憧憬は直線
自慢にもならないけれど、私は生まれてこの方『目立ちたい』という欲求がほぼない方で、ただ一度だけスポットライトを浴びた(物理的にという意味で)経験があるとすれば、中学三年の時に文化祭で、ちょっと長めのソロパートを受け持たせてもらった時くらいだ。
そのたった数十秒の間でさえガチガチになって、ともすれば乱れそうになる指を必死で動かしていたくらいで、終わった途端にほっとしすぎてワンフレーズ丸々演奏が飛んだり、という酷い有様で。
だから、部存続のためとはいえ、みずから人の注目を集めるような行動を起こすということは、自分的に大変に勇気を奮い起こさなければならなかったのだけれど、
「あー、あんたら図書部じゃん。今日はあの旗持ってないのー?部員増えたー?」
「え、あ、あのそれはまた放課後の予定で!あとさっぱり増えてないですけどまだまだ新入部員募集中ですから!」
概ねひとりではなかったとはいえ、さすがに一週間余りも続けていれば、とっさに返す言葉も出てくるようになるものだと、我ながら驚いたりもするわけで。
「わーい、応援ありがとーございまーす!有望っぽい後輩知り合い誰でもいいんでー、お心当たりあったら紹介よろしくでーす!!」
でもそれは、声を掛けてくれた全く見ず知らずの先輩方(緑のリボンをつけているから一目瞭然だ)にも欠片も気後れすることなく、こうして隣で愛想を振りまいてくれている小鈴がいるから、というのが大きいのだけれど。
ともかく、おー、あんま期待すんなよー、と笑いさざめきながら購買の方へと向かう、同じ制服姿の賑やかな団体を見送っていた私は、緊張を解くように小さく息を吐いた。
「……知名度だけは上がった、って喜んでちゃいけないよね。今月中に、せめてひとりくらいは部員獲得するつもりでいないと、勧誘ばかりで肝心の活動も滞ってるし」
思いがけず与えてもらったほんのりとした嬉しさと、現実とのギャップを直視しながら、自身に言い聞かせるようにそう言うと、お、と声を上げた小鈴が、ぶんぶんと振っていた手を止めて、くるりと私の方へと振り向いてきた。
「気合入りましたねー部長ー?よーっし、その勢いのままに捜索!説得!身柄確保まで一直線に突っ走ろうねー!!」
「小鈴、なんか単語のセレクトが不穏すぎるよ……それに、困らせそうならすぐに引くつもりだからね?」
相変わらずのテンションに釘を刺すようにそう言いながら、先に立って特別棟を出ると、二つの校舎を繋ぐ、渡り廊下に足を踏み入れる。
顧問の先生に今週の活動報告をした後、昼休みも残すところあと半分足らず、という今、向かう先は当然ながら正面に位置する教室棟だ。けれど、今日はこのまま真っ直ぐ自分のクラスに戻る、というつもりにはしていなくて。
「でも、思ったより時間掛かっちゃったし、見つかるかなあ」
「いけるんじゃない?どっかで遊んでる子だって予鈴前には戻ってくるだろうしさー。とにかく、名前と何組かだけでも特定できればじゅーぶんに収穫だって!」
「そうだよね……結局、たぶん一年生っぽい、っていう以外にはヒントもないんだし。知ってる子伝いに聞いてみるしかないか」
あくまでも前向きな副部長の言葉にそう応じながら、私は昨日遭遇してしまった、あの男子のことを思い返していた。
あのあと、しゃがみこんでいた私を心配した小鈴に事情を聞かれて、一通り事の次第を話したのだけれど、途端に色めきたった彼女が、
『なにそれ気になる!事情も知りたいしその子探してついでにフリーなら勧誘しよう!』
と、思い切り即断即決したのだけれど、ともかく時間が時間だったので、基本的な情報、つまり彼が私と同じくらいの身長、細身で身軽、前髪が長めで目力が凄い、ということを共有したところで駅に到着してしまった。
二人ともが電車通学だから、上り下りに別れてからはメールで相談を進めたのだけれど、ネクタイがなかったとはいえ、おそらく敬語であったゆえに上級生ではなさげだし、二年生なら見かけたことくらいはあるはずだから、きっと一年生に違いない、という結論に達したので、このたび目指すは教室棟の四階、というわけで。
ちなみに、うちの高校のメイン校舎の作りは実にシンプルで、特別棟、つまりは職員室、校長室を始めとした特別教室が入っている四階建ての棟と、それと平行に立つ四階建ての教室棟から成っていて、結構広い中庭を挟んで、北と南の二本の渡り廊下で繋がっている。
ただし、それは一階のみのことだから、教室が四階にある一年生、そして三階の私たち二年生は、移動が若干面倒になるのが難点だけれど、それはそれで慣れるものだ。
