三つ編みと韋駄天

冬野ふゆぎり

三つ編みと韋駄天

四月:

視線は一閃

 その時、どんな流れでそうなったのかは忘れてしまったけれど、中学に上がる直前に、夕食の席で父と母に言われたことは、部活というものはこれから始まる六年間を過ごすにおいてかなり重要だ、ということだった。ただし、前者はクラスの外に友達も作れるし、先輩後輩っていう基礎的な上下関係を学ぶのにもいいじゃないか、と、いかにも体育会系らしく主張して、後者は、放課後に塾や習い事もためにはなるけど、せっかく同じ地元の子が集まるんだから、繋がりが広がって楽しいと思うわよ、と優しく勧めてきた。

 おそらくそれは、遊ぶ友達はそれなりにいるものの、目立つ方とはとても言えず、どう贔屓目に見ても地味目、という私の性格を見抜いてのことだったのだろう。

 さらに三つ上の姉は、先々私学狙いじゃなければアピールポイントなんか必要ないし、別に強制じゃないんだから、とりあえず居心地優先で選んじゃえば?と、現実的な視点でアドバイスをくれて。

 それぞれに頷いた私は、いかにも活発!青春!というような派手さはなかったものの、楽しかった小さなエピソードをいくつも振り返れるくらいの四年間を、これまで過ごして来たのだけれど。

 「……今日も、だめだったなあ」

 ごく普通に高校二年生になったばかり、というこの時期になって、こんな高い壁が目の前に立ちふさがってくるとは、さすがに想像も出来ていなくて。

 ……だめだ、言葉にしちゃうと、余計に切なくなってくる。

 とぼとぼ、という表現が、我ながらぴたりとはまっているであろう力のない足取りで、他に人気のない教室棟の廊下をひとり歩いていると、何やら気持ちが沈んでしまう。

 ことに、薄く広がる雲に弱められて、暗さの混じった夕の日が射し込む窓の向こうでは、そろそろ部活を終えて帰るらしい、運動部系の部員たちが騒がしく中庭を抜けて行くのを見ていると、切々と募る羨ましさに、しょんぼりとせずにはいられないわけで。

 と、変に気を散らしていたせいで力が抜けたのか、手にしていたビラの一枚が、緩んだ指の間から零れて、ひらりと床へと舞い落ちる。

 「あ、しまっ……」

 た、ととっさに零れた声をかき消すような勢いで、ばさばさっ、と小さな鳥が羽ばたくような音とともに、コンクリートの灰色の上に、残りの全てが広がり、落ちて。

 拾おうとして手を伸ばした途端に、空いていた窓からふいに強い風が吹き込んできて、廊下の奥へ奥へと、その半分くらいが飛ばされていくのを呆然と見送って、しばし。

 

 今なら、ちょっとだけ泣いても、誰にも見られないかな。


 そんな弱気な言葉が心に浮かんできたことに、慌てて私はかぶりを振った。そのせいで、左の肩から胸元へと長く編み下ろした髪が、やけに勢いよく跳ねる。

 だいたい、頑張っているのは私だけではなくて、小鈴こすずも校内のどこかで走り回ってくれてるんだし、と思い直して、すぐさま屈み込んで手近なところから拾い始める。何より、大事な部費で作ったものなのだから、例え一枚たりとも無駄には出来ないのだ。

 皺が寄ったりこれ以上飛び散ってしまわないように、慎重にビラを拾い集めていると、下校時刻が近いことを知らせるメロディが、校内のあちこちのスピーカーから近く遠く、辺りに響いてきて。


 『つつみ、お前んとこなあ、ただでさえ吹かなくても飛ぶような弱小なんだから、部でさえなくなったらマジで消えてなくなるぞ』


 つい昨日の、丁度同じ旋律が流れていた時に掛けられた言葉が脳裏に蘇って、私は滲みそうになるものを必死でこらえながら、ただ黙々と両の手を動かし続けていた。



 「もう、猶予はあと六週間、かあ……」

 授業もとうに終わった、放課後、午後、四時半過ぎ。教室棟の裏手の、外壁沿いに立ち並ぶ桜の木に隠れるようにひっそりと立っている、プレハブ倉庫兼、図書部の部室。

 その壁際に無造作に据えられている、無骨、としか表現しようのないようなベージュのスチール製のラック(しかも年季が入りすぎてあちこち塗装がはげている)の細い支柱に、幅の広い透明なテープで無理矢理貼り付けてある、一枚もののカレンダーを見つめながら、私は思わずそう呟いていた。

