追跡は韋駄天・2
後ろは、振り返れない。もし振り向きでもしたらあの視線にさらされると思うと、怖さなのかそれとも別のものなのか、掴み切れない思いに心が覆われて、動けなくなりそうで。
だから、教室棟の階段を一階まで一気に駆け下りてしまったあとは、迷うことなく右手、裏庭へと向かうルートを私は選んだ。あの周辺なら、これまで小鈴や先輩たちと過ごしてきた時間の分だけ、知っていることは彼より遥かに多いからだ。
普段通りに開け放たれている扉をくぐり抜けると、部室の方ではなく真っ直ぐに外壁にぶつからんばかりのスピードで突き進んでしまって、さらに右に折れる。
目の前に並び立つのは、何故かこれらはメイン校舎と廊下では繋がっていない体育館、そして、向かって左の少し奥にある武道場だ。それぞれの間は五人並んでも余裕なほどに間が空いているから、普通ならそこを通り抜けるところだけど、あえて狭い武道場の裏を無理矢理抜ける方を選ぶ。
建物と外壁に挟まれて、人ひとりがやっと通れる程度の幅しかない上に、足元には高く伸びた雑草が生い茂っていて、油断すれば足を取られそうになるものの、構わずに進んでいくと、ほどなく通路は途切れ、ざっと視界が白く広がる。
昨日誰かが言っていた通り、ここまで来れば大階段を降りて壁沿いにグラウンドの端を真っ直ぐに走るのが安全な逃亡ルートだ。けれど、それが単なる鬼ごっこならまだしも、今ははっきりと後ろ姿を捉えられてしまうことだけは、絶対に避けなければならない。
だから、周りも確かめずにやみくもにまた右手に折れると、建物沿いにひたすら走って、壁が途切れたところでさらに右に向かう。ただし、次に目指すのは斜向かいの体育館だ。
今日は確かバレー部とバスケ部の練習があるはずだから、との見込みは当たっていた。長い側面に三つある扉は全て大きく開け放たれていて、一番近くのそれに走り寄る。
その前に二段だけあるコンクリートの階段を上がって、焦りつつもローファーを脱いで手に持つと、上から垂らされているボール避けの緑のネットを無理矢理にめくりあげて、靴下のまま中に入る。
そこからは、すぐ左手にある用具倉庫を私は目指した。壁につくりつけられたそれは、予想通りスライド式の扉が半分ほど開いていて、勢いのままに飛び込むと、授業用の長いマットや折り畳まれた卓球台の間をすり抜け、平均台を乗り越えた影にそっと身を隠す。ここなら、例え床に伏せていても台の下から周りの様子を窺えるからだ。
と、息を弾ませながら少し顔を上げると、何してんのあんた、と言わんばかりの視線と目が合って、私は慌てて、拝むように顔の前で手を合わせた。
私が入ってきた方の壁際に立ち、紺のジャージ姿でスコアブックを片手に目を見開いているショートヘアの女子は、三年のバレー部のマネージャーだ。そして、その横には多分一年生らしき、まだ膝にサポーターもつけていない女の子たちが、先輩につられるようにこちらを見ていて。
……緊急事態だとはいえ、変な行動なのは痛いほどに自覚しています、ごめんなさい。
そう念じるように心の中で呟きつつも、いたたまれなさにひたすら身を縮めていると、ふいに自身がくぐってきた緑のネットの向こうに、細身の人影が姿を現した。彼だ。
気付かれるかな、と考えただけで鼓動が早くなる。声を出してしまわないように、唇をぎゅっと引き結んでいると、じきに階段を上がってきた彼の全身が網の向こうに覗いた。
長い前髪が今は素直に下りていて、目はほとんど隠れているせいか、あの強力なまでの力はまるで感じられない。どこか困惑したような面持ちで首を巡らせると、広い体育館の中をぐるりと見回してから、ふいに背を向けると、とん、と階段を蹴って、消えて。
……どっちに、行ったのかな。
見える範囲から姿を消したとはいえ、焦って飛び出して鉢合わせ、という可能性は大だ。入ってきた扉から出るか、やはり違う扉を選ぶか、と考えながらきょろきょろとしていると、再度マネージャーとまともに目を合わせてしまって。
