十六日目。
榎本のときもそうであったように、空には雲一つなく、なににも邪魔されることのない青が、悠々と広がっている。その青の近くで桜の樹が、薄桃色の花を咲かせていた。
昨日の夜、朔矢と咲希が言葉を交わした場所に、今大勢の人ビトが集まっている。その中にはもちろん、咲希もいた。
「――今から、朔矢が上へ昇る、朔矢、別れは済ませたな。心残りはないか?」
樹の前にはさくらと朔矢が立っていた。咲希がじっと朔矢を見ていると、朔矢がこちらを向く。目が合うと、朔矢は微笑んだ。
「朔矢?」
「さくら様、少しだけ時間をください。……咲希さん」
朔矢が手招きをする。集まっていた人ビトが朔矢の視線を辿るようにして咲希を振り向き、左右に避けて道を造る。それは花道のようだった。咲希はその即席の花道を、朔矢の元へと歩き出す。これからの会話が終われば、朔矢は昇るだろう。これが本当に最後なのだ。そう思うと、咲希の歩みは惜しむようにゆっくりになっていく。そんな咲希と朔矢を、人ビトは温かく見守っていた。
やっと朔矢の前まで着くと、咲希は朔矢を見上げるようにして立ち止まった。
「一日、考えてくれたんですね」
朔矢は静かに頷く。そして口を開いた。
「まず初めに言っておくよ。現実問題として、僕たちは付き合うことはできない。それは分かってるよね?」
朔矢はすぐに昇ってしまう。それは、一週間前から確定していたことだ。そのことはちゃんと咲希は理解している。朔矢の返事がどちらであったとしても、二人の関係は、あと一時間もせずに終わるのだ。
「はい」
咲希の返事に、よかった、と朔矢は笑った。それは安堵の中に寂しさの混じった笑顔だった。
「咲希さん」
名前を呼ばれる。咲希はじっと朔矢を見つめる。静かな空間に響いてしまうのではないか、というほど咲希の心臓の音は大きい。その心臓の音に朔矢の声をかき消されないようにと、咲希は耳を澄ませる。朔矢の口が動く。まるでスローモーションでも見ているかのように、咲希にはそれが、ゆっくりに見えた。
「僕は……」
ギュッと咲希は自分の服の裾を掴む。
「僕も、君のことが好きです」
「――っ」
咲希がなにか言おうと口を開く前に、涙があふれた。慌てて咲希が頬を拭うそばから、涙は落ちてくる。拭っても拭ってもキリがない。
「泣かないで」
「好きでっ泣いてるわけっじゃ、ない、です」
なんで止まって欲しいときに限って涙は止まらないのだろう。そんなことを考えながら、咲希は滲む視界の中で朔矢を見つめる。
ああ、ぼやけた視界じゃ、あなたがどんな顔をしているのか、見えない。
「残念じゃが時間じゃ、朔矢」
重々しく告げられる、終わりのとき。さくらが空に両手を伸ばすと、太陽のように温かな一筋の光が朔矢へ降りてくる。
行ってしまう。
そう思ったときには、咲希は朔矢に抱きついていた。朔矢が、さくらが、周囲が、一瞬にして驚いたようにざわついたのを、咲希は感じていた。
「咲希さんっ!」
咎めるように朔矢が名前を呼ぶ。それでも咲希は朔矢を放さない。
「まだ一緒にいたかった!」
それは、咲希の本心だった。
「咲希さん……」
朔矢は困ったように名前を呼んだ。咲希は朔矢の身体に擦り付けるようにして、首を横に振る。
「分かってます。むりなこと……。ちゃんと、分かってますから……」
咲希の声は掠れていた。
朔矢の足は膝辺りまで消え、代わりに桜の花びらがそこから解けるようにして上へ、上へと昇っていく。それを見た咲希は、思わず腕の力を強めて朔矢の胸の中に顔をうずめる。
「でも、まだ一緒にいたかったです。もっともっと話したかったです」
朔矢の右腕が少しだけ上がる。迷うようにその右手は一度停止するが、それもほんの少しの時間だった。
ポン、と優しく頭を撫でられる。その手はまるで宝物にでも触れるかのようにそっと、そっと、咲希の頭に触れていた。咲希が顔を上げると、朔矢が微笑んでいた。その微笑みは咲希の覚えている限りで、一番柔らかくて、優しくて、そして切ない微笑みだった。朔矢の左手が、咲希の細い背中にまわる。
「僕は君の笑顔が見たいな」
温かな朔矢の声。咲希は朔矢を見つめる。そして、必死で微笑んだ。どうか自分の想いが、朔矢を好きだというこの想いが、少しでも朔矢に届くように、と祈りながら。朔矢は嬉しそうに笑った。朔矢の背中にまわっていたはずの咲希の掌に、花びらが触れる。それに気付かないふりをして咲希は微笑み続ける。咲希の背中に触れていた左手が、頭に触れていた右手が、順番に桜の花びらになって昇っていく。新しい涙がこぼれそうになるのを、咲希は微笑みながら下唇を噛んで堪える。ふいに朔矢の唇が、咲希の耳元に近づいてきた。
「目を、閉じて」
言われたとおり、咲希は目を閉じる。少しして、咲希は額に温もりを感じた。ゆっくりと目を開くと、最後の一枚が、ゆらゆらと揺れながら昇っていくところだった。
それはまるで、朔矢が手を振っているようで、咲希は小さく手を振った。花びらはどんどん小さくなっていき、やがて光に吸い込まれて見えなくなった。
「さよなら、朔矢さん」
ポツリと呟いた瞬間、咲希はその場に崩れ落ちた。限界だった。心に開いた穴が、痛い。誰かの手が、咲希の肩に触れる。
「咲希ちゃん、立てるかい?」
由来の手だった。咲希は小さく頷いて立ち上がり、由来に引きずられるようにして、集まっている人ビトの一番後ろに下がった。
「桜ノ町の住人の一人。佐々木朔矢は、無事に昇っていった。どうか、悔いのない来世を送れるよう、祈ってほしい」
由来に優しく背中を押されて、咲希はその場に正座をする。咲希は嗚咽を堪えて手を組んだ。
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