エンディング

ババア記念日

 アルが目を覚まし小学校へと向かったのは、既に夕方になろうかという頃であった。

 磯の香りにもう少し生臭さを追加したような臭いが、玄関を入った瞬間に漂ってくる。アルは顔をしかめつつ、その臭いを辿っていった。道中の教室を覗き込むと……いる。負傷した人魚。教室中に所狭しと敷かれた布団の上に寝かされた彼女らは、味噌汁の椀に注がれた甘酒めいた液体を飲んでいる。それを配っているのは、チィコとウツボ。ウツボがこちらに気付き手を振ってきたので、アルも振り返してから先を急いだ。

 廊下を早足で進みつつ、向かった先は家庭科室。中で大鍋をかき回していたのは、エプロンを着けたサンゴ。そして隣には、同じくエプロンとバンダナのタマ。

「タマ姉、サンゴちゃん! ごめん、寝ちゃってた!」

「あっ、アルちゃん。気にしないで、何だかんだ徹夜だったもんね」

「オオ。近ウ寄レ」

 サンゴは人懐っこそうな笑みを浮かべ、アルに手招きをする。

「それ、うぇっ、何作ってるの?」

 鍋の中で煮えたぎる白い液体を覗き込み、アルがしかめっ面で問う。

「霊薬ジャ。完全ナ品デハナイガノ。本物ハヒト月寝カセネバナラヌシ、必要ナ材料モ全部ハ集マラナカッタ。飲ンデモ完治ニハ少シ時間ガカカルジャロウナ」

「私は助手したり、お喋りしたりしてた」

「互イノ身ノ上ナド話シテオッタラ、結構気ガ合ッテノウ」

 距離感が既に友人である。サンゴのイノセントな雰囲気がそうさせるのだろう。アルは心のどこかで少しだけムッとする自分に気付いた。

「タマ姉、もうずっとそれやってるの? 少し休んだら?」

「ああ、私は大丈夫。少し寝たし」

「そうなんだ、サンゴちゃんは?」

「案ズルデナイ。好キデヤッテオル。妾ハ海ノ民ノ長ジャカラナ。居ナクナッタ長老ノ分マデ、皆ノ助ケニナリタイノジャ」

 ……良い人過ぎて憎めないのが、逆にどこか憎たらしかった。

「あ、そういえばヨシホは?」

「ヨシホちゃんはね、あの、私達が隠れてた教室にいると思う……アルちゃん、良かったらあそこまでお薬運んでくれる?」

「あ、うん。分かった」

 薬入りの椀を沢山乗せた盆を、アルはそっと持ち上げた。振り向いて進みだそうとした瞬間、サンゴが後ろから声を掛けてきた。

「アル。ヨシホニ伝エテクレンカノ。妾ノ妻ヲ独リ占メスルナトナ」

「ああ……ああ、うん。伝えとく」

 アルは二秒ほどかけてサンゴの言を理解すると、目的地に向けてゆっくりと歩きだした。途中で何度も人魚や人間とすれ違う。皆それぞれ忙しそうであった。

 アルとて、まだ完全に人魚を信用し切れたわけではない。人魚に自分や家族をさらわれた被害者、保守的な老人達、そしてその他大勢がそうであるように。しかし人魚のウツボは、海に放り出したりせずタマをきちんと陸へ帰した。他の人魚達も、死の危険を背負ってまで少女らを救助し、ここまで送り届けたと聞いている。何より、自分の信頼する人が、信用すると言って頑固な大人に掛け合ったのだ。タマと、そして……。

「――つまりさ、分かっかな。アンタらの境遇にはある程度同情するし。ウチの村並みに少ねぇ人口更に減らしたのは、まあ、悪かったよ。それは悪かった」

 ……ヨシホ。盛大に壊れた教室の窓から、その姿が見えた。バンドTにスウェットの、ラフな格好。古びた一本の包丁をヒラヒラさせながら、彼女は寝たきりの人魚達と話していた。

「でもさ、先にやって来たのはお前らだろ。アタシらにはアタシらの暮らしがあるわけ。それを無理矢理誘拐して、海の暮らしに合わせろって、そりゃ筋が通らねぇし、そっちが迷惑かけるならこっちだって考えがあるって話でさ。それはまあ、分かってほしい」

 朝、あの浜辺。恐怖と混乱に支配された大人達に、ヨシホは堂々と言った。アタシがコイツらとキッチリ話つける。それで文句ある奴ぁ前に出ろ、と。亀の甲に立ち、全裸の上仁王立ちで。見ているこっちが普通に恥ずかしかった。