 「もう、じゃなくってまだ、だってー!」

 その一点、赤ペンでぐるりと丸を付けられた、五月三十一日を勢いよく指差したのは、望月もちづき小鈴こすずだった。私と同じ二年生であり、必然的に副部長、というポジションについている彼女は、頭のてっぺんで綺麗なまん丸に纏めたお団子頭を揺らしながら、女子としても相当に高めの声で続けてみせる。

 「ほらー、四月よりも五月の方が一日長いんだからさー、とにかく毎日毎朝毎昼毎晩、学校中を訴えて回れば、勢い余って誰かが引っ掛かってくれるかもしれないよ!」

 「うん、それはそれでちゃんとやる気はあるんだけどね……やっぱり、言われた通りに入部条件、下げないと無理なのかなあ、って考えちゃって」

 我ながらどんよりと沈んだ声でそう言うとともに、抑え切れないため息が零れて、白の長机の上に広げられたビラが微かに動く。

 ちなみに、手のひらよりも少し大きいくらいのそれには、


 『――図書部へようこそ!

 静かな文字の海に、ゆったりと身を委ねてみませんか?――』


 との見出しがベーシックな明朝体で大きく書かれていて、その下には開いた本や図書館などのイラストを配したフレームの中に、活動内容(季刊で書評などを載せた会報を発行、文化祭では毎年朗読イベントを行っている、などだ)が列記されている。

 ……『静かな雰囲気』にしたつもりだったけど、先生の言う通りにもっと派手にすべきだったかな。

 そう反省混じりに考えていると、長机を挟んで、ラックと同じくらいに年月を経ているのだろう、ガムテープで適当に補強された青い背もたれが物悲しいパイプ椅子を軋ませて、小鈴が眉を顰めた。いつも内側から弾けるような明るさを発散している感じの彼女だから、ちょっと珍しい表情だ。

 それはともかく、まるで名前と、さらに小柄な身体に誂えたような可愛らしいサイズの手を伸ばしてくると、一枚ビラを取り上げてから、きっとこちらを見据えてきて。

 「真雪まゆき本多ほんだくんの言ったことは気にしちゃダメだからね!」

 「う、うん、へこみはしたけど、逆に頑張らなきゃ、って思って。だから、幽霊部員でいいとか、掛け持ちでとりあえず頭数揃える、とかで妥協するつもりは全然ないし」

 お前ら、アドバイスとして聞いとけ!と、少し前に彼に言われたことを思い返してそう言うと、小鈴はその意気だよ!と大きく頷いて、

 「確かにさ、よそみたいにコンクールなんてそもそも縁がないしなんか業績上げたわけでもないし、部費とかほとんど余らせちゃうくらい使わないかもしれないけど、ちゃんと真面目に部活動やってることだけは間違いないんだから!」

 「……そうあらためて言われちゃうと、余計に胸に突き刺さるんだけど」

 本多くん、つまり我が校の生徒会長に、本日開かれた部長会の席で容赦なく告げられた指摘の数々を再生されて、私はちょっとうなだれてしまった。

 我が図書部の活動は、月、水、木、金の週四回で土日は行わず、毎日活動を行っている運動部などと比較してしまうと、はっきり言ってゆるめな方だ。そして、その成り立ちが成り立ちな上に、きちんとした体裁の書評が書ける先輩と、創作のメインを担当していた先輩が一度に抜けてしまったから、これからの日々の活動にも不安が残りまくりで。

 さらに、部室であるこのプレハブ倉庫が再来月、つまり六月以降も使えるかどうかは、ひとえに新入部員が入って来てくれるかどうか、にかかっているのだ。

 顧問の先生によれば、高校によってさまざまに条件は異なるらしいが、ここ篠上ささがみ高校の定められた規定では、部として成立するためには最低五人が所属していなければならない。

 とはいえ、うちのように昨年三年生が三人、一年生が二人(つまり、私と小鈴だ)しか部員がいないという、廃止の危機が目に見えている部に関しては、三年生の引退後から、翌年の五月末までの間に条件を満たせばよし、となっているわけなのだけれど。

 今日は、四月十九日、水曜日だ。そして、五月の連休も近いから、実際動けるのはあと、五週間余りしかないわけで。

「……うん、とにかく、気を取り直そう。あと三人入ってくれればいいんだから」

 たったの一年で、正式な部から同好会に戻ってしまうのだけは、先輩方にも顧問の先生にも、もちろん小鈴にも顔向けが出来ない。弱気を振り飛ばすように声に出してしまうと、私は机に転がしたままだった、オレンジのシャープペンシルを取り上げた。

