第3話
「今年の夏祭り、どうするの?」
お盆明けのある日、坂下君が聞いてきた。
「どうしよう、まだ何も考えてない」
「一緒に花火見に行かない?」
私達の住んでいる市では毎年8月の第三日曜日に夏祭りが行われていた。祭り自体は幾つかの屋台が出るだけの小さなものだが、最後に花火が打ち上げられるのが目玉だった。大きな河川はないため、田んぼの真ん中に発火台が組まれ、そこから打ち上げられる。頭の上から火花が降り注ぐように花火が見えるのは壮観で、狭い会場であるにも関わらず毎年かなりの混雑になるのだ。
「どうしようかなあ、いつもすごく混んでるし」
「行こうよ、せっかくだしさ。花火くらい見ないと、本当に俺、灰色の夏休みになりそう」
少し迷ったが、結局一緒に行く約束をした。当日は交通規制が行われるため、徒歩でしか移動ができない。どこかで待ち合わせようかと思ったが、人混みで落ち合えないと困るので、坂下君が家まで迎えに来てくれることになった。
何を着ていくか悩んだ挙げ句、白い綿レースのマキシワンピースを着ていくことにした。浴衣を着るのは大袈裟な気がしたし、母に支度を手伝ってもらうのが煩わしかったのだ。夏祭りということで、弟達は早々に友達と家を出てしまった。私も何となく気忙しく、家の前で坂下君を待つことにした。
私の姿を見つけた時の、坂下君の様子は今でもよく覚えている。目が合った後、少し俯いて何か独り言を言い、いつもよりぎこちなく笑いながら手を差し伸べてきた。
「手、繋いでいこう。通りはすごい人混みだよ。はぐれると大変だから」
確かにすごい人混みだった。私達は人の流れに沿って、ゆっくりと歩を進めた。途中何度も話そうとしたが、喧噪に紛れて互いの声が届かない。私達は諦め、無言で歩き続けた。
坂下君と繋いだ手が熱く、私は背中に汗がにじむのを感じた。大きくて固い手は確かに男の人の手だ。今まで坂下君を異性と意識せずにきたのが不思議に感じるほど、彼は私や女友達とは違う存在だった。並んで歩くと、頭より上の位置に坂下君の顔がある。時々、人混みに押されて体が彼に当たる。湿った、厚みのある感触。坂下君は手をさらに強く握り直し、私を引っ張っていった。
やがて、大きな音が響き始めた。少し間を置き、上空に色とりどりの火花が散る。私達は立ち止まって空を見上げた。花火は少しの間を置きながら、次から次へと打ち上げられていく。光に照らされながら、私は坂下君の肩に頭を寄せた。
「ねえ」
音が大きく、私の声は最初届かなかった。もう一度、手を強く握り呼びかける。
「ねえ」
坂下君が気付き、少ししゃがんで口元に耳を寄せる。
「きれい」
私の言葉を聞き、坂下くんが微笑んだ。私達は先刻よりも少し身体を寄せ合い、赤や青や金色に染まる空を見続けた。
翌日の月曜日は図書館は休館日だった。私は落ち着かない気分で、火曜日を待った。花火の後、特に何事もなく帰路に着いたが、家に帰るまでの間、私と坂下君はずっと手を繋いでいた。ただそれだけのことだったが、その時の手の感触や熱さを思い返すと、心の奥が浮き上がるような気分になった。
火曜日、私はいつもより少し早く図書館へ着いた。数人並んでいる列の中に、坂下君の姿があった。
「おはよう」
私は駆け寄って声を掛けた。
「おはよう」
少しはにかんだような、優しい笑顔がそこにあった。
私達はいつもと同じ場所に席を取り、前後に並んで座った。いつもと同じように私は本を開いたが、首筋が焼けたように熱かった。
8月ももう終盤に差し掛かっていた。昼休み、私達はベンチに座り、噴水の作る小さな虹を見ていた。まだ暑かったが、それでも盛夏の頃に比べると随分日差しが柔らかくなっている。
「日曜、大丈夫だった?ご両親、心配してなかった?」
花火が終わった後の帰路も随分混んでいて、家に帰り着くまでに小一時間かかったことを気にしているのだ。
「全然大丈夫だよ。うちはあの日、両親とも自治会で出払ってたし、弟達の方が帰りが遅かったくらいだもん」
「そうか、よかった」
坂下君の心遣いがうれしかった。いつもと同じはずなのに、二人の間の空気はやはり何か変わっていた。
「もうすぐ夏休みも終わりだな」
「そうだね」
風が吹いてきた。噴水はいつの間にか止み、陽炎が地面に揺らめいていた。
「つまんない。もうあまり会えなくなっちゃうかも」
独り言のように、口から言葉が漏れ出た。
「いや、でも、これからも土日とかあるし」
口籠もるように、坂下君が呟いた。
「本当?これからも休みの時はあそこに来る?」
俯きながら、坂下君は小さく頷いた。照れた彼の姿を見て、胸の奥から甘い喜びが湧き上がってくるのを感じた。
その時、目の前を小さな麦わら帽子が飛んでいき、地面に転がった。私は考えることもなく立ち上がり、その帽子を拾いに行った。帽子に手を掛けた瞬間、地面から突然噴水が吹き上がった。下から顔にもろに水が掛かり、私は全身水浸しになった。
「いずみちゃん!」
坂下君の大きな声がする。目に水が入り、私は一瞬視界を失った。手で顔に掛かった水を拭おうとしていると、二の腕を引っ張られた。
「大丈夫?」
目を開けると、そこには坂下君の顔があった。彼もぐしょ濡れだ。私の手から麦わら帽子を受け取ると、近寄って来ていた小さな女の子に手渡した。
「ありがとう」
女の子は礼を言うと、母親に連れられて去って行った。
「びしょ濡れだ。タオルか何か持ってる?」
「バックの中に」
手を引かれてベンチの方に歩み寄る。私はハンドタオルを取り出すと、顔を拭った。見上げると、心配そうな顔をして坂下君がこちらを見ている。金色の毛先から水滴がしたたり落ちていた。
「坂下君も拭かないと」
私はタオルを持った手を延ばした。額を拭っていると、その手を坂下君が取った。手首に唇が触れる。腕の内側を移動し、もう一度。
私は驚いて手を引いた。顔に血が昇って火照る。坂下くんも我に返ったような顔をしてこちらを見ていた。
「‥ごめん」
「あっ、ああ、ううん、大丈夫、平気だから」
きっと顔が真っ赤になっているに違いない。私は恥ずかしくて顔を上げることができなかった。
「今日はもう帰るね。これじゃ風邪引いちゃうから」
私は荷物をまとめた。
「坂下君も、着替えた方がいいよ」
席に残した荷物を取りに図書館に向かおうとする私の背中に坂下君が声を掛けた。
「明日、来るよね?」
私は振り向いて頷いた。坂下君はうれしそうに笑った。
でも私と坂下君は二度と会うことはなかった。
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