極北より愛を込めて
艶やかな紫紺の長い髪に、アーモンド形の大きな瞳。一度見たら忘れられない印象的な金糸雀色の虹彩。小さな鼻と口。ほっそりした顎。それが私。日が昇り、起きて支度をして家を出る。紫外線が髪を、肌を焼く。湿気は相変わらず鬱陶しい。黒いPRADAのリュックに紺色の菰包み。HARUTAのローファー。いつもと同じ通学路。でも何かが少し違う。
朝のホームルームで、交換留学生の紹介があった。ロシアから来たアレクサンドラなんとかかんとかさん。私は英語の内職で忙しかったから彼女の自己紹介をまともに聞いていなかった。留学生はサーシャとでもお呼びすればいいか。
流暢な日本語で、サーシャと呼んでくださいお願いしますと発した声に、今朝の違和感の正体があった。しのさんが言っていたのはこの人だ。顔をあげる。サーシャを見る。白磁の肌に緩やかなブロンドの長髪。彫深い目鼻立ちに憂いをおびたように瞳に掛かる長い睫毛。そして一度見たら忘れられない緑から菫色に変化する虹彩。微笑むとふっくらとした唇から愛嬌が零れ出る。それが彼女だった。
その日は皆、一日中可愛らしいディエーヴゥシカ(お嬢さん)に浮足立っていた。私も落ちつかなかった。彼女が可愛いからではない。彼女は私の同族だ。異形のヤツラを切り刻み挽き潰し根絶やしにすることを生業とする者。
「ねぇ、帰り道はこちら?一緒に帰っても良いかしら?」
Chloeのオーデパルファムが香る。嫌いな香りではない。教室で見たときよりも背が高いのは、Christian Louboutainの黒いパンプスを履いているからだった。靴裏の鮮血じみた赤にどきりとした。
「ええ。喜んで」
人を虜にする愛嬌を自然に身につけている人間は手ごわい。不思議な偏光色の虹彩がかげろうの様に揺らめく。二人並んで校門を出るまでに幾人もの老若男女が私たちに目を奪われた。美しい生き物が並んでいるのだ。その眼福にあやかりたいと皆思うのだろう。
「この方向でいいの?」
「ええ、サーシャさんは日本語がお上手ね」
国道沿いの歓楽街へ抜ける道に出る。交通量が多くなり慌ただしい車の走行音にむせかえるような排気ガス。
「祖母が日本人でした。父はロシア人のクォーター、母はユダヤ系のロシア人」
「へぇ、そう。おばあさまから日本語を習ったの?」
「ええ。小さな時はおばあちゃんのところに預けられていたから」
まもなく大きな河川に差し掛かる。川に掛かる橋は車道と歩道に分けられていて、歩道は高架下を通っている。むき出しの薄汚れたコンクリート、葦の茂る河川敷、昼なお薄暗い場所。
「ねぇ、私はおじいちゃんからこの力を譲られたわ。あなたと一緒。ほらあそこ、視えるでしょう?」
彼女の目線の先には何もなかった。ヤツラの気配さえ無い。一体どこを見て何を感じたのか。
無造作にブレザーのポケットからチャックつき透明袋をとりだして、きらきらした砂めいた何かを五百メートルほど離れた対岸の橋脚に向かって投げた。
「グラート」
英語?Great?脈絡のない言葉が、直後、別の意味を持つ言葉であるとすぐに察せられた。ダイヤモンドダストめいた粉塵が不可思議の力を帯びて、姿はおろか気配さえ微塵もない葦原へと青白い軌跡を引いて飛んでいった。
「さぁ、こっちよ」