すると、人差し指でしきりと舞台のある方を指差しながら、口パクで『あっち行った』と伝えてくれているのが読めて、私はすぐに身を起こした。部室の方へと向かったのなら、まるで逆方向に逃げたとは思わないだろう、と判断して倉庫から走り出ると、慌ただしく先輩に深く頭を下げて、踏みつけそうな速度で靴を引っ掛けながら再び外に駆け出す。
もう周囲の気配を窺うことも止めて、体育館の壁沿いに走って、勢いを落とさないまま大階段までの距離を一気に詰める。一番上の段に辿り着いたところで、一瞬左右を見渡してから、半ば飛び降りるように階段を降り始める。
横幅の広い大階段を後から削ったかのように、その真ん中には普通に歩いて降りられるスロープがちゃんとあるけれど、そこを通る場合は周りに姿を遮るものがほとんどない。だから、グラウンドに足をつくなり、私は北に向きを変えると、大階段に沿って一直線に走り出した。サッカー部や陸上部が活動している横を我ながら瞬く間に過ぎて、野球部がいつものように活動しているコーナーへと突き進み、バックネット裏へと走り込む。
途端に刺さるような気配を頬に感じて、まさか、と思いながらもちらりと顔を向けると、またもや、ある人物とばっちり目が合ってしまった。
野球部のユニフォームの中にただひとり、規定通りの体操服でいるというのも目を引くけれど、とにかくその彼は校内でもまれなほどに背が高かった。加えて言えば、一年強の高校生活で一度もお目にかかったことのない、見事なまでのスキンヘッドで。
こちらが走りながらな上にネット越しだというのに、大勢の部員に囲まれてピッチャーマウンドの傍に立っている彼は、何故か首をゆっくりと動かしながら、瞬きもせずに私の軌跡をトレースしてきているのに気付いて、びくりとして身を低くする。
あの彼のように怖くはないけれど、あからさまに興味津々、といった表情は別の意味でちょっと怖い。迷いは禁物だと自分に言い聞かせつつ用具倉庫の影に入り込むと、そこで一旦足を止めて、乱れた息を整える。
そうしながら腕の時計を見ると、時刻は丁度四時四十分を過ぎたところだった。今日は三時四十分に
……どうして、あんなにきつい瞳で、見られてしまうんだろう。
追い掛けてくるのもそうだけれど、あれさえなければ逃げるほどのことではなかった、という気がする。怒らせるようなことをした記憶はないし、向けてきているのがそういう気配だとも何故か思えないだけに、理由が分からなくて、戸惑うばかりで。
「直接、尋ねるしか、ないか……」
自然とそう口に出した時、するりと心が定まる。結局のところ、逃げてばかりでは何も掴めないままなのだし、覚悟を決めて相対するしかないのだ。……きっと、多分。
弱気に陥りかけた気分を振り払うように、ぶん、と首を一振りすると、私は足を進めて、用具倉庫の反対側の端から顔を覗かせた。そこには相変わらずの光景が広がるばかりで、彼の姿が見当たらないことを確かめると、傾きかけた日を目指して思い切り地面を蹴る。
通用門から出て、正門から入り直すまでに、一度、小鈴と詩乃ちゃんに連絡しよう。
そう思って、迷惑を掛けてしまった二人の顔を思い浮かべたはずが、間を置かずにあの瞳に取って代わられてしまって、私は揺らぎを振り捨てるように、ただスピードを上げた。
「……いない、よね」
自身に言い聞かせるようにそう呟くと、まだ外に向けて大きく開いている昇降口に続く硝子の扉を抜けて、おそるおそる周囲を見渡しながら、ロッカーの間をゆっくりと進む。
まだ、どの部も活動を終えるには早い時間だからか、近くに人影は見えない。おそらく音楽室からだろう、ギターの静かな音色が遠く響いてくるのが聞こえるくらいだ。
そんな中、これからどうしようか、と私は迷っていた。少し前に二人にアプリで連絡は入れたけれど、未だにどちらも既読にもなっていない。部室に戻るか、それともここから戻ってくると伝えた以上、この辺りで待つべきか判断をつけかねていると、短い着信音が胸元で鳴り響いた。
小鈴
真雪無事だった良かったー!!
