接触は不可避
空に明るさを残していたきついオレンジの光もようやく薄れて、まだグラウンドのそこここで、おそらく部活の後片付けにうろうろしているらしい人影も、だいたいの体格しか分からないくらいになってきたのを認めて、俺は小さく息を吐いた。
身を隠すようにしていた防球ネットの柱の影から出て、それでも用心しつつ、土の上に足を踏み出すと、外壁の周辺に沿って植えられた、通学途中でも街路樹などによく見る、やけに高く伸びた、手のひらを広げたような緑の葉が茂る木が立ち並ぶ間を静かに抜ける。
二面あるテニスコートと、横に長い体育用具倉庫を横目に見ながら、自分のクラスへと戻る最短距離、つまりグラウンドの対角線をなぞるルートを採ることに決めた時、ふっとパンツのポケットに突っ込んでいたことを思い出して、もういいか、と携帯を取り出す。
カバンも何もかもその場に放り出したまま出て来てしまった中で、たまたまこれだけを持って出れたのは幸いだった。何しろ、結果的にほったらかしにしてしまったのは、それだけではないからだが、
「……やっぱ、メールくれてたか」
まだ真新しいネイビーの、折り畳み式のそれを開けるなり、液晶の一番下に表示されているアイコンがあるのは予想通りだったから、そのまま右手でボタンを連打し、複数来ていたそれを次々と開いていく。
けれど、その最後の内容に関しては、俺の予想していたものと少しばかり違っていた。
From
Subject 先輩が来たぞー。
あの三人、完全に撒いたんだってなー。
なんかすげーな、お前マジで。
負けたから仕方ねえけど、気が変わったら
いつでも待ってるからな!ってさ。
あ、勝手に荷物番してるけど、
そろそろ帰れっつって先生に言われたから、
なるべく早く戻ってこいよ。
ってかいい加減メールくれ!俺腹減ったから!
「……悪いことしたな」
放っといて帰ってくれても良かったのに、と思いながら、適当なようで真面目な級友に、そっちに向かってる、と、謝罪とともに最低限の返信を返してしまうと、それなりに遠い道のりをのろのろと辿っていた速度を上げる。
そうこうしているうちに、日も完全に暮れていたから、一方的にぶつけられた条件は、これでオールクリアとなった。気が抜けたと同時に、気付かないうちに強張っていた肩を揺すり上げるように動かしていると、なんとなく向けた視線の先に、複数の人影が見えて。
……さっきの人じゃ、ないか。
もうひとり、はっきりと迷惑を掛けてしまった人のことを思い出して、俺は内心でそう呟いた。
俺とは違い、多分部活が終わって帰るところなのか、赤、青、緑と襟元のリボンの色もバラバラな女子の団体が、体育館から教室棟に繋がっている渡り廊下をぞろぞろと歩いていくのを遠く目の端にしながら、そういや、確か赤だったから二年か、と思い至る。
一応は謝ったものの、返事も待たないまま再び逃げにかかってしまったから、もちろん名前を聞くことなど考えもしなかったし、そんな余裕も正直なかった。とはいえ、普通に考えればめちゃくちゃ失礼だよな、と後悔していた時、またポケットの中で短く着信音が響いた。
From 木原 誠斗
Subject お疲れー!
もう駐輪場に行ってるから、そっちに来いよ!
そんかわり、帰りになんかオゴリな!
内容からすると、どうやら荷物ごと移動してくれたらしいことを察して、俺はすぐさま足を向ける先を変えた。俺と木原のクラスは、教室棟のうちで一番南の端だから、真逆の位置にある駐輪場は向かって左手になる。とはいえ、敷地内の端から端まで歩く、ということには、あまり変わりはないわけだが。
やっとグラウンドの端まで到達すると、ショートカットしようと、体育祭の観覧席にもなるらしいコンクリートの大階段を昇り始めながら、もしかしたら、と思い立って、俺は手早くメールを打った。
To 木原 誠斗
Subject 質問。
教室棟の裏にある古いプレハブって、何か知ってるか?
中に二年の人がいたんだけど。
尋ねたいことだけを簡単に書いて送信しながら、あらためて記憶を探ってみる。
そろそろ足に限界が来始めていて、周りを見ている余裕はさほどなかったとはいえ、扉にもどこにも何も書いていなかったし、無理矢理入らせてもらった中は驚くほど殺風景で、目についたのはラックに置かれていた、学校指定の黒のボストンくらいだった。そして、一応は綺麗に並べられた椅子も長机も、あそこまでボロくなければ何かの会議室かと思うような、妙なラインナップで。
女子一人であんなとこで何やってたんだろう、とぼんやりと考えていると、思ったより早く返事が返ってきた。
From 木原 誠斗
Subject 俺は知らねえけど
知ってるやつがいるかもしんねえから聞くわ。
もう着くかー?