「でもさー、部長会でも生徒会でも心当たりないって言われちゃったの意外だよねー。目からレーザービームみたいな子なんてそんなにいそうにないのにー」
それなりに長いコンクリートの灰色の上を進みながら、小鈴が示した疑問に私は頷いた。
「そうなんだよね。今月ってどの部も勧誘合戦凄かったから、一人くらい見かけた人がいるかも、って思ってたんだけど」
実は、部長会メンバー(運動部・文化部全ての部長たちだ)には昨日メールで、生徒会にはさきほど直接生徒会室に寄って、もしかしてこういう特徴の生徒を知らないかな、と聞いてみたのだが、思い当たらないと見事に全員から返って来てしまって、少しがっかりしていたのだ。七クラス×三学年の生徒数では、さすがに尋ねるにも無謀だったようで。
特に、本多くんなどには『そんな見た目の奴なんか山ほどいるだろうが』と言われたのだけれど、確かにあれさえなければ、ただ大人しそう、という印象だったかもしれない。
「でも、一度でもあんな風に見られたら、忘れられないと思うんだけどなあ……」
心からの感想をふと漏らすと、すぐ横を跳ねるような足取りで歩いていた小鈴が、また、おー?と声を上げて、
「なんか意味深な台詞じゃないですかー真雪ー。ひょっとしてなにやら恋愛的なー?」
「……それは、違うと思うよ」
にやにやとした笑みとともに飛んできた問いに、私は何故かぎこちなくそう答えていた。一拍間が開いたのも、適当に言い返すことが出来なかったことも、自分でも何か意外で。
……小鈴のことだから、十分なほどに予想出来たフリだったのに、変なの。
そんなことを考えている間にも、長い渡り廊下の丁度真ん中に位置している、ずらりと全学年分のロッカーが立ち並ぶ、昇降口に辿り着く。登校時や下校時でなくても、絶えず生徒の出入りが激しい場所だ。
だから、さしかかるなり聞き慣れた声が耳に入ってくるのも、なんら不思議なことではなかった、のだけれど。
「……俺はそんなものは一切取らんと言っているだろうが!いい加減に諦めろ!」
唐突に響いた大きなそれと、けたたましく響く荒い足音が鼓膜を叩くのに、私も小鈴もほぼ同時にびくりとして顔を向ける。
教室棟の方から姿を現した人物は、よほど慌てて走ってきたのか、目に見えて足をもつれさせながらも、進行方向に立っているこちらの姿を認めたようで。
トレードマークめいた横に細長いスクエアな銀縁眼鏡はいつもの通りで、その奥にある瞳が、ふいに鋭さを増して細められたかと思うと、
「堤!望月!お前ら今すぐそこをどけーー!!」
「うわっ、は、はい!?」「えっ、ちょ、なんでー!?」
発せられた言葉と予想外の声量に押しのけられるように、それぞれ右と左に飛びのくと、見る間に残りの距離を詰めてきた先輩は、だいたい常に六対四に分けている短い前髪も、首元に締めた緑のネクタイもひるがえるほどの勢いで、目の前を駆け抜けて行って。
そのまま速度を落とさず特別棟へと向かうのかと思いきや、上手く壁の手すりを掴んでほぼ直角に右手に方向転換すると、日中は開け放たれている中庭に通じる扉をくぐった。
その中央に丈高く伸びる、大きく枝を広げている欅を回るように巡らされた、赤茶けた煉瓦敷きの通路に走り込むのを反射的に目で追う。と、
「
続いて背後から耳を叩いたのは、なんというか、酷くのんびりした雰囲気の声だった。台詞にはなにやら切実な思いが入っている感じなのに、間延びした語尾が微妙に緩くて。
そして、赤く細くついでに真ん丸に近いフレームの、どこかポップなイメージの眼鏡を掛けているその女子は、ばたばたではなくぱたぱた、にしかなり得ない軽い足音を響かせつつ、何かマチの限界までぱんぱんに膨らんだキャンバス地の鞄を、重そうに身体の前に抱えていて。
見た目通りらしい重量によろめきながらも、梶先輩と全く同じルートを辿ろうと動いて、一段高い渡り廊下から中庭へと降り立った途端、がくん、と細い膝が崩れる。
ひゃ!?という奇妙な悲鳴とともに、白っぽい鞄もろとも前のめりに倒れ込んだ彼女の姿に我に返った私は、慌ててその傍へと駆け寄っていった。
「だ、大丈夫!?怪我とかしてない!?」
「あー、無事です、膝は痛いですが支障ありませんー!ご心配をお掛けして……あっ、梶先輩ー!!」
うろたえつつも尋ねた私の問いに顔を上げるなり、再び焦ったように放たれた名前に、その場の全員が一斉に視線の先を追う。