 「まず、勧誘の時に、部員が二年女子の二人だけ、っていう点で引かれるのが多かったけど、それは今からすぐどうにかできるわけじゃないし」

 部の活動日誌である、目に痛いほど派手なイエローのリングノート(顧問の先生が提供してくれた)を開いて、今日の日付と曜日、そしてこれまでの経過を書き出していきながら、私は言葉を継いだ。

 「一番の問題点としては、なんとか部室に来てくれてもちょっとここは無理です、って反応だったから、とにかくもっと環境改善しなきゃいけないかな、って思ったんだけど」

 広さは約六畳、とそこそこだけれど、元々が置き場所のない物品や劣化した図書などを保存していた倉庫だそうなので、お世辞にも綺麗とは言えないし、設備と言えば廃棄寸前という感じの長机がひとつ、似たような状態のパイプ椅子が十脚に加えて、丈夫さだけは現役なスチールラックが壁際に三つだけ、という有り様で。

 そう言ってみると、ふむふむと聞いていた小鈴が、困ったように小さく首を傾げて、

 「うーん、精一杯片付けも掃除もしたつもりなんだけどねー。まあ、元々がボロいのはもうどうしようもないとしてー」

 屋根からの雨漏りのせいか、あちこちがたわんでしまって、どこか天気図めいた模様のシミがそこここに覗く合板の天井をぐるりと見渡しつつ、さらに小鈴は続けた。

 「外にクモは巣張るしヤモリ出るしたまにムカデ落ちて来るしー、去年なんか桜に毛虫もっさり沸いちゃったしー、ぶっちゃけ女子には引かれるよねー」

 「いや、もれなく誰でも引くと思うよ……って、小鈴、どうかしたの?」

 とっさにそう突っ込みながら顔を向けると、彼女が何故か、天井の一点を見据えたまま、つぶらな瞳を大きく見張っていて。

 ぶん、と音でもしそうな、お団子が黒い残像を残すほどの勢いで私に顔を向けてくると、

 「そうだ、男子!男子だよ、真雪!」

 「え?」

 「ついつい女子ばっかり勧誘してたけど、ほらー、小崎先生だってまだどこにも入ってないのはざっと三割くらいかなって言ってたし、男女の数ほぼ半々なんだから、それだけで可能性二倍にアップするし!」

 「え、あ、言われてみればそう、か」

 正直なところ、これまでずっと部員が女子ばかりであったが故に、入ってくれる可能性すら考えてもみなかった案を示されて、思わず納得しかけたものの、

 「でも、うちの活動って地味だからなあ……演劇部みたいに必ず舞台に立てるよ!とか、ギター部みたいに弾けるとモテるかも!とかのアピールポイントが薄いというか」

 「そこはなんか雰囲気で!読書男子で君も知的に!とか適当に言って押し切っちゃえばいいよ!よーし、じゃあ、明日からの勧誘に使えるフレーズ考えようか!」

 相変わらずノリ優先、という内容ではあるものの、前向き過ぎるほどの勢いと笑顔に、こちらとしても、するりとつられてしまって。

 「じゃあ、その『読書男子・女子』をメインのキーワードにして、来たれ!集え!的な感じで声掛けすればいいかな……もの凄く勇気いりそうだけど」

 「それだけだとインパクト弱いから、体育祭の時みたいな旗作ろうよ、旗!どっかからホイッスル貸してもらってー、マーチングばりに先導するから!頑張ろうねー、部長!」

 「そこまでやると、何部なのか分かんなくなるよ、副部長。……ありがと」

 そう苦笑を返しながらも、どうしても問題点を先に考えてしまう私の背中をさりげなく押して、今やるべきことを示してくれたことに、私は感謝を込めて言葉を添えてみた。



 それから、突貫作業ではあるものの、友達のいる家庭科部から余った布を分けてもらい、顧問の先生に頼んで、壊れた掃除用の箒の柄をゲットして、なんとか旗が完成して。

 サンバホイッスルは響きすぎるから却下なー、とさすがに止められてしまったけれど、気恥ずかしさを一旦脇に置いて、交代で旗を振りながらこの一週間、勧誘に明け暮れたのだけれど、何をどうしても、物珍しげに遠巻きにされるばかりで。

 「……二十三枚、ってことは、二枚しか減ってないし」

 ようやく散らばった全てのビラを拾い終えた私は低くそう呟くと、曲げていた膝を伸ばして立ち上がった。とにかく、無くしたり皺になったりしたものがなかったのは幸いだ。

 しるべのように点々とばら撒かれたそれらを集めて行くうちに、気付けばもう教室棟の端まで辿り着いていたから、校舎外へと繋がる、日中はずっと開けられたままの扉を抜けて、学校の外壁沿いに細長く広がる、通称『裏庭』へと私は足を踏み入れた。