歩道から河川敷に降り、鬱蒼とした葦原を掻きわけ進む。背丈ほどもある草むらから真白い手が伸びてきたので、そっとその手を取った。驚くほど冷たい。ビスクドールめいた質感の、まぎれもなく血の通うた美しい少女の腕。
「一、二、三四・・・・・五?六?これ、別個体の腕かしら?どう思う?」
「えっと、その」
彼女が草むらを指さす。そこには生物の死骸はおろか腕一本、血の一滴さえも落ちているようには見えなかった。つまり私には視えなくて、彼女には視えるナニカがそこにあるということ。私が、サーシャ視えているナニカと戦う存在ではあるが、ナニカが見えているわけではないことを彼女は知らない。そもそも、私たちが駆逐せんとしているヤツラと戦う人たちは視えているのが当たり前なわけで。視えない私が可笑しいのだ。
「ごめんなさい、サーシャ。私あの、その、視えなくて」
「えっ!?これが!?」
「ごめん、ホントに、視えないの」
「・・・・・そう、でも、でもその方がいいのかも。視えていなくても別に構わないわ」
「うん、視えないけどちゃんと戦えるから。心配しないで」
虫か爬虫類かそれとも別の形をしたものか。とにかく、死体が散乱しているであろう場所に背を向けて、サーシャは微笑んだ。
「いいのよ、こんなもの、視えなくったっていいの。貴女には、視えない方がいい」
微笑む彼女は、美しい、とか可愛いとかそんな概念を三つ四つ飛び越えた、別次元の美貌、愛嬌、慈しみそのようなものを放っていた。
「もう、ずっと何年も視えないまま戦っているの?」
碧い草を踏みわけて、サーシャは来た道をたどり歩道の方へ戻っていく。
「ええ。刀を祖父から引き継ぐ以前から、視えなかったのだけど戦っていたから」
「そう、そうだったの、シャスチエ(大吉)の孫」
サーシャが先に土手の歩道にたどり着いた。そうするのが当然と言わんばかりに手を延べて私の体を土手の上の歩道に引き上げる。引き揚げた後も、繋いだ手はそのままにして。
「あの、貴方は、さっき何をしたの?」
「冷たい水の塊、グラート、ロシアの言葉、ええっと」
「氷?」
「それが空から降り注ぐの」
「雪?」
「もっと痛いわ」
「雹?霰?」
「ひょう、あられ。そう言うのね」
結局しのさんのお店まで私たちは手を繋いだままで歩いた。お互い、踏み込んだ話はしなかった。天気がどうだとか、クラスメイトのことや今日といた数学の証明問題、明日の国語の古典の予習のこと。
「ようこそお嬢さん方。よく来たわね」
ドアを開けた時に離れた手は少し湿っていた。
「ウオツカは出せないけれど、何になさいますディエーヴゥシカ」
「コーラ。コーラにします。ダイエットコーラ」
汗をかいたウーロン茶としゅわしゅわと音を立てるコーラが仲良く並ぶカウンター。しのさんは眩しそうに居並ぶ私たちを眺める。
「で、サーシャの能力ってなんなの」
「宝石を、弾丸や盾や、他にもいろいろなことをする、そういう魔法みたいなもの。さっきはクリスタルを使って銃弾のあられを飛ばしたの」
「それってめっちゃコスパ悪くない?宝石でしょ?」
「コスパ?」
「コストパフォーマンスのこと」
「なるほど」
「それなら心配ないわ」
「私の一族、鉱山を持っているの。心配しないで。宝石も売ったり買ったりしている」
コーラの香料とchloeのパルファムがまじって甘ったるい匂いを作る。浮世離れした靴裏の真紅なChristian Louboutainの靴を履く女子高生の謎はそういうことか?