それでさっき木原くんが購買近くであの子見かけたらしいから、
気を付けて戻ってきて!
わたしもそっちに向かって急がせるから!
「木原くんって、あの子かな」
唐突に現れた名前に一瞬考えたけれど、彼を見知っているのだからおそらくそうだろう。他にも『急がせる』という意味が分からなかったけれど、予測変換の打ち間違いだと思うことにして、与えられた情報を整理しながらスマホを内ポケットにしまい、顔を上げる。
生徒も先生も、単に『購買』と呼ぶ購買部は、北の昇降口と対称になるように、南渡り廊下沿いに裏庭の方へ張り出すようにして作られた位置にある。そこから昇降口にやってくるには中庭を真っ直ぐに突っ切ってくるか、特別棟か教室棟の廊下を通ってくる三つのルートしかない。
そろそろと渡り廊下へと出て、右手、そして左手に伸びる廊下の先を見晴るかしてから、まずは最短ルートである、中庭に続く扉の奥を窺う。
欅の枝を透かした向こうにも、誰の姿も見えないことを認めると、小さく息を吐いて、何気なくくるりと踵を返して。
反時計回りに回った視界の端に、見覚えのある黒が過ぎる。
思考より先に反応した身体がぎくりと強張って、急激に焦点が結ばれると、あの彼が、ひたとこちらの姿を、捉えてきていて。
「……あ」
声を出そうとしてこれ以上は出せないことに気付く間にも、予想外に彼は動かなかった。
今は前髪が自然に分かれていて、覗いている瞳にはぎらりとした光はない。特別棟から出てきたばかりなのか、廊下と校舎の接続口を塞ぐように立ち尽くしたままのその姿には、どことなく惑いがあるようにも見える。
でも、また、追い掛けられたら、どうしよう。
そんな思いがじわりと滲んで、足が後ろに下がろうとするのをかろうじて止めていた時、彼の後方から、ばたばたと激しい足音が響いてきて。
「浦上ー!!お前マジで何もかもガン無視すんなー!!」
苛立ちを込めて飛んできた声が届いた瞬間、鋭く振り向きざまに、彼の眼光が強まって。
「……あっ、こら!それやめろって言っただろうが!!」
遠くから背中を叩く台詞の意味も理解できないままに、気付けば私は昇降口を飛び出していた。それでも頭の中は奇妙に冷えていて、逃げたい、という望みに従って身体が動く。
校門にもグラウンドにも向かわず、右手に折れて前庭の植え込みの横を通り、特別棟の廊下側へとぐるりと回り込む。このスペースは、外壁沿いに奥に長く駐車場が整備されていて、その先は壁に阻まれて一見どこにも行けないように見える。
けれど、実際はそうではない、はずだったのに。
「……え、いつの間に、こんなの」
よく工事現場などにある、斜めにオレンジと黒の縞々が走っているフェンスを前にして、私は愕然としながらも近付いて、その向こうを網の間から覗いてみた。
特別棟の南の端の壁と、コンクリートブロックの狭間であるそこは、頑張って横歩きを試みればなんとか人が通れるほどで、ずっと向こうには部室のある裏庭が見えている。
でも、網を掴んで揺さぶってみても、しっかりと固定されているらしいそれは、まるで動かせなくて。
「おーい、そこの三つ編み女子ー。さっきから何やってんのかって聞いていい?」
「うわっ!?や、なにっ……」
新たな声に完全に不意を打たれて、飛び上がらんばかりにその方へと顔を向ける。
狭い植え込みを挟んですぐ傍にある特別棟の廊下の開いた窓から、身を乗り出すようにしてこちらを見ていたのは、髪の短い女子だった。耳をすっかり出してしまって、短めの前髪をさらりと斜めに流しているのが、黒目がちのくるりとした瞳に良く似合っている。
