ジュリエットと過ごす休日

RAY

ジュリエットと過ごす休日



 大小色とりどりの石が敷き詰められた石畳の路地は、途中から急勾配の坂道へと変わる。

 石の隙間にヒールのかかとを挟まれながら何とか上り切ると、そこには、アンティーク調の看板が掛った、中世からタイムスリップしたようなカフェがひっそりとたたずんでいた。


 午後の柔らかな陽射しが降り注ぎ、心地良い風が吹き抜ける、木目調のテラス。

 白いチェアに腰を下ろして、深緑のパイロットサングラスを外す私。

 その瞬間、ゴシック造りの荘厳な大聖堂を中心に広がる、赤レンガで統一された街並みとその向こうに広がる、真っ青な地中海が目に飛び込んできた。


 北イタリアの都市ヴェローナは中世の街並みが残る観光都市。街そのものが原寸大の美術館。

 シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」の舞台でもあり、街のあちこちに二人の面影をしのばせるものが見受けられる。


 その日は、私がミラノへ来て初めての休日。


 イタリアでファッションの勉強をするのが夢だった。

 ただ、どうしてもあと一歩が踏み出せず、気がつくと三十に手が届くところまで来ていた。

 そんな私の背中を押したのは、以前いっしょに仕事をしていた先輩からの真夜中の国際電話。


「ミラノで服飾デザインの事務所を開くことにしたの。オープニングスタッフが足りないんだけど……来る?」


 声を聞いた瞬間、さっきまでいっしょに食事でもしていたかのように、先輩の顔がはっきりと浮かんだ。心臓の鼓動が頭の先からつま先まで響き渡る。それは決して鳴り止むことはなく、まんじりともせず一夜を過ごした。

 翌日は仕事が手につかず、結局、その日のうちに、長年務めたアパレルメーカーを辞めることを決めた。


 こうして、最低限の生活用品と希望を詰め込んだ旅行カバンを手に、私は見知らぬ土地へやって来た。

 しかし、現地の慣習にうとく、イタリア語がほとんど話せない私にとって、毎日が戦争だった。はやる気持ちも手伝い何かやっていないと不安で、昼夜を問わず事務所に入り浸る生活が続いた。


『ほら、俺の言ったとおりだ。日本にいた方が幸せだろ?』


 物事が思うように進まず気分が滅入ると、決まって彼の声が聞こえた。

 私のことを引きとめてくれた人。私を必要だと言ってくれた人。


★★


 いかにもイタリア人といった、陽気なボーイがテーブルにエスプレッソを運んでくる。


「Grazie(ありがとう)」


 小さく会釈をすると、ボーイは直角になるぐらい前屈みになって、女王陛下にするようなお辞儀をする。


「Prego(どういたしまして)」


 赤い街並と青い地中海が織り成すコントラスト。濃厚なエスプレッソを味わいながら、イタリアらしい風景を楽しんでいると、不意に鋭い視線を感じた。

 後ろを振り返ったが、店員たちは店の奥で雑談をしている。他の客がこちらを見ている様子もない。

「気のせい?」と首を傾げたとき、カフェの天井に描かれた絵画――美しい女性の肖像画が目に入った。

 うれいを帯びた、大きなダークブルーの瞳が何かを訴えるように見つめている。


「ジュリエット……?」


 そんな言葉が漏れた瞬間、喧騒が途絶え、あたりは静寂に包まれる。

 同時に、どこからか、消え入りそうな、か細い声が聞こえてくる。


★★★


『あなた方は愛し合っていました。なぜ離れ離れにならなければならなかったのですか?』


「やりたいことがあったから。今やらなければ後悔すると思ったから。彼は『行くな』と言った。でも、彼の言葉に応えられなかった」


『愛よりも大切なものがあるのですか? わたくしにはとても理解できません』


「愛にもいろいろな形があるの。お互いを求めるだけが愛じゃない。お互いを尊重するのも愛のひとつ」


『理想ではありますが、とてもつらい選択です。わたくしはとてもそんなに強くはなれません』


「私だってそう。強そうに見えて本当はすごく弱いの」


『わたくしが相手の殿方だとしたら、あなたを力づくで止めたでしょう。たとえあなたに恨まれたとしても、遠い異国の地へは行かせなかったでしょう』


「彼も私を全力で止めようとした……プロポーズしてくれたの」


『じゃあ、なぜ……? 殿方の気持ちは察するに余りあるものです。今頃あなたを想うあまり、悲しみに打ちひしがれていることでしょう。

 愛する二人の出会いは神が導き賜うたもの。自ら駄目にすることなど、あってはならないこと。今からでも遅くはありません。殿方のもとへお戻りください』


「それはできない。だって、私には帰る場所なんてないんだから」


『そんなことはありません。殿方は今でもあなたのことを待っています』


「……振ってあげたの。ひどい言葉でののしって。『私の気持ちを考えない男なんて大キライ! 二度と私の前に現れないで!』って」


『なぜそんなひどいことを……思ってもいないのに……』


「彼を愛しているから。彼に幸せになって欲しいから。いつ戻ってくるかもわからない女のことをずっと待ち続ける、彼の姿に私は耐えられないから」


『殿方はあなたのことを簡単に忘れることなどできません。きっと苦しんでいます』


「それでいいの。私のことを忘れないで欲しい。『私の顔』と『酷い言葉』を思い出して私のことを恨んで欲しい。そして、いつかそれを忘れたとき……許してくれたんだって思いたい」


『……』


★★★★


 声が聞こえなくなると同時に、喧騒が戻ってきた。


 テーブルクロスのところどころに、水玉のような模様――まるで雨が降ったかのようなしずくの跡がある。ただ、晴れ渡った空には、雨の気配など微塵みじんも感じられない。


「……あれっ?」


 不意に言葉が漏れた。

 熱いものが頬を伝う感触がある。

 水玉模様を作っているのが自分であることに気づく。


 外国からの観光客と思しき一団が、身振り手振りを交えてボーイに何かを伝えようとしている。

 当惑したボーイの様子を見る限り、言葉はほとんど伝わっていない。


 指先で涙をぬぐうと、サングラスをかけ直した。

 悲運を背負い想い半ばでったジュリエットのことを思い浮かべながら。


 愛に対する考え方は、私と彼女とではどこまで行っても平行線。

 もしシェイクスピアが生きていたら「あなたの生き方ストーリーは戯曲としてはつまらない」と言われたかもしれない。

 でも、それはどうしようもないこと。つまらなくたって、不器用だって、それが私の生き方なのだから。


 ジュリエットは言った。「愛する二人はいつも同じ世界にいるのが当たり前」だと。

 同じように言えたら、私もどれだけ楽だっただろう。


 カップの底に残ったエスプレッソを飲み乾して、再びジュリエットの肖像画に目を向ける。悲しそうに見つめていた、大きな瞳が少し微笑んでいるように見えた。


「Ciao(またね)」


 彼女に向かって小さく手を振ると、自分が呼ばれたものと勘違いしたのか、ボーイが足早に飛んでくる。


 青い地中海から赤い街並を越えて吹く風がとても心地良く、そして、とても暖かく感じられる休日――私の心の休日だった。



 RAY

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