「あのクソババアからなんて聞いてたか知らねぇけどさ。まず陸の奴はな、お前らみてぇに誰とでも子供作んねぇの。基本的にひとりとひとりがくっついて、その間で子供産むかどうかも、これまたカップルによりけりなんだよ。そのくっつくってのもいきなりじゃねぇわけ。徐々にこう、合意を? 形成的な? していく感じでさ」

 ともかく、目のやり場に困りつつ、彼らは了承せざるを得なかった。人魚の上層部と最初からコネクションがあるのは、ヨシホしかいない。何より、惧濫媼をその身に降ろした、言わば彼女は巫女なのである。

「だからさ。陸の奴と子供作りたいってんなら、何てぇのかな。そう、陸のやり方をちゃんと尊重してくんねぇとさ。いいなと思う奴がいたら合意を得ろよまず。相手はひとりの人間だぞ、テメェの子作りの道具じゃねぇんだ、やりてぇこととやりたくねぇことがあんだ……分かったか。返事しろ返事」

 アルはそっと教室に入り、ヨシホと話している寝たきりの人魚を見た。

「……オ前ガソウ言ウナラ、ソウシヨウ」

「面倒ナ仕組ミダナ、陸ハ……マア、フウカガイイト言ウナラ、我輩モ従ウガ」

 嗚呼、それは……イルカ、そしてフウカである!

「まあ、良かったわ。ちゃんと話通じる奴が生きてて」

「舐メルナ、筋肉ハ全テヲ解決シテクレル。戦イノ直前ニ飲ンデイタ霊薬ト、鍛エ上ゲタ我ガ肉体ノ回復力ヲモッテスレバ、体中焼カレタ状態カラ復帰スルナド容易。ゴ覧ノ通リ、肉体ノ二割ヲ失ッタガナ」

「長老ガ死ニ際ニ撒キ散ラシタ霊薬ガ無カッタラ、私モ今頃魚ノ餌デアロウ。脳以外ノ内臓ハ、筋肉マデ含メテアラカタヤラレテイタ」

「愛鮫ニモ感謝シテオケイ」

「ソウデアッタ。奴ガ私ヲ拾ッテクレタオ陰ダ」

 イルカはフッと笑い、それから続けた。

「トコロデ、ヨシホ。改メテ確認サセヨ。オ前自身ハ、乙姫様ノ妻デハナイノダナ」

「オウ。アタシの中にイソの婆さんはもういねぇ。火も出せねぇし」

「ソウカ。ナラバ陸ノ規則ニ照ラシテモ問題無イナ……ヨシホ、私ト交尾セヌカ」

 アルは盆をひっくり返しそうになった。

「オ前ト戦イ、オ前トノ子ガ欲シクナッタ。見目モ良イ。力ハ包丁ニ依ルモノガ大キカロウガ、精神ノ強サハ本当ダロウ。絶頂ノウチニオ前ノ中デ我ガ精ヲ解キ放チ、オ前ノ卵ト結ビ付ケレバ、必ズヤ――」

「待て待て待て! 変にリアルな表現やめろ! こちとら処女だぞバカヤロウ!」

「グァッ!?」

 動揺のあまり、ヨシホは思わず重症患者を蹴ってしまった。

「ド、同意ヲ求メタゾ」

「口説きの文言が本能に忠実過ぎんだろ! 本音はそれでもオブラートに包めや!」

「海ニ無イ言葉ヲアマリ使ウナ、ツマリ何ヲ正セバ交尾シテクレルノダ」

「まずそのヤりてぇのを前面に押し出すトコだよ! あとお前ら魚くせぇし、ヌルヌルしてるし!」

「イヤ、シカシコレハコウイウモノダカラナ。ソレニヌメリハ交尾ノ際――」

「交尾から離れろ一旦!」

 まだ日もあるうちから交尾交尾と、何やらとんでもないところに来てしまったらしいことは、アルにも理解できた。

「っていうかそもそもアタシお前のこと好きじゃねぇもん、無理」

「何ッ、マダ我々ヲ憎ンデ――」

「いや根本的にそういうことじゃなくて。お前に恋愛感情湧かないって話。そもそも恋愛とかしたことねぇけど」

「恋愛感情……性欲トハ違ウノカ」

「いや元を辿れば多分そうなんだけど、違ぇんだよ、あークソ、人魚ってそういう感情分かんねぇの? イヤそんなことねぇじゃん、イソの婆さんとサンゴだってそうじゃん」

 ヨシホは改めて包丁に視線をやり、ブンブンとそれを振り回した。

「乙姫様ってくれぇだし、好きな相手とヤり放題だろ? それでも婆さんがいいってサンゴは言ってんだろ? そういうこと。そういう相手がいいのアタシは。お前はそうじゃないっつってんの」