と、もうかなり小さくなっていた先輩の背中が強張り、その場に射すくめられたように立ち止まって、一瞬首を巡らせてこちらを窺ったものの、すぐさま後も見ずに走り去ってしまった。
「ちょっとーせーんーぱーいー!!この状態で置いていくとか何気にひどくないー!?しかも貴重な一年女子だしっていうかついでにうちに入らない!?」
「小鈴、さすがに今は自重しようよ……はい、良かったら腕、捕まって」
もはや条件反射で勧誘を始めた副部長の台詞に冷静さを取り戻すと、私は身を屈めて、未だ座り込んだままの女子に手を差し出した。
「あ、有難うございますー……ちょっと鞄に振り回されてしまいましてー」
あからさまに逃げられたことがよほど堪えたのか、落胆の色を隠せない様子のその子は、転んだ時にずれたらしい眼鏡を掛けなおすと、素直に私の手を借りて立ち上がった。
胸元のリボンは青だから、まごうことなき一年生である彼女は、こうして並んでみると、私ならやや見下ろし気味、小鈴より少し高いかな、という背の高さだ。そして、艶々した真っ直ぐな黒い髪を、ふんわりと丸い頬の輪郭に沿ってボブにしているのが、どことなく温和そうな風情にも良く似合っていて。
とりあえず事情を聞いてみようか、と目を合わせた瞬間、彼女はあ、と声を上げると、確かめるように私と小鈴を交互に見やって、
「確か、あの立派な旗を振ってらした先輩方ですよね!梶先輩とお知り合いですか!?でしたら大変あつかましいのですが、先輩の行かれた先にお心当たりがもしあれば……!」
「ちょ、ちょっと待って落ち着いて!とにかく鞄持つし、保健室とか必要ない!?」
「えー、もしかして孤高の漫研もついにピンからコンビに昇格ー!?なにそれずるーい、ひたすらぼっち街道邁進中だったくせにちゃっかりナンパとかー!!」
「小鈴も声高いから!いいから二人ともこっち来て!!」
いきなり真剣な様子で詰め寄ってきた後輩と、中庭に響く何気に失礼な同級生の台詞に挟み撃ちされて焦ってしまった私は、予想以上に重い白の鞄を両腕に抱えるようにして、先に立って教室棟へと足を向けた。
……なんだか、あちこちの窓から見られてるっぽいのは、気にしないことにしておこう。後が怖そうな気は、するけれども。
そんなこんなで、成り行きで女子三人の道行きとなった、しばらく後。
「……もしかして、これ、全部、梶先輩の?」
「はい!残念なことに二部は入手できていないものもありますがー」
利便性のためか、グラウンド側と廊下側の二つの入口があることが特徴の、教室棟一階、最も北の端にある、保健室。
その片隅に置かれている、病院の待合室にあるような黒の長椅子に掛けた眼鏡女子は、膝の上に置いたさきほどの鞄から、次々と小さな冊子を出してくると、空いたスペースに綺麗に並べていった。
それは、篠上高校漫画研究会が季刊発行(臨時号もたまにある)している、会誌だった。しかも、二年前の春号、つまり梶先輩が参加し始めてからであろうものが、きちんと順に揃えられていて。
「うっわー、一年の時の会誌とか初めて見たー……しかも綺麗にカバーしてあるしー」
どこかから丸椅子を持って来た小鈴が感心したように眺めている横で、クリアなブックカバーが掛けられているそれを漫然と数えていた私は、あることに気付いて尋ねてみた。
「高校のは十冊全部揃ってるけど……こっちの本ってかなり古いし、漫研名義じゃないものだよね?」
そう言って指差したのは、余程読み込んだのか、少しだけ端が薄くなった和綴じの冊子だった。けれど、『あやめ色の雨』というタイトルと、彼のペンネームである本名の読みを変えた『カジトモナリ』とだけ、さらりと筆で書かれていて。
すると、標題の通りの色目の糸で綴じられたそれを大事そうに取り上げた彼女は、はい、と小さく頷いて、
「これ、中学校の図書室で見つけたんです。最初は、背表紙が取れちゃったのかなって思って、取り出してみたら分類シールもないし、なんだろうって開いてみたんですけど」
その状況をなぞるかのようにそっと開いてみせたページに描かれていたのは、見開きの一面を覆う、あやめ。そして、その中に遮るものもなく立ち尽くし、降りしきる雨に身をさらしている、一人の少年だった。
その漫画には、台詞は一切存在しなかった。ただ、少年の回想らしき光景、例えば古く屋根の傾いだ家の前に並ぶうなだれた家族、やや年かさの少女の手を乱暴に振り払う幼い少年、深々と皺の寄った顔を伏せてバスの座席に身を丸めている老人、といったように、次々と場面が転換していって、最後には冒頭のシーンに戻る、という構成の短編だった。
