第5話

「まさかいずみちゃんがここで働いてるとは思わなかった」

夏の日は夕方5時半を過ぎてもまだ高かったが、さすがにこの時間帯だと水遊びしている子供はいない。私の仕事が終わるまでの小一時間の間、坂下君はここで待つと言い、私達はこうして10年ぶりに並んでベンチに座っている。

「司書の募集を見て、どうしてもやりたくて、それまで勤めていた会社を辞めたの。もう4年かな。坂下君は今、どうしてるの」

「東京で監査法人に勤めてる」

「‥ってことは」

「会計士をやってる」

「おお、すごいね。さすが」

「まあ、必死だったからな。今でも仕事が忙しくて必死だ」

かつての素朴さはなくなり、随分と垢抜けた大人の男性になっていた。少年だった頃の純真さは感じられない。

「今日はどうしてここに?」

「仕事で名古屋に出張で来たんだけど、クライアントの都合で午後が全部空いちゃって。でまあ、何となく懐かしくなって」

吹き上がっていた噴水が止み、静寂が訪れた。

「どうして次の日、来なかったの?」

「風邪引いて、10日も寝込んでたの。連絡しようとしたら、メルアドも携帯の番号も知らなかったことに気付いて。あんなに毎日会ってたのに、何してたんだろうね」

「そうだな、俺もあの時になって気がついた。抜けてるよな」

「9月と10月、ずっと土日に待ってたんだ。でも坂下君は来なくて、私、水泳部の友達に調べてもらったの。そしたら転校したって聞いて。彼女もすごく悲しんでるって。彼女のこと聞いたらそれ以上は調べられなくって‥それでおしまい」

「それで、俺のことは今まで忘れてた?」

「忘れてたら、ここで働いたりしてないから」

驚いたような顔をして坂下君が私の顔を見る。小さく笑い返すと、坂下君はばつが悪そうに俯いた。

「いずみちゃんは変わらないな」

「そんな事無いでしょ。10年分、年も取ったし」

「変わらないよ。いつでも君は素直で、率直で、話しているときに駆け引きが通用しなかった」

どう答えていいのか分からず、私は再び吹き上がり始めた噴水に目をやった。

「あの時‥」

独り言のように坂下君の言葉が続いた。

「あの時、東京の母方の祖母が急に倒れたんだ。うちの親の結婚に反対してずっと疎遠だったんだけど、看病のために帰ることになって。母は一人娘で他に身よりもなかった。1年後祖母が亡くなって、自宅とわずかな貯金が遺産で残されて‥それからずっと東京にいる。大学も、何とか東京の大学に滑り込んだ」

「そう」

自分でも意外なくらい静かな気持ちで話を聞いている。

「家賃が掛からなくなったから少しは楽にはなったけど、でも相変わらず生活は苦しくて、母は働き通しだった。なんとかこの状況から抜け出したくて、必死に勉強して、在学中に会計士の資格を取って‥でも無理が祟ったのか、母は4年前に体調を崩して入院した」

「お母さま、大丈夫なの?」

「3ヶ月前に亡くなった」

「それは‥お悔やみ申し上げます」

私達は俯いて黙り込んだ。長い沈黙の後、私は小さく呟いた。

「坂下君は頑張ったんだね」

「何、それ」

「坂下君はすごく頑張ったんだと思って。大学に受かって、難しい資格取って、一生懸命働いて、お祖母様とお母様の看病をして看取って」

「それは‥そうせざるを得なかったから」

「でも、坂下君は頑張ったんだね」

坂下君が俯いて額に手を当てた。

「見ないで」

「え?」

「頼むからこっちを見ないで」

泣いている。私は目の前の噴水が作る、水の煌めきを見続けた。

「君は変わらなさすぎる」

一瞬高く吹き上げた水煙が、霧となって私達の身体をかすかに濡らした。


「今晩、一緒に食事でもどう?」

辺りに薄闇が立ち込める頃、ようやく落ち着いた坂下君から誘いを受けた。

「せっかくだけど、明後日の朗読会の資料を作らなくちゃいけないから」

「それ、今晩じゃなきゃだめなの?」

「本当はもっと早くに作らなきゃいけなかったんだけど、色々あって今日まで引っ張ったやつだから」

「30分でもだめ?」

「相変わらずしつこいのね」

「それが身上なんで」

私達は笑いあった。

「分かったわ、少しだけね。ちょっと家に連絡するから」

「相変わらず実家ぐらしなの?」

「そうよ、相変わらずの箱入り娘」

「結婚しろってうるさいだろ。医者との見合い話を山のように持ってきて」

私は肩をすくめた。

「まあね。いい年なんだから、もう結婚してるかもって思わなかった?」

坂下君は自分の左手の薬指を指さした。彼のそこにも指輪はなかった。

「既婚者でも指輪をしてない人は沢山いるでしょ」

「でも女性の既婚者で指輪をしない人はほとんどいない。それに同類は何となく分かるんだ。醸し出す空気とでもいうか」

「嫌な奴。駅前の居酒屋でいい?」

肩に回されそうになった坂下君の手を、私は払った。

「何で?10年前からやり直す気満々なんだけど」

「そのつもりはないから。こっちは10年の間に完全に過去の思い出として昇華したの」

「じゃあ一から始めよう。どのみち何も始まってなかった」

「遠恋はお断り。それで元彼と別れてるし」

「その話、聞かせてよ」

自然に坂下君は私の手を取った。固くて大きな手の感触に懐かしさが込み上げてきて、私は大人しく手を引かれて夜道を歩いて行った。





















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夏の日の友へ 高尾 結 @524234

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