おわり

『時がきた』


 見覚えのある文面を見せられた野島は、急に楽しい夢が覚めたかのような気分になった。

 離人感りじんかんとはこういうものだろうか。確かにこの目で捉えているはずの風景やカナの姿が遠ざかり、世界から現実味が薄れ、自分の足元が心細くなる。しかし、彼はすぐに現実を手繰り寄せ、得たいの知れない不安から目をそらすことにした。


「たぶん、端末の混線かいたずらだろう。気にすることはないさ。もうすぐ上演時間だ。電源を切って、そんなメッセージも忘れた方がいいよ」


「そうね」とカナは端末の電源を切り、バッグの中にしまった。上演を知らせるブザーが鳴り、幕が上がる。


 舞台はミュージカルだった。運動用ボディに首を繋いだ演者たちが、音楽に合わせてときに激しく、ときに厳かに、光とともに舞台上を舞い踊る。最後は、騎士が姫と口づけを交わしてハッピーエンド。

 それらを眺めながらも、野島は上演前に目にした文章が気になってしかたがなかった。

 時がきた。自分も知らず知らずのうちに会社のコンピュータに入力していた、あの言葉。どういう意味だろうか。犯罪予告のようにも思えるが、もっと大きなものが関与しているような気がしてならない。


 ふと、ホールに入る前に知った妖怪が脳裏をよぎった。

 飛頭蛮ひとうばん。体を離れ、首だけで生きている化け物。

 果たしてそれは、生きていると言えるのだろうか。その命題は、そっくりそのまま自分たちにも当てはまる。このありようは生命としての進化の結果なのか。

 ならば今、目の前で踊っている演者たちはどうだ。どれも借りものの体の上に、頭が乗っているだけとも言える。この場合、重要なのは体か、頭か。

 人間は太古より、脳の宿る頭を重要視してきた。しかし、今や頭は、簡単に体を乗り換える尻軽と化している。これは本当に正しい生き様なのだろうか。もしそうでないとしたら……


 閉幕のブザーが鳴り響き、野島の考えは中断された。役を終え、幕を背に並んだ演者たちを、体内時計の遅れた観客の静かな拍手が迎える。昔なら、割れんばかりの拍手喝采だったに違いない。

 一昔前の人間はやたらと生き急いでいたが、今の時代の者は生きるということに鈍くなっているのではないのか。まるでそう訴えかけているような寂しげな音色となって、ひそやかな拍手は野島の耳に残った。


 ミュージカルを見終えたあと、野島とカナは並んで歩く。雪はまだ降り続いていた。


「クライマックスで騎士とその兄がお互いの野心をかけて戦うところ、素敵だったなぁ」


 うっとりと感想を口にするカナに対して、野島は軽く相槌をうつだけだった。夫の異変に気づいたカナは、心配そうに顔を覗き込む。


「ねぇ、あなた。大丈夫? もしかしてつまらなかった?」


 彼女に、いや、今の時代を生きる者に、体調を気遣うという発想はない。そんなことは杞憂でしかないからだ。妻を不安がらせまいと、野島は自分の考えを隅に押しやり、気丈にふるまう。


「いや、なに、ちょっと騎士と王の心情について考えていたんだよ」


「あぁ、確かにあそこも良かったよね。愛する者を失いたくないという葛藤が見え隠れしていて」


 なんとか気取られずに済んだようだ。野島がほっと胸をなでおろしたとき、カナの携帯端末が着信を知らせた。


「ちょっとごめんなさい」


 断りを入れてからカナは端末のボタンを押し、耳に近づける。


「はい、野島です。……はい……はい……え? うそ、どうして……」


 突然血相を変えた妻に、ただならぬ事態を察した野島は訊ねる。


「おい、どうしたんだい。何かあったみたいだけど」


 カナは青ざめた顔で振り向き、たどたどしく言葉を紡ぐ。


「父さんが、仕事用ボディに接続した直後に、その、死んだ、って」


 カナの父親は、見た目は野島と変わらないほど若々しく、快活な人物だった。寿命などありえない。そもそも、現実に「死」という言葉を聞くこと自体、まずないのだ。


「原因は、何だって?」


 おそるおそる野島が訊くと、カナは自分でも信じられないと言った風に話した。


「それが、体の接続部分から、大量の好酸球こうさんきゅうが発見されてて、それにやられたみたいなの」


「好酸球?」


「いつか本で読んだことがあるけど、寄生虫に対して攻撃する、白血球の一種だったと思う……」


「寄生虫だって!?」


 そこまで聞いて、野島はぞっとするような仮説にたどり着いた。

 つまり、カナの父親は仕事用ボディから寄生虫とみなされて攻撃されたのではないか、と。


 おれたちが寄生虫だと? そんな失礼なことが許されてたまるものか。野島は無性に自分の仮説を否定したくなった。これを認めてしまうわけにはいかないと。しかし、現実にカナの父親はそうなって死んでしまった。それが意味するものは……