ただ、最初の構図と異なっているのが、彼に向けて差し出された、あやめ色の傘で。
「……この白い腕、誰なんだろう」
ずっとモノクロだった世界に、突然に現れた彩りも目を引くけれど、その姿を見せず、わざと特徴を消したような真っ直ぐな細い腕だけが、彼を守るように傘を、傾けていて。
少女か、家族なのか老人か、それとも、と考えを巡らせていると、
「そうなんですー!そこがこの作品の醍醐味だと思うんですよー!!」
にわかに興奮した声を上げて、私に向けてページのある場所を指で示してきた彼女は、急き込むように言葉を続けてきた。
「ここなんですけど、よく見ると冒頭では咲いてなかった蕾が開いてるんですよねー!それとこっちにも遠景に人影らしきものが小さく描かれてますし、奥の煙突からたなびく長く白い煙も気になりますし、それぞれに妄想が掻き立てられるというか!」
「あ、ほんとだ。この分だと、他のシーンでも仕掛けがありそうだね」
「分かりますか!?実はその通りでして、見つけた限りのポイントの考察をですね!」
話すうちに気分が盛り上がってきたのか、痛々しくも湿布を貼った膝をものともせずにさっと立ち上がる。と、存在を忘れていたらしい白の鞄が、ずるりと床に滑り落ちて。
「わー!!ちょっとこれ雪崩レベルじゃない!?」
「なんか、凄い量だね……あれ、これって」
ファスナーを全開にしていたのが仇になって、みっちりと詰まっていた中身がざあっと流れるように零れ出る。十冊どころではすまなさそうなそれらを拾おうとして屈み込んだ途端、否応なしに目についたものがあって。
「……
授業でもよく使うタイプの横罫のノートの表紙には、簡潔に『考察ノート その一』と、多分、和綴じの表紙のそれを真似たらしい、しかしより丸みを帯びた字体で書かれていて。
そして、同じ字体で、氏名欄にどことなく控え目に記されているのが、その名前で。
「すみませんすみませんー!!それ、恥ずかしながらわたしのペンネームでしてー!!その、いつか、梶先輩のような作品を描ければと思ってですねー!!」
そう叫ぶように言いながら、眼鏡の赤に迫るほどに頬を染め上げた彼女は、意外なほど素早い動きで瞬く間に散らばったノート類を掻き集めると、丁寧に揃えてしまい直して。
広げていた会誌も、宝物を扱うように全て重ねてしまうと、ようやく落ち着いたのか、深々と息を吐いて。
「……わたし、凄く、惚れ込んでしまって」
それこそ、悩ましい恋をしているかのように呟いて、あの表紙をじっと見つめて。
「だから、是非とも弟子入りしたいと思って、頑張ってここまで追い掛けてきたんですけど、なかなか捕まらないし、やっと会えたと思ったら、あの通りににべもなくて」
「あー、あのひと割と偏屈だもんねー。うちの活動にも容赦ないし好き嫌いも多いし」
「それはあるかな……けど、基本的に礼儀正しいし、部室提供した時はいつもお礼とかしてくれるし、そんなに」
悪い人じゃ、と続けかけた時、しょんぼりと俯いていた大原さん(でいいのだろうか)が、弾かれたように顔を上げてくると、
「提供、ということは、先輩が図書部にいらっしゃることがあるということですね!?」
「え、うん、会誌作る時とかに頼まれて……うち、スペースだけはあるから」
何しろ、現在の漫研部員は彼だけだから、部室自体が存在せず、必要な時だけ美術部やうちに間借りすることで済ませていることを伝えてみると、彼女は顔を輝かせて、
「先輩方、
「あ、名前、やっぱしのちゃんでいいんだー」
小鈴の細かいツッコミは聞こえなかったのかどうなのか、すっくと立ち上がった後輩は、冊子を抱き締めたまま、訴えるように私たちを見つめてくると、
「一度でいいので、梶先輩とお話が出来る機会を作っていただくわけには……!あの、もちろん出来ることでしたらどんなことでも致しますので!入部以外は!」
「……それが一番嬉しいんだけど、だめなんだ」
「はい!大変申し訳ないのですが、漫研に入ること以外は考えておりませんから!」
潔いほどにはきはきと、胸を張って断言されてしまったことに、しばし、脱力して。
「……どうする?真雪」
「……とりあえず、もう残り十分しかないし、当初の計画はひとまず延期しようか」
小声で尋ねてきた小鈴に腕の時計を示しながら、私はなんだか難しいことになったなあ、と、いかにも気難しげな先輩の顔を思い浮かべていた。
……それにしても、ほんとに、とっても羨ましい限りだ。ああ。
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