから一緒に行くつもりでいた由来の三人と一緒に、咲希は駅へと向かった。もちろん荷物持ちは櫻井である。駅までの道では、すれ違うヒトがみな、いってらっしゃい、と咲希に手を振る。咲希は笑顔でいってきます、と手を振り返した。


 初めて来たときは長く感じた道のりも、思い出を一つずつ拾うように思い出しながら、親しい人ビトと話しているとあっと言う間だった。

 咲希は今、駅の改札口の前にいる。その場から町を見下ろした。相変わらずこの町は、桜色に覆われていた。

「咲希ちゃん、元気でな。変な男に捕まるなだだだだだだ」

「どの口が言うのかしら?」

 泉と櫻井のやりとりに、咲希は笑う。その笑顔を見て、安心したように泉は微笑んだ。

「元気でね」

「はい」

 咲希も泉に微笑み返す。泉の目が少し腫れていることに気が付いたが、咲希はなにも言わなかった。

「咲希ちゃん」

「はい」

 由来に名前を呼ばれて、咲希は由来の方を向く。

「また、夏に会えるのを楽しみにしてるからね」

「はい」

 咲希は頷き、あ、となにかを思い出したように声を漏らした。

「あの、由来さん」

「? なんだい?」

 咲希は真面目な顔で由来の目をじっと見つめる。

「実は私、目玉焼きは固焼き派なんです」

 咲希はニヤリと口角を上げる。由来は一瞬ポカンとしたあと、吹き出した。

「あはは! わかったよ。次来たときは固焼きの目玉焼きを作ってあげる」

「やった、ありがとうございます」

 咲希は嬉しそうに言うと、三人の顔を順番に見てから頭を下げた。

「今までお世話になりました」

「いってらっしゃい」

 由来が言う。咲希が顔を上げると、三人は手を振っていた。咲希は微笑んで、手を振り返す。

「いってきます」

 咲希は名残惜しく思いつつも改札を通り、ホームへと向かった。


 ホームにはすでに電車が止まっていた。相変わらず年期を感じるくらいには、へこんだり黒ずんだりしている電車に懐かしさを感じて、咲希は小さく笑う。ドアは開いており、やはり中には誰もいない。開いたドアの前には、さくらとあの老人がいた。

「お待たせしました」

 咲希が軽く頭を下げると、さくらと老人が微笑む。咲希はじっと二人を見て首を傾げる。

「あの、なんでさくら様がここに……?」

 咲希の問いかけにククッとさくらがいたずらっ子のような笑みを浮かべる。

「まだ紹介していなかったことに気付いてな」

「なにをですか?」

 さくらがなにを言っているのかよく分からず、咲希の眉間にしわが寄る。

「閻魔が誰か、言ってなかったじゃろう?」

「そういえば、そうですね。……で、誰なんですか?」

 咲希の問いに、察しが悪いのう、と呟きながらも楽しそうにさくらは老人のほうへ手を向ける。

「こちらが、閻魔じゃ」

 咲希は思わずじっと老人を見る。驚きはしたが、でもすぐに納得できた。この電車は、いろんな《町》を行き来する。それはつまり、運転手の運転次第で乗客の進む場所は変わってくるわけで、行き先を決める運転手はまるでよく聞く、天国か地獄かを決める閻魔のようだ、と咲希は思ったのだ。

「こんなに優しいお顔をしているとは思いませんでした」

 咲希が一番驚いたのはそこだった。閻魔、と聞けば恐ろしい顔を連想することはあっても、目の前の老人のように朗らかな微笑みが似合うような人を想像することはなかったからだ。咲希の言葉は閻魔にとって予想通りだったようで、ホッホと笑っている。

「談笑はこのくらいにして、そろそろ行きますか」

 そう言うと、閻魔は笑いながら電車に乗り、運転席へと歩いていった。残された咲希はさくらのほうを向く。さくらは微笑んだ。

「また、待っておるぞ」

 咲希も微笑み返す。

「絶対に、来ますから」

 咲希はお辞儀をすると、鞄を持って電車の中に入る。同時にドアが音もなく閉まった。スーッと電車は走り出す。咲希が適当な位置に座って窓から外を外を見ると、たくさんの桜の樹が手を振るように花を揺らしていた。咲希はそれに返すように手を振った。


 しばらくして桜の樹が見えなくなった頃。

 咲希は鞄から一冊の手帳と、筆箱を取り出した。あの日記である。咲希はそっと日記をひっくり返して背表紙から開く。そこには見慣れた、五年後、木立高へ行くから。と、待ってる、という文字がある。そしてその下に一つ、新しい言葉が付け足されていた。そこには綺麗な字で、笑っていて、とだけ書かれていた。咲希はそっとその文字を指でなぞる。そして筆箱からペンを取り出すと、キャップを外してその下にキュッキュッと音を立てながら文字を書いていく。書き終わると、咲希はペンのキャップを閉じた。

「見ててくださいね」

 そう呟いて、咲希はふわりと微笑んだ。


――ともだちを、作ってくるから。


 その文字は、温かな光に照らされていた。

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さくらのまち 奔埜しおり @bookmarkhonno

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