飛頭蛮

二石臼杵

はじまり

 オフィスの一室。椅子に座る一人の男の姿があった。


 男を取り囲むように、文字の記された小さな光の円盤がいくつも宙を漂っている。その胸元に取りつけてある電光社員プレートには、野島信悟のじましんごと表示されていた。


 野島は淡々と光の円盤を指でなぞっていく。その度に、彼の正面にあるディスプレイに文字や数字が入力される。文字盤は彼の指の動きに合わせて配列を変え、より効率的なタイピングを可能とする。


 大手旅行店に勤めている彼は、旅行の予約客名簿や各プランの費用、それによって会社に生じた利益の総額などのデータを次々と入力していく。

 この会社内の事務作業は、もっぱら彼の体一つでまかなわれていた。


 彼がこの作業を始めてから、もう一週間が経とうとしていた。一時間以上の休みもなく、ただ黙々と続けている。

 とはいえ、もちろん疲れを感じていないわけではない。ただしそれは肉体的なものではなく、単調な作業を続けていることによる精神的な疲れであったが。野島はたまに許された十分間の休憩を行うべく、椅子の背もたれに体をゆだねた。


 彼は自分の首元に手をやる。首には、黒く幅の広い金属製のリングがはめられていた。それに触れる彼の指は、大きめの顔に反比例して女性のように細長い。タイピングに適した、事務作業にうってつけの指と言えた。指だけではなく、体全体がすらりとした中性的なフォルムだ。眉毛が太く男らしい野島の顔だけがやけに大きく、それがアンバランスさを演出していた。

 首輪の硬く冷たい感触を覚えながら、彼は考えを巡らせる。

 昔は、社員を酷使させることに対してブラック企業やら社畜やらの皮肉表現があったらしいが、このリングはその頃の名残のようではないか。

 だがそれがどうした。労働基準法など、今のおれには当てはまらない。この体が疲れることはないのだから。とはいえ、おれの方には限界がある。間もなく休暇をもらえるだろう。


 野島が小さく笑いを漏らすと、オフィスのドアが無音で開き、アタッシュケースを片手に下げた専務がやってきた。


「野島くん、交代の時間だよ」


 そらきた。噂をすれば、だ。

 野島は椅子を回転させて座ったまま上司の方を向き、「はい、そろそろだと思っていました」とにべもなく答えた。


「じゃあ、ちょっと失礼」


 専務は歩み寄り、ケースを床に置いてから野島の側頭を両手でぐっとつかむ。


「よっ、と」


 しゅこんという音とともに、野島信悟の首は外れた。

 首から上だけになった野島はとくに驚いた表情を浮かべずに、何本かのケーブルを引き連れて体から離れていく。残った彼の体の首元で、黒いリングが鈍い光を反射する。リングはその断面から血を漏らすこともなく、幾何学的な線模様を光らせながら、餌をねだるひな鳥のごとく穴を空けていた。

 彼は頭を抱えられながら、何度味わっても不思議な感覚だなと、そんなことをぼんやり考えていた。

どこか冷めたような目で、それまで自分のはまっていた体を眺めている。


「少し待っていてくれよ」


 専務は野島の首を机の上に置き、アタッシュケースを開けて中から女性の生首を取り出す。その首にもリングはついていた。


三原みはらくん、起きなさい。仕事だよ」


 専務が声をかけると、その女性は閉じていた目を開く。


「了解しました」


 女性の首は何度かまばたきを繰り返し、周囲の明るさに眼球を慣らしてから言った。

 専務はそのまま彼女の頭を野島の首元に近づける。金属製のリングがモーターの駆動音とともにゆっくりと穴を広げ、新たな首を迎えた。

 三原の首が野島のボディに差し込まれると、リングはゆっくりと閉じていき、彼女の首の太さにサイズを調整していった。胸の社員プレートに表示されてある文字が「野島信悟」から「三原アキ」へと変わる。


「じゃあおれは休むから、悪いけど続きは頼むよ」


 野島が同僚にそう話しかけたとき、すでに三原の首は彼の体にしっかりとジョイントされていた。

 もともと中性的でしなやかな体だったので、野島よりも彼女の頭部の方がいくぶんか違和感なくはまっている。


「えぇ、まかせてくださいな」


 先ほどまで野島のものだった体に首をすげ替えられた同僚は、ウインクをして応じる。そして、野島のあとを引き継ぎ、細長い指でタイピングを始めた。光の文字盤が規則的な踊りを再開する。が、その動きを止めた。


「あれ? 野島さん、入力ミスがありますよ。ほらここ」


 三原がディスプレイを野島の方に示す。ディスプレイは三原の手に押され、空中を滑って野島の前に移動して止まった。

 野島が覗きこむと、画面の中には大量の業務用データにまぎれて「時がきた」という文字が表示されていた。


「本当だ。こんな文字、入力した覚えはないけどなあ。すまないが、消しておいてくれないか」


「はい、もちろん」


 三原はすぐにその文章を削除し、タイピングに戻る。


「おかしいなあ。体は問題なく作業していたはずなのに」


 不思議がる野島に、専務はこともなげに言う。


「おおかた、無意識に疲れていたんだろう。ゆっくり休みたまえ。奥さんとの約束もあるんだろう?」


「そうさせていただきます」


 専務は野島の頭をアタッシュケースにはめ込む。ケースの中には人間の頭を収納できるスペースと、その周りを覆うように張り巡らされた配線と、薄緑色の液体が詰まっていた。

 部下の首輪に配線を接続した専務は、アタッシュケースを閉じる。野島の視界が暗闇に包まれた。それから、僅かな振動がやってくる。ケースが持ち運ばれているのだ。

 専務の歩みと連動して揺れるケース内で、野島は心地よい安息を感じていた。まるで羊水に満たされ、守られているようだ。目を閉じて、これから訪れる休暇に心を躍らせる。


「着いたよ。きみの体だ」


 ケースの外側から専務が呼びかける。アタッシュケースが開けられ、野島の首は外界の空気にさらされる。

 視界に広がるのは、ベッドに寝かされた何人もの体。そのどれもが、首から上を失っていた。野島はこの光景を目にするたび、博物館でしか見たことのない霊安室の資料写真を連想する。

 その中の一体が起き上がり、野島の頭をつかむ。そして、自分の首に野島の頭を差し込んだ。

 野島は体を見やり、手のひらを何度か開閉させて接続に問題のないことを確かめる。これが正真正銘の、自分の体だと確かめる。


「では、ありがたく休暇をいただきます」


「あぁ、存分に羽を伸ばしてくるといい」


 専務に一礼し、野島信悟は会社をあとにする。挨拶を受けた専務の首元でも、リングが黒く光っていた。

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