 向かって左、その最奥に位置する部室に向かいながら、友達や他の部の子たちに『密会向き』とか、『誰か倒れてても気付かれなさそう』などと言われたことをふと思い出す。

 こうした場所は校内のそこここにあるけれど、その中でもここは学校の敷地の角っこ、かつ隅っこにあるせいで、狭い、薄暗い、遊べない、の三拍子が揃っているから、普段はうちの関係者しかやってくることもない。虫が出る以外は至って静かでいいんだけどなあ、と思いつつ、ところどころ薄い苔に覆われた土を踏みしめながら、入口を手前にして奥に長いつくりの、直方体のプレハブへと近付いていく。と、

 「あれ、まだ鍵、閉まってる」

 ドアレバーを下げても開かない扉から目を離して、右手の壁、つまり外壁寄りの位置に設けられている窓の方を覗いてみると、カーテンも閉まったままで、小鈴が部室に戻ってきていないらしいことが見て取れた。下校時刻の午後六時はとうに過ぎているから、やや心配にはなったものの、ブレザーの胸ポケットから部室の鍵を取り出すと、レバーの下についている鍵穴に差し込んで、外開きのそれを開ける。

 足元に置かれた濃いグリーンの泥落としで、ざっと靴の裏を払ってから中へと入ると、私は後ろ手に扉を閉めた。

 長く閉め切っていたせいか、少しばかりむっとした空気が肌に触れるのを感じながら、奥に据えてある長机の上にビラの束を置いてしまうと、右手の壁に近付いてカーテンを、それからクレセント錠を外して、唯一の大窓も、えい、とばかりにめいっぱい開け放つ。

 正直、ここからの眺めはお世辞にもよろしいとは言えない。二メートルほどは間が空いているとはいえ、見えるのはコンクリートブロックの外壁と、左と右から張り出してきている、桜の枝のかろうじて先端だけだ。けれど、途端に夕刻のひんやりとした外気が入れ替わるように周囲に流れてきて、ほっと息を吐く。

 そんな時、ふいに遠くからひとつの足音らしきものが近付いてくるのに、私は気付いた。

 ……小鈴、かな?

 一瞬そう考えたものの、足も小さ目な彼女ではあり得ない、とすぐに打ち消す。それは酷く荒々しいというか、ひたすらにスピードを上げるために強く地面を蹴っているような、まさに全力疾走、という印象で。

 そうこうしている間にも音はより鮮明になり、方向からして間違いなく教室棟の方からだと、はっきり分かるほどになってきて。

 どうしよう、外、覗いてみようか、と、おそるおそる窓から顔を出そうとした時、

 「あ、わ……っ」

 とっさに漏れた変な声も、ざっ、と目の前に滑り込んできた人影が立てた派手な音に、途切れて、掻き消されて。

 それは、見慣れた制服だった。ただし、ネイビーのブレザーは羽織っていなくて、腕を肘近くまでまくりあげた長袖のシャツに、女子のプリーツスカートと同じ生地を用いた、グレンチェックのパンツ姿。ネクタイはつけていないから、何年生かは分からない。

