― 2 ― アンダー・ザ・ムーン
飛行時間は10秒にも満たなかった。
口と鼻に容赦なくなだれ込んできた塩辛い液体で、ナオミはどこに自分がいるのかを悟った。
海の、中だ。
落下は足からだった。ブーツの踵が叩き折れたけれど、被害はそのくらい。
あとは思い切り打ち据えた指先が何日か
急いで海面へ向かう。スポーツ万能のナオミは泳ぎも得意。息が切れる前に、彼女は海上に浮かぶ
すぐに言葉が脳内に流れ込んできた。
《これはお珍しい御方がいらっしゃいましたわねえ。ミス・ナオミ・デリンジャー、季節外れの海水浴ですか?》
ナオミは両手でケルビムの前足を掴んだ。相手が高熱を放つ怪獣亀であるのを思いだして、思わずぞっとしたが、それは現在のところほんのりと温かいだけだ。身が切れそうなほど冷たい海からはいあがったナオミには、かえって心地よい熱だった。
《やっぱり寒そうですわね。よければ体温をあげて服を乾かしてさし上げてもよろしくてよ。さっき火を吐いたばかりですから、熱量は余ってますの》
やっぱり。ナオミは一発で理解した。
「よく来たな」
そいつから若々しさと偽善に満ちた声が響いた。
「恋する相手に会いたい一心で空を駆けてくるとは見上げた根性。その思いに応えたいのは山々だが、残念ながら今は逃亡者の身ゆえ、君を養うことは叶わぬ。落ち着いたら連絡する。今日のところは顔を見ただけで満足してくれ」
「あんたどこに隠れていたのよ!」
言ってから、他に聞くこともあるはずだと気づいたが、もう遅い。月下の騎士は薄く笑ってから、
「意外にカンが鈍いのだな。しかし女はそのくらいが可愛げがあってよい。ソフィーのような頭の切れすぎる女は扱いにくくて困るよ。
思い出すのだ。君がメイドの真似事をさせられていた時、クルップ爺さんが持っていったシナリオを。答えは最初から出ていたのだよ」
その一言でぴんと来た。ピノッキオは世話役のお爺さんと一緒に化け
「……ケルビムに飲まれていたのね。セフィロトの霊泉に落ちたの?」
「そうだ。こいつとは古い馴染みでね。年を取っているため、胃袋の消化能力はかなり落ちている。七二時間は楽に生きていられるよ」
《なんて失礼な男でしょう。溶かしちゃえばよかったかしら?》
「そう怒るな。唾液の溶解力で補っているのだから、あまり問題ないだろう?」
よく見ると、相手の服はあちこちが破れ、ほつれ、溶けていた。両生類の胃袋で一日以上を暮らしたのだ。それくらいで済んでラッキーだったと考えるべきだろう。
それを見とったナオミは、尋ねなければいけない質問を口にしたのだった。
「私はその昔、
月下の騎士はあっさりと結論を口にした。
「そっちのカンは当たっている。その通りだ。ホーリー・ウッズの村を焼いたのはこいつだ。ただしケルビムを責めないでやって欲しい。こいつは脅迫され、仕方なく火を吹いたに過ぎないのだから」
《嘘じゃありません。10年前はごめんなさいね。でも、子供たちと卵をジェイホーカー団に人質にとられていたんですの。私はあの時、我が子たちを守るため、あえて悪魔になったのです……》
ケルビムの独白に、月下の騎士が援護射撃を繰り出した。
「そう怖い顔をするな。気持ちはわかるが、亀を憎んでもしかたがない。言うならばケルビムは銃だよ。銃が人を殺すのではない。人が人を殺すんだ。わかってくれるだろう?
