読書殺し 二〇一六年五月二十九日
ふと、落ち着いた場所で本を読みたくなった私は、近所にある小さな喫茶店に行った。御洒落なカフェが流行っている今日だが、私は昔ながらの純喫茶が好きである。焦げ茶色の革が張ってあるソファと、小さなテーブル。全体が焦げ茶色に統一された店内の雰囲気は、涼しくゆったりした空気である。
比較的客の少ない夕方五時過ぎにやって来たので、四人掛けのテーブルのソファ席に一人で掛けた。ちょっとした贅沢な気持ちを味わえるのも、庶民ならではの喫茶店の楽しみ方であろう。
頼んだ珈琲をマスターが持ってきてくれると、カップからは湯気と一緒に、上品な香りを放っている。それを片隅に置いて、持ってきた本を鞄から取り出した。
店内には客が私を含めて三人しかおらず、二人はカップルだったが、彼らは静かに話し合っているから、むしろ店内に流れているヨハン・パッヘルベルのヴァイオリンが際立って私の耳に入ってくる。普段は耳障りなカップルの話し声であっても、この程度の音量なら、かえって心地よいものである。
私は店内の環境音に包まれて、本を読み進めた。文字を抜け出して、私の眼前に新世界が現れている。嗚呼、これが文学の世界。
時の流れを忘れて、貪るように頁を捲っていると、乾いたドアベルの音と共に、一人の老婆が店内に入ってきた。それを横目で見ながらも、私は即座に文学の世界に没頭した。
しかし、暫くすると、なにやら破裂音のような、小さな泡が弾けるような、自然界、少なくともこの喫茶店には存在し得ない人工音が聞こえてきた。店内のパッフェルベルのカノンでもなく、珈琲を淹れるポットでもない。
「チッ、チッ」
音の正体がつかめぬまま、私は読書を続けようと試みたが、どうも上手くいかない。
「チッ、チッ」
また、聞こえてくるこの音が、どこからやってくるものなのか、私は調べなくては仕方がなくなってしまった。そこで、栞として使っているコンビニの領収書を挟んで、本を閉じた。
周りを見回してみると、私の左隣の席に、先程入店した老婆が座っていた。カップルは先程と同じように談笑している。
だが、読書をやめた途端、私を悩ませる不気味な音が聞こえなくなってしまった。その後も、暫く携帯をいじってみたり、煙草を吸ってみたりしたが、例の音は聞こえてこない。
私は諦めて、本を開いた。暫く読書を続けていると、再び、あの耳障りな音が、隣の老婆の方から聞こえてくるのである。
「チッ、チッ」
とうとう我慢ならなくなった私は、えい、と本をうつ伏せに置き、老婆の方を向いた。すると、老婆は口をもごもごさせていた。何かを食べているのか、と怪しんだ私は、老婆のテーブルを見てみたが、カップが一つ置かれているだけで、食べ物は何一つ置いてなかった。
何も食べていない筈の老婆は、しきりに唇を上下左右にひん曲げては、あの気味の悪い破裂音を、口から弾き鳴らしているのである。
「チッ、チッ」
音の正体が突き止められたといはいうもの、その音に私の神経が集中してしまい、読書を再開しても、目に映るものは、無味な文字ばかりで、不規則に聞こえてくる老婆の舌打ちの如き音が、私の安楽のひと時を奪い去っていったのである。
私はもうそれっきり読書を辞めてしまい、煙草に火を点けて、ずっと考え事をした。初めは政治であったり、将来の進路についての考え事であったが、気づいた時には、やはり老婆の舌打ちの原因について、自分事のように悩んでいたのであった。
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