 長めの、半ば目にかかるくらいな前髪が奇妙に印象的なその男子は、こちらに気付いた様子もなく、しきりと荒く息を弾ませながら、疲れたようにその場に座り込んでしまった。

 丁度、私の胸元よりも下でお腹より少し上、くらいの高さになる窓だから、その動きで一旦視界から消えてしまったけれど、怖いもの見たさで、今度こそそっと顔を出してみる。

 すると、泥に薄く汚れた黒のローファーの爪先と、俯いたままの彼が、額に浮いた汗をのろのろと拭っているらしいのが、見えて。

 弱々しくうなだれているその背中に、気付けば、私は声を掛けてしまっていた。

 「あの、君、大丈夫?」


 ぎくり、と揺れた黒い頭が、焦ったようにこちらを、振り仰いで。

 動きにつれて、すっかり露わになったその瞳が、気圧されるような視線を、向けてきて。


 ……何か、押し飛ばされ、そう。


 引き込まれるような、という表現があるけれど、彼の場合は真逆だった。

 剥き出しの鋭さを持った白目勝ちのそれは、目力が凄い、というのか、それ自体が突き刺さってくるかのようで、ぐらりと揺らがされる心地になる。

 なのに、目を逸らそうにも、その場に凍りついたように、動くことも敵わなくて。

 「……おい、あいつもういないぞ!どっちに行った!?」

 乱れた複数の足音とともに、遠く飛んできた声が鋭く耳を刺して、互いの硬直が瞬時に解ける。その音量からすると、多分同じように教室棟から出てきたところだろう。

 と、素早く立ち上がった彼が、隠れるようにぴたりと窓に身を寄せてきて、それもまた動揺を誘われて、じりじりと後ずさっていると、

 「えー、こっからなら道場と体育館の間抜けて、ダッシュで壁沿いに逃亡コースだろ?裏庭の奥はどん詰まりだしさあ」

 どこか面倒そうな声がすかさず応じたのに、私は思わずこくこくと頷いていた。

 全く反対の方向を指し示している意見だから、ここにいる彼にとっては、おそらくそう考えてくれた方が都合もいいはずだ。

 すると、私の動きに気付いたのか、わずかに顔を動かした彼と目が合いかけた時、

 「けど、一応、隠れてないかだけ見とこうぜ。あのボロ倉庫の裏なんか絶好だろ」

 別の声がそう提案するのに、倉庫じゃなくて部室です!と反射的に心の中で反論しつつ、えー、とか、そうするか、という追随する声が続いて、まずいかも、と身を固くする。と、

 「……すいません、入れてください」


 低く潜めた声が耳に届いた時には、窓べりに彼の手が掛かっていて。

 微かな軋みだけを残して、地面を蹴った一挙動で、軽々と乗り越えてしまって。


 とん、と。

 例えるなら猫が飛び降りたほどの音しか立てずに、壁と私の間の床に降り立った彼と、一瞬、無言で見つめ合う。小鈴と対照的に、女子としてはそこそこ身長のある私と目線がまるきり同じ位置であることに、微かな驚きが走る。

 そんな思いをよそに、彼は外からは影になる奥の机の傍に走り寄って、身を隠すように静かに屈み込んだ。その姿を目で追いながら、ある考えがふっと浮かぶ。

 そうだ、窓、閉めなきゃ。

 開けてあれば、中を覗き込まれる可能性があるし、もし締め切るのが間に合わなくても、部活を終えて施錠中なのだと言えばいい話だ。そう思い至って窓に近付き、なるべく音を立てないようにそろそろと閉じて、クレセント錠も掛けようと、動いて。


 そこからの数瞬は、何が起こったのか、すぐには把握出来なくて。

 ただ、両の肩に強い力が掛かったかと思うと、視界がぐん、と、急激に下がって。


 「……んだよ、やっぱいねぇじゃん」

 「中は?隠れてないか?」

 「なんもねえよ、だいたい電気ついてねえし。どうせもう帰ってんだろ」

 身体を押し付けて(というより押し付けられて)いる薄い壁の向こうから、三つの声がそれぞれに響いて。

 誰かの、あーあ、負けっぽいな、と諦めたような嘆声をきっかけに、不規則に混じった足音が次第に遠ざかって、何も聞こえなくなって、しばらくして。

 「……すいませんっす、邪魔して」

 囁きほどの謝罪の後に、ずっと肩に添えられていた手が、そろりと離れていって。

 まるで、背中を覆うように寄せられていた熱が感じられなくなったことに気付く間に、からからと窓を開ける音だけが、耳に届いて。

 ようやく顔を上げた時には、外に降り立った彼の黒髪が、目の端をかすめて、消えて。


 ……それは、不安を与えちゃうような行動だったかも、しれないけど。


 見つかるかもしれない、と思って、とっさにしゃがみこまされたのだろうということは、一応の理解は出来る。けれども、あんな風に、めちゃくちゃに近い距離で、って。

 ひとつ思い返すごとに、情けないくらいに免疫のなさがぼろぼろと出てきて、溢れ返る気恥ずかしさに膝に顔を埋めていると、がちゃり、とドアレバーを下げる音がして。

 「たっだいまー真雪ー!あのねカップル捕まえて一挙両得!と思ったらさー、やたらと怪しまれて逃げられちゃって……って、どうしたのなんか気分悪いの!?泣いてない!?」

 「……悪いというか、乱れてるのは、確か、かも」

 竹のポールにきっちりと巻いた旗を今にも放り出しそうな勢いで、すぐ横に走り寄ってきた小鈴の心配そうな言葉に、かろうじて、そう返して。


 ……こんなレベルで、勧誘なんか、続けられるんだろうか、私。


 さほど苦手意識はなかったはずなのに、生まれて初めて、生身の『男子』というものに接近遭遇してしまった、気がして。

 今頃になって自覚した鼓動が胸を打つたびに、頼りなくもゆらゆらと翻弄されながら、私は複雑な心地を、ただひたすらに持て余し続けていた。

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