 イルカはしばし考え込み、何かを合点したように顔を上げた。

「私デ言ウ、フウカノヨウナモノカ」

 突然当事者にされたフウカは、ニヤついていた表情を途端に一変させた。

「え、あ、そうなの?」

「勇敢ナ戦士ハ海ニ数多イシ、オ前トノ共闘モ悪クナカッタガ。誰カ一人トシカ狩リガデキヌトスレバ、迷ワズフウカヲ選ブ。ソレ以外考エラレン……ソウイウコトカ」

「……うーん? まあ、いいやそれで。そうなんじゃね?」

 厳密に言うと少し違う気もしたが、それでイルカが納得できるなら、ヨシホはそれで良しとした。

「ま、とにかく、女にも色々いるからさ。ご馳走食わせてくれるなら子供くらい産むって奴もいるだろうし、陸が嫌いで海で暮らしたい奴もいるだろうし、全裸の魚臭ぇ狩猟民族と付き合いてぇ奴もいるだろうし。でもみんなそうってワケじゃねぇから。相手を思い通りにしようとしねぇで、ひとりの人間として尊重しろって話。分かった?」

「……分カッタ、ト、思ウ。恐ラク」

 イルカがゆっくりと何度か頷くと、ヨシホは納得したように立ち上がった。

「なら良し」

「あ、あのー」

 フウカは未だどう受け止めていいか分からぬようであったが、ようやく割り込むタイミングを見つけたアルは、立ったまま声をかけた。

「あれ、ようアル。いつからいたんだ?」

「さっき。ごめん遅れて……みんな、お薬持ってきたけど」

「アア、済マヌ」

「コッチニモ寄越シテクレ」

「あとヨシホ、サンゴちゃんが早くそれ持って来いって」

「ああ、これな。了解了解」

 ヨシホは包丁を持って立ち上がり、クルクルと回しながら教室を後にしていく。視線だけでアルはそれを見送る。人魚相手でもしっかりと言いたいことを言い、そして納得させた、大切な幼馴染を……良い友達を持った。この時アルは、心からそう思った。




 やがて……午後十一時。ヨシホとタマは、二十四時間前のようにコンビニの前にいた。本当はアルも来るはずだったのだが、現在はサンゴ他数名の人魚達に捕まっている。

「アル、トランプの遊び方教えたのが災難だったな。なんでババ抜きひとつで三時間も盛り上がれんだよアイツら」

「海ってあんまり娯楽が無いのかな」

「あー、かもな。音楽も全然聴かねぇっつってたし。メタルのCD流したときのイルカの顔見た? 雷に打たれた顔っつって教科書に載せてぇよアレ」

「オコゼさんも結構すごかったよね」

「何かに目覚めてたぜあの顔は。布教成功だ。そのうち海メタル来るかもな」

 ふたりが買い出しに来たのは、別に食料が無いからではない。動ける人魚戦士達が海に潜り、魚や貝を獲ってきては、家庭科室で捌いているのだ。それどころか、比較的警戒心の強くない何割かの村人は、小学校に自作料理や酒を持ち込み宴を始めている状態だ。しかし、海の幸にはコンビニチキンは無いし、ポテトチップスは無いし、棒アイスも無い。それだけのことである。

