盗読のレミュナレーション

木船田ヒロマル

盗読のレミュナレーション

 静寂の空間に響き渡る紙を裂く音。

 彼には、真一文字に結んだ唇が彼女の感情の強さを代弁しているように感じらた。


 そしてその様は、とても美しかった。




 人が罪を犯す時。その人物が生粋の悪人で無いと仮定するなら、そこには必ずその人の倫理を殺す何ものかがあるのだろう。

 今回語る彼に取ってその何ものかは、「想像力」と「好奇心」の二者だった。

 他人の手紙を盗んで読む、という行いにどれほどの良心の呵責を感じるかの程度が個人差であることは論を待たないが、少なくともその日その時まで彼自身、自分がそのようなモラルに欠けた行いに走るなど夢にも思っていなかった。


 大学進学とともに関東に出てきた彼は、四人兄弟の長男だ。公務員の父と元銀行員の母の間に生まれた彼は実直な両親から弟達の模範となるよう躾られ、例えば誰も見ていない車の無い通りの歩行者信号の赤でもきちんと待ってから渡るような、規範に忠実な真っ直ぐな青年に成長した。

 自分は善良で真面目な学生だと、彼は信じて疑いもしなかった。


 そんな彼は今日も期日にたっぷりのゆとりを持って、課題のレポートを仕上げようとしていた。

 昼下がりの大学の図書館。昼休みだからか大机が並ぶ読書スペースにも結構な利用者がおり、誰も使っていない大机は皆無だった。

 昨日までにゼミの研究室でデータの打ち込みと解析を終えた彼は、ノートパソコンの原稿に表やグラフを貼付し結果の解説文を打ち込む、レポート制作の正に最終段階に差し掛かっていた。


 はす向かいに女子学生が腰掛けた。

 バレッタで纏めた肩までの髪。アイロンの効いたブラウス。しゃん、と伸びた背筋。どこか色素の薄い儚げな顔立ち。

 端的に言えば彼の好みのタイプの女の子が彼の近くに席を取ったのだが、それを幸運と思わないほど彼は朴念仁では無かった。

 なんとなく横目に見ていると、彼女はバッグから封筒を取り出した。

 赤と青のストライプに縁取られた白い封筒。エアメールだろうか。

 瞬間に脳裏に浮かんだのは、凛とした美しさを持つ彼女が、金髪碧眼の恋人の隣で心を許して微笑む様子だ。

 勿論そうとは限らない。手紙の差出人は、単なる女友達かも知れないし、ホームステイ先の老夫婦かも知れない。

 だが彼は、目の前の賢そうな彼女には西欧人の背の高い恋人からの英語の手紙がよく似合うな、なんて勝手な事を考えていた。


 あんまり人の事情に立ち入るのもマナーに悖る。

 我に返った彼は作業を再開した。

 少しの時間、ささやかに幸せな時間がその場を支配した。



 ちうしっ


 幸福な均衡は突然終わりを告げた。

 静寂の図書館に、誰かが何かの紙を破る音が響き渡ったのだ。しかもそれは一度では終わらなかった。


 ちうしっちしっ、ちうしぃっ


 その音は間を置かず次々発せられる。鋭く、力強い音。何事かと訝しんで顔を上げた彼が見たものは一心不乱にさっきの手紙を破る彼女だった。


 静寂の空間に響き渡る紙を裂く音。

 彼には、真一文字に結んだ唇が彼女の感情の強さを代弁しているように感じらた。


 そしてその様は、とても美しかった。


 想像は強いられた。

 浮かび上がったのは遥か外国の夜の部屋で独り、綺麗な筆記体で手紙を綴る金髪碧眼の青年だった。青年の胸に去来する彼女との楽しい日々。愛情。笑顔と約束。だが、それを押しても別れを告げなければならない何かがそこに起きた。青年も決して女遊びのつもりだった訳ではない。外国なら連絡を絶って無関係になれるだろうに、わざわざ手紙を書いて送ってくるくらいである。真剣だった筈だ。


 しかしそれとこれとは話が別で、当然彼女は自らの身に突如降りかかった理不尽を看過できまい。封筒を開く前に期待した内容は別れ話とは正反対だっただろう。それがきっと静かにするのがマナーである図書館という場所であるにも関わらず、激しい行動に出てしまった彼女の背景ではないだろうか。


 余りのことに呆気に取られながら、彼がそこまでを想った時。彼女は手紙を破るのを終えて立ち上がった。遠くを見つめ溜息をつく。そして紙片を纏めて手にすると、近くのゴミ箱に放り込み、つかつかと歩いてその場を立ち去った。


 図書館には静寂が戻った。

 彼も作業に戻る。


 「カイ二乗検定の」

 そこまでを打ち込んだ彼の指が止まる。彼はゴミ箱をちらちらと見てしまっている自分を意識した。


 何を考えてるんだ。僕は。そんなこと、していい訳ないだろう。

 第一、他の人の目もある。

 これだけ人がいるんだ。あの娘が破いた何かをあのゴミ箱に捨てたのに気付いてる人間は、一人や二人じゃない……。


 その時だ。鮮やかな音色でチャイムが鳴った。昼休みの終わりを告げる予鈴だ。彼は思わずびくりと身を震わせた。

 そしてその次の瞬間に起きた出来事は彼を困惑させた。


 フロアから学生が消えた。正に潮が引くように。

 見渡す限り、図書館の一階の利用者は人っ子ひとりありはしない。

 ゴミ箱をしきりに気にする、彼を除いて。


 うお、と声が出た。意識してのことではない。固く閉じた瞼の裏に浮かぶのは伸びた背筋の姿勢のままにエアメールを破る美しい少女の姿。その余りにも劇的なイメージに抗うには、彼は若過ぎた。少なくとも何かしら決着をつけなければ、レポートは一文字たりとも進捗しそうには無かった。


