旅館にて、男同士の会話 二〇一六年八月五日

 広縁の窓から覗けば、辺り一面を山々に囲まれた湖が見える。湖の上には重い雲。灰色の空を烏の家族が飛んでいる。かあかあ。


私はウィスキーをちびちびと舐めながら、真向かいの椅子に腰掛けて煙草を吹かしている友人とあれこれ語らった。内容といっても、取り立てて言う程でもなく、淡々と過ぎ去っていった昨日、一昨日の話を思い出しては、嗚呼、成程と頷くようなものである。楽しかった日々を忘れずに、自分の心にしっかり捕えておきたいのだ。それでも、彼と語らう今日という時間は、どのようにしても捕まえることは出来ず、ただ私の手指の隙間から、水が零れていくように、するりと逃げていくのである。

一階の浴場から女の笑い声が聞こえる。何が楽しいのか、男の私には解らぬが、きっと宛てのない恋の話で盛り上がっているのであろう。広縁の窓からは、この女達の耳につく笑い声と、湖に冷やされた夏の夜風が、私の部屋に流れ込んでくる。


「お、飲んでいるのか。何の話をしている。」

同室に泊まっているもう一人の友人が、風呂から帰ってきた。

「何てことない、下世話な話よ。お前も混ざるか?」

「いいや、俺は布団で寝転がって、二人の話を聞かせてもらうよ。」

 彼は広縁の傍に敷かれた私の布団に横たわると、天井の板目の紋様を研究し始めた。


もう一時か。皿に盛られた山ほどの吸い殻。氷が解けてすっかり薄まったウィスキー。グラスの結露が、灰で汚れた机に溢れる。山鳥の声も静まり返り、街頭の小さな灯りだけが、湖と夜闇の輪郭を教えてくれる。大浴場の清掃時間がもうすぐなので、それが終わるまで、彼等と語らおう。


 眠気がさらに強まり、上の瞼が降りようと必死である。真向かいに座って煙草を吹かしている友人も、そのような具合だ。だが自然と、話題は尽きない。横になって私達の話を聞いていた友人は、気付いた頃には大鼾をかいていた。

 私はつまみのナッツをいくつか手に取っては、口に放り込んだ。ゴリゴリと振動が顎に響いた。その鋭い刺激が、幾分か眠気を覚ましてくれると、淡い期待もした。

「なあ、この数日間、忙しかったなあ。」

ナッツを食べている私に、彼はぶっきらぼうに問いかけてきた。

「ああ、忙しかった。忙しさを忘れる程忙しい、とはよく言うが、忙しさを自覚し続ける忙しさ程、心苦しいものはないだろう。俺たちは後者の方かもしれない。」

「その通りだな。楽しくても、忙しいのはごめんだ。ああ、眠い、眠い。」

 眠い、という言葉を何度口にしたことだろう。夜は遅く、身体も疲れ切っていたが、何故か寝ようとはしなかった。身体は布団を欲していたが、心は広縁の、赤布のソファを求めていた。この不毛な一分一秒を、私達のものにしようと、細い目を見開いて足掻いていたのだ。

さて、そろそろ、風呂に入るとするか。

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