 野島がうすら寒い気配が忍び寄るのを感じたと同時に、彼の携帯端末も鳴った。彼の勤めている会社からだった。ぎこちない手つきで、端末を通話状態に切り替える。



「はい、もしもし」


「野島くん、今大丈夫かい?」


 端末からは焦った様子の専務の声が聞こえてきた。


「えぇ、まあ。どうされました?」


「大変なんだ、三原くんの伯父さんが急逝したらしく、彼女は特別休暇を取って葬儀に向かおうとしたんだ。だが、その際に自分の体に戻った三原くんも、いきなり倒れてしまった」


 野島は震える声で尋ねる。


「原因は、分かったんですか?」


「専門家の診立てによると、アレルギー症状だそうだ」


 やはりか、と野島は思った。

 彼女も、体から異物扱いされたのだ。しかも、本人のものだというにもかかわらず。

 何か、おそろしいことが起ころうとしている。これはその前兆か、警告か、それとも……


『時がきた』


 野島の頭の中で、いきなり声がした。声は頭蓋のドーム内で反響する。

 そのとき、野島の頭が何者かにつかまれた。それはまぎれもない彼自身の腕だった。

 自分で自分に抵抗するすべなどない。野島の体はその腕で自らの宿主を引き抜き、頭部を地に置いてどこへともなく立ち去っていった。それまで頭部を持っていたときとは違う、きびきびとした足取りだった。

 隣で短い悲鳴がしたので、横に目をやると、そこには頭部だけになったカナが転がっていた。彼女の体も、はっきりとした意思を感じさせる歩き方で、降りそそぐ雪の中へ消えていく。


 あちこちで、パニックになった人たちの声が聞こえてきた。誰もかれもが首から上だけとなり、頭を捨てた彼らの体は、ぞろぞろと群れをなして歩いていく。野島の首とともに捨てられた携帯端末からも、専務の叫び声が伝わってきた。


「ちょっと、どこへ行くの! 待ちなさい!」


 誰かが自分の体に向かって怒鳴るも、首なしの体は足を止めない。

 一様に頭を捨て去っていく首なしたちの群れを見て、カナが尋ねた。


「どういうことなの、これは。いったい何が起こっているの?」


 野島は、雪のせいではない悪寒を隠そうともせず、妻に答えた。


「時がきたんだ」


「え?」


「人間の体が、頭部を邪魔だと判断して捨てたんだよ」


 あのメッセージは、体が伝えようとした、頭との決別の意思表明だったに違いない。

 野島の意見に、カナは異を唱える。


「まさか。仮に体がそう思考して判断を下したとしても、勝手に動けるはずがないじゃない。だって、私たちの体の時間はほとんど止まっているのよ」


「それさ。ずっと時間を止められ、満足に身体能力を発揮することもできなくなった体たちは、我慢できなくなったんだろうよ。そして、おれたち頭を見限ることにした」


「だからなんで動けるのよ。体内時計の遅れた体で」


「時がきたんだよ。おれたちの体に、いや、のもとに時間が帰ってきたんだ。おれたちに気づかれないようにこっそりリングをいじっていたのかもしれないし……」


 そこまで言ってから、野島は続きを口にするのをやめた。

 死を捨て、命を忘れた人間に、神が再び時間という制限を与えたのかもしれない。

 首を境に頭と胴体の二つに分かれた人類が、共存できなくなった結果なのかもしれない。

 そういった空論を述べても頭がおかしくなったと思われるだけだろうし、なによりこんな状況で今さら議論したところで、もはや意味もない。


 時間を奪われ、己の意義に疑念を抱いた体たちは、頭を捨てて新たな役割を探しに出た。だが、それは短い旅になるだろう。頭部を切り離し、時間を得た体が、いつまでも動き続けられるはずはないのだから。

 行き場を求める体と、行き場のない頭。両者が交わることは、もう二度とない。


 風が渦巻き、雪が勢いを増してきた。体を失ってなお寒さを感じぬ首たちの顔に、冬の結晶は遠慮なく降りかかる。


「飛頭蛮……」


 隣でカナが小さく漏らした声が、雪の合間をすり抜けて野島の耳に染み込む。

 飛頭蛮は、自分の体に帰れなくなると死んでしまう。しかし、彼らは首にはめたリングの装置によって、当分の間死ぬことはない。

 自分の体にも帰れず、人らしく死ぬこともできず、気の遠くなる時間の果てに訪れる寿命を首だけのまま待ち続けるしかないのだ。

 彼らは、果たして生きていると言えるのだろうか。その問いに答える者はなく、ただ茫然とした表情を浮かべる無数の首だけが取り残されていた。


 地上は白み、雲は黒ずみ、春の足音は遠ざかっていく。長い冬が街を閉じ込めた。

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飛頭蛮 二石臼杵 @Zeck

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