「へぇ、なんで日本に来たの?」
「おばあさんがダイキチにお世話になったから。私の大好きなおばあさんが育った日本だから、私も日本好き。ミオはその中でも大変好き」
白磁の肌にうっすらと紅をはたいたような頬、桃色珊瑚めいてとろりとした唇。なにより惹きつけられるのは、アレキサンドライト色の瞳。この子も私と同じ美しい生き物だ。眼前のオカマとは違う。
「しのさん、どういうこと?知ってるんでしょ?」
急に喉がかわいた。手に持ったグラスの水滴が指をびしょびしょにする。
「サーシャのおじいさんたちが大吉の才能を伸ばすきっかけを与えて、大吉はそれに応えたの。かなり有能なかたちでね」
「はぁ・・・・・?」
「あんたが知ってる大吉は、酒好きの好々爺のクソジジイだろうけど、サーシャの知る大吉はきっとサムライそのものね」
「なにしでかしたの・・・・・」
「“終わらない冬”を退けたの。私たちが与えた鍵を使ってダイキチは、自然の振る舞いそのものをどうにかしてしまった」
未だに日本語を上手く操れないサーシャの口から謎めいた言葉が飛び出した。知らない時代の知らない祖父の姿。気になるけれど、それは祖父と私だけが知る秘密に関わりがあるのだろうか。
「どういうこと?」
「その刀、私のおじいさんのところで作られたそうです。シベリアで百年腐らなかったトウヒの倒木を薪にして、シベリアに落ちた隕石と戦車の鉄から作った刀。薪も、隕石も、戦車も提供したのは私のおじいちゃん。第三帝国から逃げてきた古いユダヤの血筋とバーバヤガ(魔女)が眠る凍えた土地の呪いがまじり合ってできたもの。戦争で流された沢山の血に“終わらない冬”が目覚めてしまった。それを打ち倒してしまったのがダイキチ」
「終わらない冬ってなんなの?」
「ベス(化物)の一つ。私たちが狩るモノのことを、私はベスと言う。“終わらない冬”はベスの中でも古いもの。サタンと同じような存在。人間がサタンを知った時にはそれらは既に知られていた」
「はぁ・・・・・」
じゃあ人類は常にヤツラと戦っていたのか?だいたい私にしたって情け容赦なく殺しまわっている存在について知らな過ぎるが、知ろうとすると
「サーシャ、その時ではないわ。今はまだ、語る時ではない、目覚める時ではない。あなたはお父様の伝手を頼って大好きな巳緒に会いに来た。そうでしょう?また冬になれば貴女は大陸へ戻る。そういう約束よ?」
パノプティスが常に穏やかに諭す。中学生のころは意味が分からなかった彼女の言葉もようやく何が言いたいのか少しだけ分かるようになった。だから余計な口は挟まない。
「つまり、サーシャは私に会いにわざわざロシアから来たの?」
「サンクトペテルブルグからよ。御存じかしら?」
どこだそこ。初めて聞く名前にちょっと戸惑う。
「そうねぇ、フィンランドに近い街よ」
「へ、へぇ」
しのさんが助け船を出す。
「ところでスヂバー(宿命)、エアクラフトファイター(艦上戦闘機)、お話があるのだけれど」
こういう機転が利くのはしのさんの素晴らしい才能の一つだと思う。
「まあ、ロハな仕事になりそうだけど、鼬の化物を一つ、退治してきてくれないかしら?」
「いいけれど、ミオ、ロハってどういう意味?」
「ボランティア、ただ働き、灰色の封筒の埒外の仕事」
「なるほど。でもミオと一緒に戦えるのなら喜んで」
ブロンドの美少女に屈託なく笑いかけられ、しのさんは憮然とした表情で私に向かって、だ、そうですよと勿体つけて言った後に、一呼吸おいて宣った。
「普観者が視るわ。撃滅対象は一体。丁度外に停まっている四駆くらいの大きさ、動きは素早く毒を持つ後ろ脚に気をつけて。弱点は心臓じゃないかしら。好物は若い女の血液。化物のご多聞に漏れずヘンタイね」
「じゃあ、お寺をうろつけば釣れるのね」
バーチェアに立てかけていた菰包みを手に取り得物の重量を腕に感じる。
「そう。では御武運を。エアクラフトファイター、スヂバー」