赤いリボンだけど、名前も顔も知らない彼女の興味深げな視線に、とにかく答えようと唇を開きかける。と、さっきの刈り上げの男子の声が、今度は怒りを帯びて飛んできて、
「……だーかーらーすぐさま止まれ!走るな!追い掛けんなつってるだろうがあ!!」
彼が来る、そのことを台詞から察してうろたえていると、納得したように頷いた短髪の女子が、ひょいひょい、と手招きをしてきて。
「この下、バケツ置いてあるから乗り越えてくるといいよ」
「え?あっ、わ、分かった、有難う!」
彼女が手で示してきたのは、植え込みの影にひっそりと隠して置かれたバケツだった。
予想に反して丸くはなく、取っ手の付いた何やら四角い形のそれは、濃い青の蓋がしっかりと閉まっていて、踏み台代わりにしても結構耐えてくれそうな雰囲気で。
ともかく、両手を差し出してくれていることに勇気づけられて、低めの植木を踏まないように避けつつも、両の足をその上に乗せてしまうと、窓べりに掛けた腕にぐん、と力を入れる。
「わ、靴、落ちた!」
「あとで拾ったげるから!腕がっちり掴んでいいし!」
右のローファーが足先から抜け落ちて、膝をどこかにぶつけながらも、やっとの思いで窓を乗り越えて、すとん、と廊下に両足を降ろしてしまう。と、
「……すいません、これ」
聞き間違うはずもない、低く、様子を窺うような声が、真後ろから届いて。
ぎしり、と音を立てそうなくらいに固まった身体は、振り向こうにも振り向けなくて。
「おーい、シンデレラー。王子かどうかは判断しかねるけど、ほら、靴だって」
「……もうちょっとだけ、待って」
笑みを含んだ彼女の台詞にも、それだけしか返せずに、右手を上げて胸元を押さえる。
時間とともに衰えるとはとうてい思えないほど、高く脈打つ鼓動を全身に感じながら、私は顔を俯けると、きつくきつく瞼を閉じた。
それから、さらに時間を置いて。
「はーいー、ギャラリーはこの線まででーす。一歩でも入ったら図書部への入部資格が自動的に与えられますのでお気を付け下さいー」
「……望月先輩、ついに自虐ネタっすか」
「違う違う、君とか詩乃ちゃんとかのいいカモを引き込もうという策略をですねー」
「ええっ、すみませんわたしには心に誓った梶先輩という師匠予定の方が!」
「えー、なんで俺は入ってないんですか?つっても入る気ゼロですけど」
「君みたいな先輩を敬う気持ちがかけらもない子なんかこっちからお断りですー!!」
「敬うにもそれだけの理由はいるでしょ。こんな箸でつまめそうなミニサイズのくせに」
「こらー頭を掴まないー!!ていうかわたしクレーンゲームの景品じゃないしー!!」
……なんで、こんな展開になってるんだろう。
傾ぎながらも、なお強い光を届かせている日の光に照らされた、裏庭で。
部室の横に立って、身長と同じくらいの竹のポール(旗は外してある)で、がりがりと土の上に一本のラインを引いている小鈴と、その周りには詩乃ちゃん、そして木原くんと判明した彼と、グラウンドで見かけたスキンヘッドの迎くん(小鈴を小脇に抱えて現れた時は、心臓が止まるかと思った)が固まって、何故か好き勝手に喋っていて。
さっき助けてくれた二年の彼女は、その中にはいない。何か急ぐ用があるとかで、靴を代わりに受け取ってくれてから、小鈴たちと入れ替わりになるように去られてしまって、慌ててお礼を告げる以外に、何を聞く余裕もなかったのだ。
そして、その線から十歩ほど離れた位置には、浦上くんが、端然として立っていて。
