つかのま

 街に出ると、大勢の人がのんびりとした足取りで歩いていた。みな例外なく、首には野島のものと同じ黒いリングをはめている。


「おっと、そろそろ行かなくちゃ」


 腕に巻いた時計の針の位置を見た彼もまた、ゆったりとした歩調で首輪の集団にまぎれていった。


 彼らの着けているリングは、常に脳の視床下部ししょうかぶにある視交叉上核しこうさじょうかくに特殊な信号を送り続けている。視交叉上核とは、俗にいう体内時計の司令塔のようなものである。そこに刺激を与え続けることで、人体の時間を遅らせているのだ。


 哺乳類の動物が生涯に打つ鼓動の回数は、約二十億回と決まっている。しかし、同じ哺乳類でもネズミの寿命は三年程度だが、ゾウは七十年近く生きることができる。これは、ゾウの鼓動が非常に遅いペースだからだ。

 生きる者は誰しも、体に自分の寿命を刻む時計を持っている。要は進み方の問題だ。ならば、体内時計を遅らせてやれば、ネズミを七十年以上生かすことも可能なのではないか。


 この仮説に基づき開発されたのがくだんのリングだ。遅れた体内時計によって人間の時間は引き延ばされ、一日が何年にも何十年にもなる。それを利用して、人体の時間をほぼ止まっているように錯覚させ、不老不死に近い体へと変化させているのだ。たとえ首を切られていても、それに気づかないほどに。彼らの体が首を切られたと認識するのは、遥か未来で天寿を全うしてからだろう。


 命とは、電池のようなものだ。電池が切れれば活動は止まる。それを先延ばしにするため、極端に省エネルギー化された電池で動いているのが今の人間だった。


 永遠の夢であった不老不死を手に入れた人類だが、大きな問題が残った。体内時計がほぼ止まっている状態のため、急激な運動ができなくなったということだ。

 そこで編み出されたのが、クローン技術を応用した人工のボディだった。造られた体は狂った体内時計に左右されず、通常通りに動いてくれる。そうして、素早い判断を必要とされる作業中は人造ボディに頭部を移植し、のんびりプライベートを楽しむときは愛する自分の体に戻るという生活をとるようになった。

 体に縛られず、老いに縛られず、病や死に縛られず、時間に縛られない。人々はそんな自由な人生を送っていた。


「やあ、待ったかい?」


 人ごみを抜けた野島は、外灯の傍に佇んでいた女性に向かって手を上げる。


「ううん、大丈夫」


 女性は微笑み返した。彼女は野島の妻で、カナという。

 カナとは市街の図書館で知り合い、それから何度も交際を続けているうちに次第に仲が深まり、結婚へと至った。長い付き合いだ。それこそ、普通の人間ならばとっくに老いているほどの長い時間をかけている。

 だが、体内時計の遅れている彼らにとって、それは大した年月ではない。カナも当然、例のリングを首に着けていた。


 彼らの夫婦生活は、笑顔に満ちたものだった。たまにこうして待ち合わせて、デートを楽しんでいる。愛の鮮度は保たれ、色褪せることのない恋心が二人の新婚生活を潤わせていた。

 時間の進みが遅い体では、子どもを産むのは難しい。死後出産という事態にもなりかねない。だから、現在は子どもが欲しい場合はもっぱらクローン技術で生み出すのだが、カナも野島も今のところ別に子どもを欲しがってはいなかった。それよりも、まだまだ二人きりの時間を楽しみたいのだ。


 今日のデートは、有名な劇団の舞台を観に行くことだった。

 野島とカナはホールに入る前に売店で流動食を買い、それを片手に話しながら歩く。消化も非常に遅いため、彼らの体は固形の食事を受け付けない。もっとも、それを言いだせば食事自体必要ないのだが、あくまでも雰囲気を楽しむものとして、形だけの文明を残していた。


 街の中を、二人してゆったりとした歩調で進む。緩やかな時間の流れにいる彼らの周りで、いくつものホログラムの看板が残光を引いて空中を通り過ぎていった。

歩いているうちに、ちらちらと雪が降ってくる。季節だけは律義に時間を守っている証だ。それに対し、道行く人々はコート一枚羽織ろうともせず、のんびりとした時間を楽しむ。寒さも感じない彼らは、急ぐという行為を過去に置いてきたのだ。

 歩きながら、カナがなにげなく口を開いた。


「ねぇ、あなた。今日ここに来る前に妖怪図鑑を読んでみたのだけど。ほら、これ」


 彼女がバッグから携帯端末を取り出し、指の爪ほどのサイズのチップを差し込む。端末は青い光を放ち、立体映像の本を空中に出現させた。表紙には、巨大な骸骨や舌の長い二足歩行のトカゲ、手足の生えた傘などがおどろおどろしく描かれている。


「また面白そうなものを見つけてきたね」


 野島は興味深そうな表情を浮かべて言った。カナの趣味は読書と書店巡りであり、古今東西問わず、あらゆる時代の本を見つけては好んで読んでいる。


「でしょう? で、この中に飛頭蛮ひとうばんっていう妖怪が出てくるの。知ってる?」


「いや、さっぱりだなあ」


 カナは架空の本のページを開き、「飛頭蛮」と書かれた項目を見せる。そこには、耳を翼にして飛び回る首だけの男の絵が載っていた。


「へぇ、これが妖怪かい?」


「妖怪の仲間で、飛頭蛮って種族なの。夜になると首から上が体を離れて飛んで行き、人を襲ったり虫を食べたりする。で、朝が近づくと自分の体に戻っていくのよ」


「ふうん? 昔の人はずいぶん妙な生き物を考えるもんだねえ」


 興味深げに、野島は空中に浮かぶ飛頭蛮の絵を覗きこむ。


「まだあるわよ。飛頭蛮の弱点は、首が離れている間に体を隠すこと。自分の体に帰れなくなった飛頭蛮は、そのまま死んでしまうんだって。どう、面白いと思わない?」


「確かに、どこか今のおれたちと似通った部分もあるかもしれないな。人間の想像力が、ときとして偶然、未来の予想に繋がってしまうのは本当に不思議だと思うよ」


「そうそう。私もちょうど同じようなことを思ったの。まぁ、私たちは虫なんて食べませんけどね」


 そう言ってカナは舌を出しておどける。野島も「まったくだ」とつられて笑った。

 それからしばらく、二人は妖怪図鑑の話題で盛り上がった。物珍しげに眺めたり、古代人の突拍子もない思想を笑ったり。コンサートホールに入るまで、そんなやりとりが続いた。


 ホールに入って携帯端末の電源を切ろうとしたとき、カナの端末がメッセージを受信したことを知らせた。それを見て、カナは眉を寄せる。


「誰からのメッセージだい?」


「それがね、差出人が私の名前なの。本文はこれだけ。なんだか気味の悪いメッセージじゃない?」


 カナから差し出された端末の画面には、たった一言、こう書いてあった。


『時がきた』

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