またこいつは
あまりにも自信たっぷりに語る月下の騎士を前に、ナオミは段々と毒気を抜かれていった。彼女はやがて気づいた。感情の赴くままにここまで来たけれど、自分が単なる傍観者にすぎなかったという現実に……
なおも月下の騎士は話し続ける。
「こいつは黄金を食って
《食べ甲斐がありました。おいしかった。ごちそうさま》
「ふん。もう一回稼げばいいさ。月光の庇護さえあれば、私にできぬことはないのだから」
そう言うと、彼はナオミの頭に手を伸ばし、テンガロン・ハットをもぎ取った。
「届けてくれて感謝する。返礼はまたキスでいいかな?」
その一言に、ナオミは昔を思い返した。
かつて感じた、あの熱い思いが心に甦ってきた。
(この人は怖くない。けれどもお友達でもない)
やがて彼女は意を決して問いかける。
「一つだけ本当のことを教えて。九年前のあの日、私を助けてくれた男の子は……家から連れ出してくれた少年は……
どっちであって欲しいと自分は思っているのだろう?
自己矛盾にも似た迷宮に考えが収束していくのを感じているナオミに対し、月下の騎士は、まるで長年の恋人にささやきかけるかのような甘い口調で、こう告げたのであった。
「どっちだと思う? ミス・デリンジャー」
直後、彼は軽くケルビムの背中を踏み鳴らした。巨亀は不意にスピードをあげる。
ショックを受けていたナオミは、動いた足場に対応できず、尻もちをついた。そのまま彼女は勾配のきついケルビムの背中を転がり、再び海中に転落してしまったのだった。
「答えは次に会うときまでの宿題だ。では、
その声は、思ったよりも遠くから響いてきた――
* * * * * * * * * * *
朦朧としつつも、どうにか波打ち際まで泳ぎ着いたナオミは、そこに真っ白い服で身をかためた男の姿を見出した。
彼は肩で息をするナオミに向かい、達観した視線を繰り出すと同時に、こう言ってのけた。
「そなたに尋ねる。救助を必要とするか?」
「……いいえ、平気です。怪我はしてませんから」
両手を砂浜について、どうにか息を整えようとするナオミに、賞賛の言葉が飛ぶ。
「人間大砲、あっぱれであったぞ。されど奴を捕まえられなかったのは失策であったのう」
「捕まえようと思ったわけじゃないわ。それより追いかけないの?」
「努力は惜しむべきではないが、無駄な努力は最初からしてはならん。ケルビムの足に追いつける船などないのだ。無粋な真似はやめておこうぞ」
そこで
「また
顔を上げたナオミは、びっくりする事実を聞かされたのだった。
「そうだ。そなただ。奴はそなたに惚れたようだ。プリティ・ズーの征くところに、彼は姿を見せるだろう。ならば余も
絶句したままのナオミの顔を見つめ、
「いや……止めておこう。兄弟で女を取り合うのは、一度で懲りたのでな」
彼はそう言うと、遠い目で水平線を睨んだ。浅黒い顔と好対照の白い瞳が、暮れなずむ空にかかった半月の光を吸収して映えている。
ナオミは両手の砂を払いながら、小さくつぶやく。
「一つだけ本当のことを教えてください。九年前のあの日、ホーリー・ウッド村から逃げた私を助けてくれた男の子は……洞窟でマシュマロをくれたあの子は、あなたなのですか? それとも
「貴女はどちらだとお思いですかな? ミス・デリンジャー」
それはわからなかった。
だからこそ見極めてみせる。
ナオミ・デリンジャーはそう決意し、壊れかけた城壁へと力強く歩み始めた。それが真実へ行き着くための最短コースだと確信したからだ。
夜の
人工の燈火が煌めくなか、それに負けぬように、地球の唯一の衛星が異彩を放っていた。
微かな月光の輝きは、ナオミ・デリンジャーの前途を祝福するかのように、彼女のブーツを照らしていたのである――
――Old Wild Mild West ~西部桃源郷奇譚~
第1部 完
Old Wild Mild West ~西部桃源郷奇譚~ 吉田 テスト @kamome1777
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