PRADAのバッグをおしとやかにカウンターに置いて、真っ赤なChristianLouboutinのハイヒールを取り出す。
「わぁ!ミオとおそろい!!」
「・・・・・ダイキチに買ってもらったの」
「とっても素敵。サムライの戦装束ね」
「・・・・・ええ、そうかも」
これを履いてお前は戦えと、祖父に言われた。履いて歩けば靴ずれを起こす靴だが、戦うときは不思議と手足の一部と為る靴。祖父が死んでこの靴はますます私の一部の様に振る舞う。
血の様に赤い靴裏、瓜二つの形をした色違いの黒と赤のピンヒール。制服姿の白シャツが眩しい黒髪と金髪のうら若い乙女。夕餉には少しばかり早い頃。
セイタカアワダチソウの茂る空き地。風が吹くたびに、落着きを亡くしたように茎を、葉を揺らす。砂利の敷き詰められたお寺の駐車場の先の林立する墓石。無機質たちが落とす影はじわりじわりと伸びてゆく。しゅるりと菰から日本刀を取り出す。お寺の庭に鬱蒼と葉を茂らせる楠の大樹を見る。
伸び始めた影に潜む異形の気配がした。さあ出て来い。暮れ六つの鐘鳴りなば私とダンスを踊っていただこう。
「プーリァ、キンジャール」
私が柄に手をかけたと同時に、弾丸のような閃光がサーシャの手から放たれる。それに追随して鋭利な白刃を孕んだ赤い色の風が首を狙う。初手をかわされ、弾丸も胴で受けられ無効。不可視の後ろ蹴りを素早くかわし、腱を狙う。手ごたえなし。一旦サーシャのところまで引き、間合いを取る。
「PFM-1、起動」
数多の疑問が湧くより早く私はサーシャの真横まで引く。一瞬遅れて不可視の爆風。抜き身の震電と雷電を携えクラウチングスタート。十センチヒールなどものともしない完璧なスタートダッシュ。狙うは怯んだ醜い化物。御命頂戴。胴をかっ捌き、返す刀で凶悪な後ろ足を縫い留める。碧いキンジャール(短剣)が急所に突き刺さる。止めに踏み込みからの大上段に構え切り下ろす。手ごたえで事切れたのが伝わる。
「ミオ・・・・・あなた」
振り返るとサーシャが青ざめた顔でこちらを見ている。
「くっさい臓物でも貼りついているのかしら?ごめんなさいね、サーシャ。こうやって視えない血で汚れるのはいつものことなの。帰ったらシャワーを浴びるから、辛抱して頂戴ね」
「え、ええ。だいじょ、だいご、ごほっ」
言葉とは裏腹に全然全く大丈夫ではなかったサーシャは、堪えきれず蹲ってしまった。慌てて駆け寄り介抱する。肉付きの薄い背中をさすり、激しくせき込む彼女をいたわる。
サーシャが落ち着くまで待ってからしのさんの店に戻った。
「分かってる!分かってるってば」
サーシャを担ぎあげ、しのさんの任せるとシャワー室に直行した。先月の給料で買ったWillserectionのワンピースに袖を通す。
「あらぁ、それカワイイじゃない」
上機嫌に出迎えたしのさんはウーロン茶を淹れてくれた。お礼を言って飲み干すと、少し血色がよくなったサーシャと目が合う。
「大丈夫?ごめんね、なんか無茶して」
「ううん、いいの。私は特別鋭いから、その」
そうか、だからあの河川敷でも感知できたのかと納得する。
「もともと戦闘能力はそこまでない?」
「そういうわけではないけれど、まあ、あなたに比べたら劣るわね。というかあなたの火力が異常なのよ」
しのさんが補足する。
「サーシャはサポート系?」
「ええ、そうね。ねぇ、話が変わって申し訳ないけれど、そのワンピースとってもかわいいわ。どこで買ったの?ミオ、今度一緒に買いものに行こうよ」
「えっ?いいの?」
「もちろん!ミオとお買いものができるなんてとっても嬉しいわ。いいかしら?」
「こ、こちらこそ」
夕刻の血まみれだった私を見て真っ青なっていたサーシャが、たちまち破顔し頬をほんのり薔薇色に染める様を見て、しのさんが呆れたように炭酸水に口をつけた。
赤い靴 梅戸藤花 @dion_kawaii
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