「……よーし、皆のもの静粛にー!!真雪、なんでも彼に言いたいことどうぞー!」
小さな唇の横に手を添えて、高い声をせいいっぱいに張り上げた小鈴の声が、奥の壁を背にした私の元まですんなりと届いたけれど、促す言葉にもにわかに動けるはずもない。
というのも、あの後、追い付いてきた木原くんに捕まった彼は、
『ガンつけながら無言で延々人のこと追い掛けるとか獣かお前はー!!』
と、その場でかなり厳しく叱りつけられてやっと事態を飲み込んだらしく、すいません、と即座に頭を下げて来てくれたのはいいけれど、そこに小鈴たちがやってきてから、妙な方向に事態がシフトしてしまった。
つまり、近寄りがたいと心にすり込まれてしまったのなら、極力離れて話を聞けばいいだろうと、そういうことになってしまったわけで。
「……無理そうなら、もっと、下がりますけど」
マーブルめいて広がる迷いを貫くように、低く、けれどよく通る声が真っ直ぐに届いて、私は知らず俯けていた顔を上げた。
途端に、おおー、と色めきたったように声を上げた小鈴以下のギャラリーの視線も気になるものの、言葉少なだけれど、彼の言葉も行動も、酷く律儀だったことに今更ながら、気が付いて。
だから、私は一歩だけ、大きく足を前に踏み出すと、心を決めて声を放った。
「あ、あの、もっと、近くに寄ってくれてもいいから!」
……正直に言えば、自分から近付けるのはこれが精一杯だから、だけれど。
内心でそう続けながら、ずるい真似をしているような後ろめたさを感じて、唇を結ぶ。
けれど、浦上くんは、ただ意外そうに微かに目を見開くと、
「……いいんっすか」
「に、二言はないです!どうぞっていうのも変だけど、どうぞ!」
半ば叫ぶように応じた途端、小さく頷きを返してきた彼が、とん、と地面を蹴った。
やっぱり走っちゃうんだ、と思う暇もあらばこそ、軽く跳ねるような足取りで見る間に距離を詰めてくる。
そして、あと三歩で目の前、という位置で足を止めると、じっと、私を見据えてきて。
「このくらいなら、いいすか」
「だ、大丈夫」
そう言いながらも、ちっとも外す気配のないその視線に、一向に落ち着かないけれど。
「あの、普通にしてくれて、いいから」
「はい」
「それと、さっきは、靴拾ってくれて、有難う」
「いえ。俺のせいっすから」
短いけれど、間を置かずきちんとした答えをひとつひとつ返してくれるごとに、次第に緊張がほぐれていくのを感じて、私は密かに息を整えると、ようやく本題を口にした。
「とにかく、昨日のことについては謝られるようなことじゃないし、何か役に立てたのならそれでいいって思ってるの。でも、いきなり追い掛けてこられたのは凄く驚いたし、睨まれたのもその、かなり……」
一言では表しにくい心情を、なんと続ければいいか迷って言葉を切ると、浦上くんは、すっと綺麗に身を折って、深々と頭を下げてきて。
「怖がらせたのは、すいません。目つきのことは、俺、集中するとああなるらしくて」
「あの、いいよ、顔上げてくれていいから。じゃあ、怒ってたわけじゃないんだ」
「はい」
「……良かった」
即座に返ってきた、きっぱりとした返事に、ようやく胸に安堵が満ちる。
それにしても、あの眼光なのに全然自覚がないとか、と、ふんわりと気が緩んで。
「だったら、追い掛けてきたのも、私が逃げちゃったから勢い余って、みたいなことでいいんだよね?」
ほっとしたせいか、軽い気持ちでもうひとつの疑問を投げてみると、姿勢を戻しかけていた彼の動きが、何故かぴたりと止まって。
