第2話

 私達が向かったのは図書館の横の公園だった。というよりは、大きな公園の敷地内に図書館が建っている、という状況が正しい。遊歩道にかこまれた芝生広場には人工の川が流れていて、小さな子供達が水遊びをしている。木立の下のベンチに私達は並んで腰掛けた。かろうじて日陰ができているが、日中の日差しは強く、図書館の中とは比べものにならない暑さだった。どこかから蝉の鳴き声がする。周囲は青臭い芝の匂いとむっとするような湿気に満ちていた。

「一応自己紹介からかな。俺、坂下悠人さかしたゆうと。T高の3年」

外見から想像したよりもレベルの高い進学校の名が出たので、私は少々驚いた。そのまま黙っていると、坂下悠人はにこにこ笑いながら言った。

「そっちは?」

「‥聖K学院3年、青木いずみ、です」

本心をいえば、こんな胡散臭うさんくさい奴に名乗りたくは無かった。が、あまりに相手がにこやかで、ここで無視するのは自分に欠陥があるような、妙な気分になってしまったのだ。

「ふーん、いい名前だね。K学院ってカトリックの女子校だよね?そういや中学の同級生が行ったなあ、日野綾香ひのあやかってやつ。知らない?」

「知らない」

「いずみちゃんさ、そんなにガチガチに警戒しなくてもナンパとかじゃないから安心して。俺、彼女いるし」

いきなりいずみちゃん?なんでこんなに馴れ馴れしいんだ。そもそもなんでここに一緒にいるのかよく分からない。腰が浮き掛けたのを見逃さず、坂下悠人はすかさずシャツの裾を掴んだ。

「坂下、君、シャツ掴むのやめてくれない?」

「悠人でいいよ」

、何の用かな?私、そろそろ勉強に戻りたいんだけど」

「勉強なんてしてないじゃん。毎日来てるけどさ」

何でそんなことを知ってるんだ。

「俺さ、いつも斜め後ろの席だろ。いずみちゃんって確かに毎日来て真面目そうにやってるけど、あれ、受験勉強じゃないよね?ずーっと気になってた」

「覗き見してたの!?」

「そういうつもりはなかったんだけど、どうしても後ろの席だと目に入っちゃうんだよね。俺も含めて皆必死に赤本とかやってんのに、ひたすら本と英和辞典めくってるし。あれ、なにやってんの」

「あれは‥」

私は返答に詰まった。自分の行動が他人の目を引いていたということに軽い衝撃を受けていた。

「3年ってことは同じ受験生だよね?受験勉強しなくていいの?」

「いや、大学は推薦で何とかなりそうだから」

「さすがカトリック学校。で、何してたの?」

笑顔はさわやかだが、姿勢は粘着質だった。諦める気のなさそうな押しの強さに、私はつい口を割ってしまった。

「好きな本を原書で読んでるの。私、英語が好きだから」

「へえ、すごいね。じゃあ、将来の夢は翻訳家とか?」

「一応‥」

「そうかあ、今から将来の仕事とか考えてるんだ」

嫌みな風では無く、心から感心した様子に、私は少し警戒心を解きつつあった。中学から女子校に通っていた私は、小学生以来、同年代の男子と親しく話した経験がほとんど無い。もちろん、同級生には他校生と付き合っているも沢山いたが、私や私の友人達は皆真面目一方で浮ついた話もなかったし、そのことに関して不満を抱いたこともなかった。

「でも、大学選ぶとき考えるでしょ、将来何になりたいかって」

私の言葉に、坂下君は肩をすくめた。

「まあ。そうあるべきなんだろうけど、実際には偏差値優先になってるよな、文系は特に」

「どこ受けるの?第一志望はどこ?」

「N大の経済。センター悪かったら市大に落とすかも」

見た目よりもはるかに賢いらしい。

 それにしても、こうして抵抗なく男子と話しているとは自分でも意外だった。坂下君は外見も雰囲気も男子らしい男子だったが、雰囲気が明るく軽く、その屈託のなさに釣られてこちらもつい話してしまう。そのうち公園内のスピーカーから鐘の音が響き渡った。正午のベルだ。

