夏の日の友へ

高尾 結

第1話

 あの夏を思い出すと、真っ先に脳裏に浮かぶのは日差しに光る水のきらめきだ。細かく砕け散る滴、空中に掛かる小さな虹、子供達の笑い声、目を射すような照り返し、立ち込める草の匂い。そして彼の笑顔が目の前にあった。もう二度と見ることはなかったのに、今でも不思議なほどはっきりと思い出すことができる。浅黒く焼けた肌、少し垂れ気味の細い目、毛先が金色に焼けた髪、ごつごつとした大きな手。強い光が残照として目に残るように、私の頭の中には彼の姿が焼き付いている。まるであれが今まで私の過ごした時間の中で、一番鮮烈な瞬間であったかのように。


 高校3年の夏休み、私は日中のほとんどを近くの図書館の学習室で過ごしていた。私には当時小学校5年生と3年生の弟がいて、家は一日中喧しいことこの上なかった。今にして思えば小学生男子が二人揃って静かに出来るはずがないのだが、当時の私はとにかく家にいるといらついて仕方なく、逃げ場を探すように外に出かけていた。

 近くのスーパーのフードコート、ファストフード店、学校の図書室といくつかの場所を転々とし、結局自転車で10分ほどの距離にある市立図書館の学習室に腰を落ち着けることにした。図書館は2階建ての比較的新しい建物で、1階が一般書架、2階が学習室や吹き抜けのギャラリー、会議室などが並んだ多目的スペースになっていた。開館と同時に入り、ずらりを並んだ席の一つに荷物を置く。席取りは案外激戦で、朝一番に並んでいないと、お気に入りの席がなかなか取れなかった。

 私が一番気に入っていた席は、入り口から2列目の壁際の席だった。ここなら人の出入りが気にならず、一日を通して窓から入る日差しが届かない。当時の私は高校3年生で受験の年だったが、志望大学の指定校推薦が取れることはほぼ確実で、受験勉強は必要なかった。だが家にいると弟達が騒いでいらいらして仕方が無いし、仲の良い友達は本当に受験勉強で遊べない。えせ受験生の私は暇つぶしのために、毎日図書館に通い詰め本を読んでいる状態だった。お気に入りの児童文学の原書を借り、英和辞書と首っ引きになって一日をやり過ごす。疲れてくると1階に降りて行き、絵本や画集などを開いて、気分転換を図ったりしていた。

 ある時、細かい字を見続けていることに疲れた私は、写真集が集めてある書棚の前に立っていた。最下段の列の背表紙を見ようと、しゃがみながら移動していたとき、横に立っていた人の足に肩が当たった。

「あっ、すみません!」

謝ろうと立ち上ると、その人は人差し指を唇に当て、静かにするようにというジェスチャーをした。しまった、と思った。何事にもがさつな私は声の調節が上手く出来ず、驚いたりするとつい大きな声が出てしまうのだ。

 私は口を右手で押さえながら、もう一度横に立っている人を見た。多分、私と同じ年くらいの男子だ。よく日に焼けていて、髪が茶色く、毛先が金色に光っている。どこかで見たような気がするな、と角度を何回か変えて見直してみて、ようやく思い至った。学習室の顔ぶれは案外決まっていて、私にお気に入りの席があるように、それぞれが大抵同じ場所に陣取っている。この人はいつも私の斜め後ろの席に座っている人だ。振り返らないのでしっかり顔を見た記憶はないが、視界には入るので、なんとなく見覚えがある。開館前に並んでいた時に、私の前にいたことも何回かあった。

 そうか、こんな顔してたのか、と納得をしてその場と立ち去ろうした時、シャツの裾を掴まれた。驚いてふりむくと、声を堪えながら彼が笑っている。どういうことなのかよく分からず、私はシャツを引っ張り返した。

「ちょっと、何なんですか、離してください」

私にしては上出来なくらい声を潜めて訴えた。彼は案外あっさりと手を離し、笑いながら指で外を指した。

「はあ?」

今度は全く調節がきかず、大きな声を上げてしまった。すると再び彼は唇に人差し指を当てた。私は恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。彼はもう一度私のシャツの裾を引っ張り、外を指さした。どうやら外に出ようということらしい。

 何で、と思ったが、反論する間もなく、シャツの裾を引っ張って彼は図書館の出入り口を目指して歩き始めた。

 





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