「まあ、人間と人魚で仲良くできるならいいことだよね」

「どうだろな。あの鼻の下伸ばした男共見た? ホラ、人魚ってほとんど全裸じゃん」

「あ、ああー……」

 タマは苦笑いした。

「男には興味ねぇみてぇだけどな、アイツら」

「本人達は見られても気にしてないみたいだけど……」

 何とも言えぬ顔をしながら、ふたりはアイスを食べる。コンビニのジャンクフードを詰めた袋をその手に提げたまま。

「明日の朝には海に帰るって言ってたね、人魚のみんな」

「ああ。でもしばらく復興が大変だろうな、ババアが城全部壊したし」

「大丈夫かな」

「まあ大丈夫だろ。サンゴもイルカもいるし。大丈夫じゃなかったらまた大暴れしてやる」

 ヨシホは、ポケットに突っ込んだ包丁を見た。刃の部分は新聞紙でくるまれている。

「包丁、ヨシホちゃんが預かるの?」

「ああ、当分はな。ホントならサンゴに渡すのが筋だろうけど、ホラ、ドームがあった頃ならまだしも、今は完全に海の中じゃん。錆びるだろ」

「あ、ああ……」

「復興が終わるまではこっち預かりで、通い婚にしようってことで決着ついた」

「あ、じゃあまた会えるんだ」

「そうそう。アタシ自身はアイツに恋愛感情とかねぇけど、可愛い後輩的な感じはあるじゃん。たまにはまた相手してやりてぇかなって……ババ抜きはちょっと勘弁だけど」

「確かにね」

 ふたりは、クスクスと笑った。

「……ねぇ、もうグランオウナーにはなれないの?」

 やがて、タマがそう訊ねた。

「まぁな。婆さん、ウンともスンとも言わねぇ。寝てんのか死んだのか成仏したのか分かんねぇけど、あそこで怒り尽くしたんだろうな」

「そっか」

 ヨシホはアイスをシャリとかじり、そしてタマに視線を合わせた。

「なぁ、タマ姉はさ。みんな死ねばいいって思ったこと、ある?」

 数秒の間、タマは沈黙した。そして、静かに頷く。

「あー、やっぱあるんだ。アタシもアタシも」

「……そうなんだ」

 ヨシホは空を見上げ、あけすけに続ける。

「とにかく何でもかんでも面倒臭ぇじゃん、この村。いっぺん全部吹き飛べばいいって思って。あのイヤイヤババア殺したら、次は絶対村をブッ壊すって決めてた」

 冗談めかした口調だったが、きっとヨシホは本当にそうしただろう。タマはそう思った。

「なのにさ、あの婆さん力尽きやがって。ずりぃんだよ。一緒に怒ろうって言っといてさ、自分は婚約者を守れたら安心して寝てやんの……そんで、あん時は怒ってたんだけど、なんか考えてたらアホらしくなっちゃってさ」

「……アホらしく?」

「そうそう。婆さん、鬼になるくらい怒ってたんだぜ。なのに消える時は一瞬で……そう思ったらさ? アタシが全部ブッ壊すって怒ってるこの気持ちも、なんか、好きな奴ができるとか、そういう小せぇキッカケでフッと消えちゃうんじゃねぇかなって」

「ダメなの?」

「だってさ、満ち足りた瞬間反抗やめるって、全然ロックじゃねぇじゃんそれ。所詮欲求不満で暴れてただけで、ホントに社会に反抗したかったわけじゃねぇのかよ的な。アンタも結局満足な豚かよ的な。アタシそういうのになりたくねぇのに……怖くなってさ。婆さんがああもアッサリ消えちまうと」

 初めこそ声にクレッシェンドがかかっていたヨシホだったが、最後だけは特別小さな声だった。

「自分が誰かの思い通りにされても怒んねぇで、平気な顔して。妥協して。怒ってたことも忘れて。同じようなことを人に平気でするようなさ……なりたくねぇなぁ。そんなババアに」

 意味が分かるようで、分からぬようで。タマは何と返していいか分からず、アイスをひと口食べた。ヨシホもそうした。

「……あのね。ヨシホちゃんの言うこと、全部は分かんないんだけど」

 やがて、タマはそっと口を開いた。

「私ね、今日途中で出て行ったでしょ、学校」

「ああ、そういえば」

「お父さんと喧嘩してたの」

「えっ!?」

 ヨシホは驚きのあまりアイスを落とした!

「やべ、えっ、何で? あ、ごめんこれ訊いていいやつ?」

「うーんとね」

 タマは少しの間言葉を探した。

「……つまり、お父さんは、何ていうか。私を思い通りにしようとしてて」

「オウ」

「それが嫌で、悲しくて、でも我慢してたんだけど……なんか今日は。その、怒っちゃって」

「オウ、オウ」

「……蹴っちゃったの、お父さんのこと」

「ハッハァーッ!」

 ヨシホは手を叩いて笑った。

「えっ、どこ? どこ?」

「股と、お腹に二回。顔は届かなかったから」

「うわっはァ、マジか!」

「それでね。怒鳴っちゃった。私がいっつも期待通りと思わないでって。それでそのまま出てきちゃったから、今日はもう家に帰れないの」

「……すげぇ、すげぇよ! めっちゃ見たかったソレ!」

 ヨシホはタマに勢いよく抱き付いた!