 とりあえず状態を確認しよう。

 例えば他のゴミと混じって復元が困難な状態かも知れない。そうならば、諦めもつく。


 彼は深呼吸をした。

 ゴミ箱は少し離れた背の低い閲覧台付きの書架の脇だ。黒い樹脂製の簡素なゴミ箱で蓋の類は無く、縁に内容物回収用のビニール袋が折り返されて掛けられている。ちら、と覗き込むだけで様子は確認できそうだ。

 

 立ち上がる。その書架の先の背の高い本棚に参考文献を取りに行く、という設定で。自然に。ゆっくりと。図書館の本棚に本を取りに行くだけだ。不自然な事は何も無い。万が一誰かに見られても責められる謂れはない。


 通り過ぎ様にゴミ箱を覗く。

 一瞬だったが、集中し切った彼の視力は、ゴミ箱の中身が純粋に件の破られた手紙だけなのを見て取った。思えば図書館で捨てるゴミなんて滅多に無い。それともたまたま直前に袋を交換したのか。


 本棚で本を物色する振りをし、一冊手に取ってぱらぱらと捲り本棚に戻す。そして彼は手ぶらで自分の席に戻った。手紙を破る少女と紙片だけのゴミ箱の中身の映像がフラッシュする。


 遠くを視て、溜息をつく美しい少女。


 見たい。彼女がその視線の先に視たものを。例えーー罪を犯しても!


 腹は決まった。彼女はその紙片を遺棄したのだ。あれはもう彼女の所有物ではない誰にとっても不要のものだ。

 自分に言い訳して立ち上がった彼の手にはルーズリーフのファイルと缶ペンケース。全ては速やかに運ばれなければならない。

 閲覧台にルーズリーフを広げ缶ペンを台の端に置く。手を当てて、缶ペンをゴミ箱に落とす。彼は缶ペンと共に紙片の全てを手中にすると、淀みない所作でそれをルーズリーフの間に漏れなく挟み込んだ。席に戻り荷物を纏めて席を引き払う。二階に上がり、側板の付いた個別デスクの一つに陣取る。

 やった。やってやった。

 彼の内に湧き上がる禁忌を犯す興奮。未体験の達成感。その時、彼の中の倫理は確かに死んでいた。


 ふと視界の右を白いものが横切る。それは彼の隣のデスクに収まった。彼の心臓が跳ね上がる。アイロンの効いた白いブラウス。バレッタ。肩までの髪。


 彼女だ。


 馬鹿な! なぜ⁉︎

 彼は動けなくなった。すぐに立ち上がるか? いや、それは余りに不自然だ。隣の彼女はノートやテキストを拡げて書きものを始めた。幸いさっきまで彼と同席していたことに彼女が気付いている様子は無い。


 ……三分だ。三分待とう。三分たったら立ち去ろう。家に帰るんだ。

 そう定めて腕時計を凝視する。汗。動悸。荒れる呼吸。彼の人生で最も長い三分間だった。時を待つことの為に人が死ぬならば、彼は死んでいたに違いない。

 永劫の三分を過ごし、意識してゆっくり立ち上がった彼は二階を後にした。階段の途中から早足になり、一階を走った。自転車はギアを駆使して最高速を維持した。アパート。ドアを閉めて施錠する。水道を捻ってコップ一杯の水を一気に飲み干す。

 

 安堵の溜息と共に、座卓にへたり込む。


 勝った!

 何にかは分からない。だが例えようのない勝利の感覚が繰り返し彼の胸に湧き上がった。それまで兎のように生きて来た彼は初めて獲物を仕留めた獅子の気持ちを理解した。目はガスライターの炎のように爛々と輝き、鼻息は体重を掛けた空気入れのように荒かった。世界は昨日までと表情を変え、全てがギラギラと光り鋭くエッジが際立って見えた。体温が上がり心臓の鼓動は野蛮な部族の太鼓のように高らかに響く。

 溢れる達成感、制圧感、背徳感。

 全身に染み渡るその全てが蜜のように甘美で、突き抜けるように心地良かった。


 震える手でファイルを取り出し、ルーズリーフの間から机の上に紙片を出す。封筒と便箋を選り分け、中身を並べ始めた彼の手が止まる。


 これは、手紙じゃない。


 「20%オフ」「オプション多彩! あなただけのツアー」「新規会員紹介で」などの機械印字の文字が机上に躍る。


 ……ダイレクトメール。

 旅行代理店か何かのダイレクトメールだ。


 ダイレクトメール⁉︎ あれだけ色々して、禁忌を犯して、どうしても知りたかった手紙の内容がダイレクトメール⁉︎




 彼は笑った。声を上げて笑った。部屋の中に彼の力無い笑い声が虚しく響く。彼の中の膨らんだ何かが穴の開いた風船のように速やかに萎んでゆく。

 一頻り自嘲した彼は紙片全てをゴミ箱に捨てた。


 その後、なんだかトンカツを食べた。

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盗読のレミュナレーション 木船田ヒロマル @hiromaru712

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