「もうお昼だわ。私、戻るから」

「ねえ、いつも昼飯、どうしてるの?」

「噴水広場の近くのベンチで持ってきたおにぎり食べてる。あそこが一番涼しいから」

「そうなんだ。ねえ、俺も一緒に食べていい?」

唖然とした私の顔を見て、再び坂下君はにっこりと笑った。


 こうして、私と坂下君は昼になると一緒に噴水広場前のベンチに座り、昼食を共にするようになった。私はいつも自分で握ってきたおにぎり、坂下君はパンの袋を持ってきていた。

 ここの噴水は池になっている従来のものではなく、石畳に設置されたスプリンクラーから定期的に吹き出すタイプのものだった。子供達が濡れながら歓声を上げている。空中に飛び散った水滴が日差しを浴びてキラキラ光っていた。霧のように噴射された水滴が風に乗って飛んでくる。時には少し濡れることもあったが、気化熱で辺りは涼しく、小さな虹が方々に掛かっている様は美しかった。私達はその様子をぼんやりと見ながら、いつも何ということもない話をしていた。

 えせ受験生の私と違って坂下君はかなり力を入れて受験勉強に励んでいた。

「うち金ないから、国公立しか行けない」

というのが理由だった。坂下君の家は近くの県営住宅にあり、お母さんはT工業の工場で働いているシングルマザーだった。学校では水泳部に所属していたらしく、髪が茶色くなっているのもよく日に焼けているのもそのせいなのだ。チャラいヤンキーかと思った私の第一印象をことごとく裏切り、坂下君はいたって真面目な高校生だった。

「いずみちゃんは第一印象どおり。見るからにお嬢って感じだもんな」

我が家は開業医で、祖父の代からこの地で小さな小児科医院を営んでいる。学校にはもっと豊かな家の級友たちが沢山いて、自分の生まれ育った家庭は特に裕福ではないと思っていたので、この言葉は意外だった。

「うちは普通だと思うよ。小さな医院だし」

「そう思っているところがお嬢なんだよ」

時々坂下君はこのような毒を含んだ言葉を言うことがあったが、基本的には明るく、気持ちのいい人だった。私にとっては初めての男の子の友人だったが、そのことを意識させない気安さがあった。話し方の柔らかさや話題の振り方に男っぽい粗雑さが感じられない。同年代の男の子とは縁がなくても、弟が二人いる私には、彼がかなり気遣ってくれているのが分かった。

「坂下君って、もてるでしょ」

私がそう言うと、坂下君は驚いたような顔をした。

「はあ?そんなことないよ。なんで?」

「スポーツやってるし、背も高いし、頭もいいし、やさしいし、気遣ってくれるし」

「それ、うちのクラスの女子に言ってやってよ」

「彼女、幸せだね」

「それも言ってやって」

「どんな子?」

「あー‥部活の後輩。なんつーか、元気なやつ」

「ずっと会えなくて怒ったりしないの?」

「まあ、あっちもずっと部活だしな、それに受験勉強で忙しいから夏休みは駄目って最初から言ってあるし」

「でも私なんかとこうやってお昼食べてて」

「ばれたら捨てられるかもな」

私達は含むように笑い合った。

「捨てられたら、いずみちゃん拾ってくれる?」

坂下君が私の目を覗き込む。すこし心臓がはねたが、私は何でも無いような振りをして、笑顔を作る。

「別の人がすぐ拾ってくれるよ。坂下君なら大丈夫」

レンアイの話をしながら、深刻にならないこの空気が私には心地よかった。坂下君もそれ以上は踏み込んでこない。

 私達は沢山の話をした。学校のこと、友人のこと、好きな音楽のこと、気に入っている本のこと。でもお互いの感情に踏み入ったことは一切話さなかった。
























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