目一杯に巻いていたネジがほどけ終えてしまったかのような反応に、どうしたんだろう、と見つめていると、じきにゆっくりと身を起こしてきた彼は、つと、目を向けてきて。
「……なんで、っすかね。俺にも、分かんねえんですけど」
口にしながらも、考えたこともなかった、とでもいうように、眉を寄せて。
巡らせるうちに深まりゆく、困惑の色も露わな瞳で、尋ねるように私を見てきて。
……もう、怖くはないけど、何か。
なりを潜めた鋭さの代わりに現れたものを探るように、引かれるままに見返していると、唐突に、柏手のような大きな破裂音が二つ、辺りを割るように響いて。
「はいはいはーい、無駄にいい雰囲気作られるとなんかイラッとするんでそのへんでー」
「ちょ、迎!お前もったいない真似すんなよ!」
「そうですよー!!次の作品のベースにしたくなるくらい溢れ出る青春!という光景をしっかりとみっちりと目に焼き付けておきたいくらいなのにー!!」
一年組の三人が、それぞれに言いたい放題な台詞をラインの向こうから(そこは守ってくれたらしい、一応)飛ばしてくるのを呆然と見ていると、ひとり輪の中から抜け出してきた小鈴が、すかさず走り寄ってきて。
「まあ、中身がぜんっぜん、聞こえなかったのははなはだ残念だけどー。これから先、いっくらでも話す時間は、あるもんねー?」
……これは、間違いなく後で、とことんまで責められる、パターンだ。
さっきとは異なる、薄い戸惑いに表情を変えた浦上くんと、楽しげかつ妙に嬉しげな、満面の笑みを浮かべている小鈴を順番に見やった私は、諦めたように小さく息を吐いた。
そうして、その日は結局、私が疲労困憊過ぎて、部活どころではなくなってしまって。
時間も時間だし鍵を返して解散しよう、ということになって、職員室から戻ってみれば、意外なことになっていて。
「あの、カゴ傾いたりとかしそうなら、ちゃんと持つからね?」
「平気っす。それより、荷台でもサドルでも適当に掴んどいてください」
せめてものお詫びということで、通学用の黒の自転車に私の荷物を積んでくれた上で、浦上くんが駅まで送ってくれる、ということになったのだけれど。
「……なあ、普通こういうシチュエーションならさ、空いた手でも引いて帰るとこじゃねえの。なのに、マジでカゴに荷物ぼーんって」
「わたしだったら荷台にちょんっと座って運んでもらうのがー……あっ、いけません、これは法律違反になりますー!漫画には出せませんね!」
「ああ、これなら私服で乗せとけばオートで子ども扱いになると思うけど」
「ひとのお団子をぼよんぼよんしないー!だいたい君発言もリアルでも
……なんか、後ろから微妙に冷やかされてるっぽいのが、気になって仕方がないけれど。
振り向きでもすればもっと突っ込まれそうな気がして、言われた通りに荷台を掴ませてもらいながら黙々と歩いていると、ゆっくりと自転車を押し歩いてくれていた彼が、軽く首を回してきて。
「……スピード、大丈夫っすか」
「え、あ、うん。このくらいで大丈夫」
「そうっすか」
淡々と頷くと、またすぐに前を向いて、同じペースで歩みを進めて。
その姿に、色々と欲張りたい気持ちも、どこか遠くに飛んで行ってしまって。
今日は、こうして話せるようになっただけでも、いいか。
夕の日を受けて、すっかりオレンジに染め上げられた姿勢の良い背中を見やりながら、私はほんの少しだけ、そっと唇を緩めてみせた。
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