第4話

 私はその後、夏休みの間に図書館へ行くことができなくなった。本当に寝込んでしまったからだ。その日の夜から突然高熱が出て、濡れたせいかと思ったらウイルス性の夏風邪だと父に言われた。高熱は一週間も続き、出歩けるようになった頃には夏休みは終わっていた。寝込みながら坂下君に連絡を取ろうとして、初めてメルアドも携帯の番号も交換していなかったことに気付いた。失敗した、と思ったが、この時はそれほど深刻に考えていなかった。9月に入っても土日は図書館に来ると言っていた。その時に教えてもらえばいい。

 だがその後、図書館で彼の姿を見ることはなかった。9月と10月、私はすべての土日に図書館に行ったが、坂下君は来なかった。

 どうして来ないのか。私なりに幾つか理由を考えてみた。一番最初に思いついたのは、付き合っているという彼女のことだった。どこかから私と一緒にいたことがばれ、もう図書館に行かないように言われたのかもしれない。でもそんな理由であれだけ足繁く通っていた図書館に足を運ばなくなるものだろうか。実際に私達は友人関係でしかないのだから、後ろめたいことはないはずだ。

 私は元水泳部の級友に頼み、T高校の水泳部からつてを辿ろうとした。そこから得られた情報は意外なものだった。

 坂下君は転校していた。家庭の事情で、東京に引っ越したというのだ。高校3年のこの時期での転校は珍しい。何か重大な理由があったのだろうか。後輩の彼女は突然のことに大変ショックを受け、しばらく荒れていたらしいが、最近になってようやく落ち着きを取り戻したらしい。

 坂下君と連絡を取るのはもう無理なのだ、と私は悟った。

 もしかしたらもっと強行に調べれば、メルアドくらいは手に入れることが出来たのかもしれない。でもそこまでする気持ちがなかった。私と坂下君は夏休みの間、たまたま親しくなっただけのごく浅い関わりしかない友人なのだから。傷付いているという彼女の存在を知ると、執拗に追いかけていくことにも抵抗を覚えた。高校生生活最後の秋は学校行事などで慌ただしく、その忙しさも私の執着を妨げた。

 時間は過ぎていったが、心の奥にとげが刺さったような、鈍く小さな痛みが残り続けた。図書館の脇を通ると、坂下君のことが頭をよぎる。それでもその痛みに深い意味はない。もうすぐ高校生活が終わる。過ぎた日々を懐かしんで感傷的になっているだけだと思っていた。


 私は高校を卒業し、大学生になった。大学は男女共学で、日常的に男の子の姿がある生活に当初は戸惑ったが、すぐに自然に慣れてしまった。友人に誘われるままサークルに入り、授業を受け、慌ただしく日々は過ぎていく。親の監視も緩くなり、それまでよりも多く手に入るようになった自由を私は謳歌していた。

 夏休みに入り、私はレポートの作成資料を探しに図書館へ赴いた。何冊か本を借り、懐かしさも手伝って久し振りに公園の噴水広場に足を向けた。公園では相変わらす小さな子供達が水遊びをして歓声を上げている。

 私はいつも座っていたベンチに腰掛けた。地面から霧のように水が噴き出し、水滴が風に流されてくる。地面に虹が映り、母親達が隣のベンチで世間話をし、泣いた子が駆け寄ってくる。一年前と全く変わらない情景。

 何が起こった訳でもない。突然、目から涙があふれた。自分でも驚き、私はバックからハンドタオルを取り出そうとした。中に入っていたのはあの時と同じものだった。私と坂下君と、びしょ濡れになった顔を拭ったタオル。

 ねじるような痛みが胸の奥から湧き上がってきた。その痛みに釣られるようにして涙が次々こぼれて落ちていく。痛みは胸から喉元にせり上がり、熱を持って目の奥まで広がった。

 去年の夏、私は恋をしていたのだ。

 一人の男の子と知り合い、一緒に時間を過ごした。強い日差しと、子供達の歓声、青臭い蒸した空気、反射して光る水の欠片。夏の景色と共に彼の姿があった。いつ始まったのかも気付かなかった。私は不慣れで、幼くて、自分の感情の在処ありかさえ分かろうせず、そして彼を見失ってしまったのだ。

 私は何に泣いているのだろう。彼を失ってしまったことに?叶えられなかった想いに?戻らない楽しかった時間に?どうしていいのか分からないことに?

 その全てだ。射すような痛みが胸を締め付け続ける。この痛みが、私の初めて恋の全てだった。


 大学時代に、私は二人の人と付き合った。一人はサークルで知り合った他大学の学生で、何となく付き合い始めたがあっという間に別れてしまった。もう一人はゼミの先輩で、この人とは就職してからも付き合いが続き、このまま結婚するのかと漠然と考えていた。

 食品メーカーに就職して2年目、市立図書館で司書の募集が掛けられていることを知った。私は大学時代に親の勧めで幾つかの資格を取っており、司書もその一つだった。司書の正規職員は滅多に募集が掛からず、高倍率の難関であることは知っていたが、矢も盾もたまらず応募した。そして本当に運良くその職を得ることができた。それまで勤めていた会社を退職し、新生活を始めようという時になって、付き合っていた彼に東京転勤の話が出た。彼は私に転職を辞め、一緒に東京に付いて行くことを望んだが、私は新しい仕事を諦めたくなかった。何回も話し合った結果、私達は別れを決めた。

 恋人と別れても、あの時のような痛みが私に訪れることはなかった。

 どうしてだろう。一人目はともかくとして、二人目の彼とは長く付き合い、幸せな時間を共有し、一時は結婚まで考えていたのに。彼がいなくなったあとの空虚感には長く苦しめられたが、別れた時に痛みは感じなかった。坂下君との関係は、まだ恋として形も成していないような状態だったのに、失ったと知った時になぜあれほどの痛みを感じたのだろう。

 自らの問いを埋めるように、私は噴水広場を訪れた。あの瞬間に感じたような鋭い痛みはもう感じなくなっていたが、やはり小さな棘が刺さったような感覚が残っている。だが何回も訪れるうちにそれもやがて無くなり、甘く、幸せな記憶だけに満たされるようになった。痛みの理由を問うても仕方が無いことも悟った。全てが終わったことなのだ。過去を慈しむことに意味はあっても、縋り付くことに価値はないと思えるようになった。

 そうなるまでに10年の歳月を要した。私は28才になり、縁談を執拗に勧めてくる両親や親戚を尻目に、仕事に励んでいた。司書の仕事は好きだった。多くの本に囲まれ、日常業務に追われる忙しい日々は充実していた。

 

 私はいつものようにカウンターに入り、貸し出し業務をこなしていた。夏休みの図書館はいつもより子供の数が多く、賑やかで人出も多い。本の裏に貼ってあるバーコードを機械で読み込み、揃えて渡す。

「どうぞ、次の方」

顔を上げ、前に立った人の顔を見上げる。

「いずみちゃん」

私はそこに立っていた男の人から目を離すことができなかった。

 肌の色は白くなり、髪型も変わっていた。でも目尻が少し下がった細めの目には見覚えがある。きちんとアイロンが掛かったシャツを袖を捲って着ていた。筋肉質な腕がのぞいている。第一ボタンが外され、ネクタイが首元で少し緩めてあった。

 そこには大人になった坂下君の姿があった。

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