短い問いに、もうちょい、とだけ返して、結構傾斜のきつい七段の大階段を斜めに昇り切ると、教室棟の前庭にそそり立って、四方八方に葉を広げているでかいソテツ(創立時以来ここにあるらしい)の下をくぐっていけば、目的の場所はもうすぐだ。
滑り止めなのか単なる飾りなのか、丸みを帯びた濃い灰色の砂利を、白っぽいコンクリートで固めた道を足早に進んでいくと、ブロック塀沿いに校門近くまで続く、屋根付きの長い駐輪場に辿り着く。
残り少ない自転車がぽつぽつと間を空けて停まっている薄闇の中に、スマホを操作しているらしい光が見えて、俺は真っ直ぐにそちらに向かっていった。
すると、サイドを微妙に刈り上げた、さっぱりとした短髪に手をやっていた奴が、おー、と声を上げて、
「ちょっと待っとけよ、今まさにさっきの回答来てるからー。あと上着とカバンとか、適当に前カゴに突っ込んどいたからなー」
ブレザーは羽織らずに、シャツに青いネクタイだけを緩めに締めている格好の木原は、いつの間にこっちを認識していたのか、カモフラ柄のそれを右手に画面を見つつ、さらに開いた左手で俺の黒いチャリを指差した。……なんか、器用だな、色々と。
「悪い。迷惑掛けた」
いつもの如く鍵を差し込んでチャリを引き出しながら、取り急ぎ頭を下げてそう言うと、奴は即座にんなこといいいい、と手を振って、さらに言ってきた。
「あれ、図書部の部室だってよ。でもなんか地味すぎて潰れかけてるらしいけど」
「……そんなもん、あったのか」
目の前に、ずい、とばかりに差し出されたスマホを見やって、とりあえず読んでもいいらしいことは分かったので、俺はさほど長くもないメッセージに目を走らせた。
みきを☆
確か、図書部だろ。去年気が付いたら出来てたわ。
けど、何やってんのかは知らねえし、文化祭で誰も来ねえからって
顧問センセーが寝てたとかで、
なにお前、入るつもりなんか?
最後まで目を通してから、青柳って聞いた気がするけど何年だっけか、と思いはしたが、それは一旦さておいて、木原に顔を向けると、気になった点を聞いてみる。
「潰れかけって、なんでだ?」
「なんでって、二人しかいねえから……っていうかお前見てないのな、あの変な勧誘。今週入ってから、あんだけちんまい先輩とでかめの先輩が旗振って中庭練り歩いてたのに」
「極力さっさと帰ってたからな。なら、そのでかめの先輩の方か」
たまたま、正面から目を合わせる羽目になった時を思い返して、すっと腑に落ちる。
俺の身長は学年の平均よりもかなり低い方だが、つくりの差というやつなのか、これが女子になると、そうでもなくなるわけで。
「……けど、やっぱ肩とか、細かったな」
そう呟いてから、かくまってくれようと動いてくれたらしい姿が、頭に浮かんで。
俺の方と、三人の声がする外を忙しく見比べてから、きっと真剣な表情になって。
おそるおそる窓を閉めにかかった横顔も、えらく緊張に強張っていて。
……そういや、結構、何回もガン見しちまったような。
生まれつきとはいえ、目つきが良くない自覚は山ほどあるから、なんか怖がらせた気もするし、明日もっかい謝りに行くか、と心に決めていると、
「ちょっ、
「え?」
妙に上ずった木原の声に目を上げると、夜でもやたらと目立つ派手なライトグリーンのチャリを引き回していた奴は、何故かうっすらと顔を赤くしていて。
やけに興奮した面持ちで、それごとぶつけそうなほどにギリギリまで近寄ってくると、細い、というよりは薄い眉を高々と跳ね上げて、
「え、じゃねえだろうがあ!!なんでお前先輩の肩細いとか知ってんだよ!触ったんかそうなんかとにかくなんかあったんなら今すぐ吐けー!!」
「……耳、痛えんだけど」
鼓膜もつんざくようなわめきように、俺が顔をしかめるのにも構わず、木原はしつこく事の顛末を聞き出そうとしてきて。
とはいえ、別に言ったところで困るわけでもないから、帰る道すがら、包み隠さず話したら話したで、
「なにその落差!?俺なんか当社比十倍くらい汗臭い先輩にみっちり詰め寄られてたのにー!!」
しかも暑苦しさ三乗だし!!とさらに我が身の不幸を強調してくるのに素直に謝りながら、俺はすぐ目の前にあった、なにやら複雑そうな編み方の黒い髪を脳裏に思い浮かべていた。
……石鹸みたいな匂いがしてた、ってことは、言わない方がよさそうだな、多分。
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