「ねぇ、ヨシホちゃん。私、ロック?」

「ロック! めっちゃロック! ハッハァーッ!」

 それは、ヨシホが戦った怪物に比べれば、小さなものかもしれぬ。ヨシホが戦う原動力は、もしかすると非常に幼く、自分勝手で、後から見ればつまらぬものであったかもしれぬ。しかしその戦いは、タマの心を動かし、彼女の世界を少しだけ変えた。変えたのだ。

 タマに抱き付いたまま、ヨシホはぴょんぴょんと飛び跳ねる。タマもされるがまま、照れるように微笑んでいた。

 ……そこに迫ってきたのは、一台の軽自動車である。それはふたりの隣に並ぶと、そこで止まった。ヨシホにとって、非常に見覚えのある車だった。

「ババア!」

「誰がババアだクソガキ」

 然り。運転席に座っているのは、サングラスをかけたヨシホのおばあ。

「あんまり帰らないんで学校行ってみたら、コンビニにいるって聞いてね」

「ハァ? 帰んねぇぞ、夜はこれからだぜ」

「明日から学校だろうに。船に乗らなきゃならんからいつもより早起きだよ、分かってんのかね」

「うるせぇ、若さナメんな。徹夜からの学校キメてやら」

 おばあは、フンと鼻を鳴らした。

「……まあ、ね。人魚共が悪さしてないか、アタシもちょっくら潜入して見張ってやらにゃいかんから。アンタ達もその間くらいいたらいいさ」

 ヨシホは数秒目をぱちくりさせ……そして腕を組み、鼻を鳴らし返した。

「そこまで言うなら、まあ、乗ってやろうじゃねぇか」

「そこまでって別にそこまで言ってないだろうが。勘違いすんじゃないよ小娘」

 運転席と睨み合っていたヨシホは、やがて助手席に乗っている圧力鍋に気付いた。

「……何コレ」

「武器だよ武器、人魚が暴れたら――」

「ってかこれ、この匂いアレじゃん! 豚の角煮じゃん! アタシの好きな!」

「たまたま冷凍庫にあったんだよ肉が」

「嘘つけ! アタシが全部食っただろうが! わざわざスーパー行って買い物してんじゃねぇか! 参加する気満々じゃねぇかよ! 食うけどな! もったいねぇから食うけどな! もったいねぇからな!」

 あまりにも素直でないふたりを見つつ、タマはクスリと笑った。

「よっしゃ、そうと決まればさっさと行こうぜ!」

「あ、それじゃあ……お邪魔しまーす」

 さっさと後部座席のドアを開き、ヨシホが車に乗り込んだ。タマもそれに続き、ヨシホの隣に座る。

「ホラ早く行こうぜ!」

「急かすんじゃないよアンタが運転するわけでもないくせに……あーあ、何か音楽でも聴くかね」

 おばあは手早くデッキを操作し……流れ始めたのは、ヨシホの好きなフィンランドのバンド、そのファーストアルバム!

「ババアあぁあ!? アタシのCD勝手に持ち出してんじゃねェ!」

「たまたまそこにあったからだよ! まったくやかましい音楽だよ、好んで聴く奴の気が知れないね! 一曲目はいいけど三曲も聴いてたら飽きちまうよ! 六曲目から八曲目にかけてと十一曲目はまあまあだね!」

「めっちゃ聴いてるじゃねぇかババア! 何なんだよこのババアは!」

 大音量のメタル。老婆とヨシホのがなり声。温かい食事の匂い。混然一体となったそれらは、タマの心にえも言われぬグルーヴ感をもたらした。ヨシホもまた、目の前のババアに向けて怒鳴りながらも、その心は大きく高揚していた。

 この先何が待っているとしても、明日がすぐそこに迫っているとしても。今日はまだ終わっておらぬ。この瞬間、この空間でだけは。少女らは女子高生であり、幸福であり、そして、ロックであった。少女らは、そして、静かに眠る包丁は、きっとこの日を忘れぬであろう。人と婆が一体となり、共に世界を少しだけ変えた、偉大なるババアの記念日を。

「……ババア」

 ヨシホは、思い出したように言った。

「だから誰がババアだってんだよ」

「あのさ、挨拶したっけ。帰って来た挨拶」

「は? さぁてね」

 ぶっきらぼうに、おばあはふいと外を向く。

「まあいいや。とりあえず言っとく……ただいま」

「……おかえり」

 ヨシホに見えぬ角度で、おばあは小さく笑った。




 嗚呼、夜は、これからだ。



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人婆一体グランオウナー 黒道蟲太郎 @mpblacklord

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