もう、寝ようぜ。

ふわふわした黒い何かが目に入った。


そいつは部屋の片隅で静かにしていた。生き物のようだったが、ぼうっとしていたら会社に遅刻してしまう。僕は、ふわふわした黒い何かの事は放っておいて、急いでトーストを焼いて食べて、会社に向かった。


疲れて家に帰る。今日は取引先でイヤな目にあった。疲れてそのまま布団に倒れこむ。ああ、このまま寝たらダメだ。風呂に入らないと……。そう考えた時に、視界の隅で何かを捉えた。


「もう、寝ようぜ。」


弾かれたように体を起こした。慌てて周りを見渡す。何度も確認したが、部屋には何もいなかった。確かに何かの声が聞こえたはずなのに。はは……、これが幻聴ってやつか? こんなに疲れていたら無理も…ない……か。そこで、僕の記憶は途切れた。


何かがいる気配で目を覚ました。まだ辺りは暗い。何か怖い夢を見た気がするが、なにも思い出せない。どうやら、寝てしまっていたようだ。ズボンのポケットに入っていたスマホで時刻を確認すると、4時過ぎだった。昨日は風呂に入れなかった。重い体を起こしてシャワーを浴びる。少しさっぱりした。


出社までもうひと眠りと、パジャマに着替えて布団の中に滑り込む。もう5時近くだ。2時間くらいしか眠れないが、それだけでも大分違う。僕はゆっくりと夢の世界に戻っていく。そして意識が途絶える時に、ぼんやりとした頭の中に、クリアな音が耳に入りんで来た。


「もう、寝ようぜ」


次の日から、僕は眠れなくなった。なぜだか理由は分からない。自ずと会社でもミスが増え、怒られる日が続いた。家に帰って、鉛のような体をソファに預ける。そして時間が経つと、眠ったかどうか分からない体を引きずるように、また会社に向かう。そんな日々が続く中、なぜか部屋の隅にいる黒いふわふわした何かの存在感も、どんどん強まって行くよう感じられた。


部屋の隅を直視すると「そいつ」は消えてしまうが、視界の片隅で捉えておく限りにおいては、「そいつ」はずっとそこに存在していた。黒いふわふわした「そいつ」は、大きな猫っぽいかたちをしていた。そして次第に「そいつ」が僕に話し掛ける回数も増えてきた。


眠れない僕がコンビニに向かおうとすると、「疲れたろ、今日はもう寝ようぜ」と僕をたしなめた。僕が朝起きようとすると、「疲れたろ、今日はもう寝ようぜ」と朝にも関わらず、僕を困らせた。


次第にその猫の姿が見えなくても、「そいつ」の言葉だけが頭を駆け回り始めた。


「今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ。今日は今日は今日はもう寝ようぜ。寝ようぜ。もう。今日はもう寝ようぜ。今日は寝ようぜ。もう、今日は。ねよう。もう今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ。寝ようぜ。寝よう。寝よう。寝ようぜ。猫じゃねえ!今日はもう寝ようぜ。寝もうぜ。今日はもう寝もうぜ。今日は寝。もう今日。今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ今日はもう寝ようぜ。今日はもう寝ようぜ今日はもう寝ようぜ今日はもう寝ようぜ今日はもう寝ようぜ」


言葉がずっと回り続ける。布団の中で憔悴しきった僕の心は不安に支配されていた。このまま僕はその猫に支配されてしまうのだろうか? 眠れないまま言葉がぐるぐると回る事に精神が参り掛けた瞬間、部屋の隅の「そいつ」が、少しずつ僕に近づいて来るのが分かった。体中に恐怖が走る。


ずるずると音を立てて、そいつは僕が寝ている布団に近づいている。僕は体を乗っ取られてしまうのだろうか? そいつが布団の上に乗ったのが分かった。それは移動を続け、僕の体をゆっくりと蹂躙しながら、顔の方に近づいて来る。そいつは震えるの僕の体をゆうゆうと横断して僕の顔ぎりぎりまで近づいて来た、ほとんど息が掛かる程の距離。もうダメだ……、と僕が死を覚悟した時、「そいつ」は僕にこう声を掛けた。


「ジョーカー、疲れたろ? 今日はもう寝ようぜ。」


・・・・・・誰だよ、ジョーカーって! 人違いだよ!




次の日から、普通に元気になりました。

 

           完



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火事場でも、バカは役に立たない。 青山テールナー @inutokasukidesu

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