第1話 出会い
(最近、気になることがあるんですよね。いや、違います。ずっと気になってはいたんです、はす向かいの家のことが…)
そう
秋仁は私立大学のポスドク(博士研究員)だ。ポスドクとは大学の学部を卒業した後、だいたい5年間費やして真面目に研究に取り組み、博士号を取得すれば、薄給でいつクビになるかわからない不安定な雇用形態で、研究員なのか、教授の雑用係のか微妙に悩むような仕事を与えてもらえる。ここから努力を重ね、研究論文を世に出し、官僚的なアカデミアの世界での処世術を身に着け、講師、助教授や准教授、教授と出世していくのだ。出世に失敗すれば、ジ・エンド、高学歴のワーキングプアの誕生だ。なんとも気の遠くなる話である。秋仁は今年29歳になり、学部を卒業し大企業に就職して年収何千万と稼いでいる同級生を思うと、自分で選んだ道とは言え、ひどく気持ちが落ち込んだ。
いつもは真っ暗で誰も歩いていない住宅街も今日はオレンジ色の光で満ちていて、制服を着た中学生やランドセルを背負った小学生とすれ違う。秋仁は秋の色の濃くなった少し冷たい空気を深く吸った。
(ああ、確かに疲れていますね。…そうでした、はす向かいの家のことを考えていたのでした。)
疲れた頭は動きが緩慢で、1つのことに集中できない。
はす向かいの家…忙しくて最近はほとんど家でゆっくり過ごすということはないのだが…なぜなら今の雇用形態は、1年ごとの更新だからだ。のんびりと数年に1回、共著の論文に連名していればいい教授とは違い、秋仁はこの1年で結果を出さねばならない。雑多な雑用、例えば学会で留守にしている教授の代わりに、学部生の授業を受け持ち、その課題の採点をして、それをPCに打ち込む。それらを終えてから、やっと自身の研究に勤しむことができるのだ、毎晩遅くまで大学に残らざるをえなかった。それは秋仁の顔色が白から青白くなっても、細かった身体がさらに細くなっても変わらなかった。そんな秋仁を見かねた研究室の教授が、今日は早く帰って休むようにと、彼を研究室から追い出したのだった。
はす向かいの家の名前はなんだったか考えていた秋仁の耳に騒ぎ声が飛び込んで来た。
「・・・・!」
「・・・バケモノ・!」
「・死ね・・・!」
何かあったのかと不思議に思いながらそばの角を曲がるとランドセルを背負った子供達が数人、群がって騒いでた。
「なんか言えよ、このノロマ!ブス!キモいんだよ!!」
「ねーその髪、いつお風呂入ったの?臭いんですけどー。きゃはははー」
「うけるー!そうだ、わたし、水筒の中にまだお茶残ってるから、洗ってあげる。はい、じゃーっと!」
「お前の場所はどこにもないんだよ!のこのこ俺らの前に姿現してんじゃねーよ」
ずいぶんと酷い言われようですね、と秋仁は思った。
最近の子供は怖い、と時代のせいにしようとしたけれど、自分が学生の頃もいじめは確かに存在していたのを思い出した。いじめは見ているだけでも嫌なものです、と嘆息する。とはいえ、成年男性が小学生に関わって通報でもされたら困る。あとで、近くの学校か教育委員会に連絡しておいてあげますから、すみませんね、と心の中で謝り、この場は無視して彼等の横を通り過ぎようと足を進めた。すると、秋仁の存在に初めて気づいた子供たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「もう学校くるんじゃねーぞ!」
そんな捨て台詞を残しながら。秋仁はため息をついた。
(別にイジメを止めさせようと思った訳じゃないんですけどね。)
そして、一人取り残されている少女を見た。頭からは滴がぽたぽたと垂れている。その周りには傷だらけのランドセルと勉強道具、教科書やら鉛筆やらが散乱している。転ばされたのか泥で薄汚れた格好をしている彼女は、表情の抜け落ちた目でぼんやりとしていた。秋仁は女の子なら尚更、下手に関わるわけにはいかない、と恐れ、申し訳ないと思いつつも明らかに苛められてたであろう少女を無視し、その脇を通り過ぎようとした。
その瞬間、空気がねっとりと熱くなり、密度が上がったように感じた。本能的に身の危険を感じ、とっさに身構えると、どこからその熱気が発生しているのか発生源を探すべく、辺りを見まわす。すると、靄のような空気の揺らぎが見えた。それを目で追っていくと、その揺らぎが微かに上がる煙へと変化し、先ほどの少女の頭上に辿り着いた。
(これは…?)
頭から煙を薄煙を出す少女に秋仁は不思議に思い、とうとう声をかけてしまった。
「君!」
少女はハッとしたようにこちらを向いた。ねっとりとした空気も霧散する。
「大丈夫ですか。」
秋仁は立ち止まって声をかけてしまった手前、無視し続けることも出来ず、散乱した教科書を拾い始めた。
(くれい はるか、ですか。)
拾い上げたノートに書いてある名前を読む。くれい、くれいってどこかで聞いた覚えが…なんでしたっけ?喉まで出かかって思い出せない何かに、秋仁は眉をひそめた。一言も発さず、ノロノロと持ち物を集めている少女を見ながら、思い出すのは後回しにして、覚悟を決めて話しかける。
「お家はどこですか?送って行きます。」
学校に連絡しなくても、この少女の親にいじめの件を伝えれば万事解決、と秋仁は考えた。
「っ!!」
一連の彼女の行動から、無表情で家の方角を指差すかと思っていたが、彼女はとても怯えた表情をし、身を硬くした。
「どうかしましたか?」
しまった、不審者と思われているのかもしれません、と秋仁は少し焦る。
「いいえ、大丈夫です。一人で帰れます。」
少女は立ち上がると、一礼をして足早に去って行ってしまった。予想外の反応に秋仁は瞠目し、一瞬その後ろ姿を見送ってしまう。しかし、少女の姿が完全に視界から消える前に我に返ると、おせっかいとは思いつつもこっそり後を尾けることにした。今後、彼女と関わるかどうかなどはわからないが、住んでいる場所くらいは確認しておきたかったのだ。
その後、角を二つ程曲がった先にある『
その時、家の中からガシャンと、何かの割れる音がした。そう、これが秋仁を悩ますものだ。
「この出来損ない!なんでこんなに汚いんだよ!」
ガシャン
バキッ
ゴトンゴトン
「・・・っ・・ごめんなさい・・」
激しい物音
大人の怒鳴り声
子供のすすり泣き
「秋仁くんおかえりなさい。今日は早いのね。」
秋仁が榑井家の前に立っていると、隣の家の主婦から声をかけられた。
「山口さん、こんばんは。…その……。」
山口さんは「その」の一言で、秋仁の言いたいことは察したらしい。
「でもねえ…そりゃ、私も怒鳴り声や、何かが壊れる音や泣き声なんかは心配しているよ。奥さんにも大丈夫ですか、って声掛けをしたさ。でも、子供が火をつけるからそれを叱ってる、て言うんだよ。実際、この家は小火が多くて、この前も消防車が来たじゃない、知ってるでしょう?さすがに火をつけて遊ぶのは困るのなんのって。いつ家にも火が移るか気が気じゃないし、しっかり教育してもらわないと、自分の家が灰になってからでは遅いからね。」
「そう、ですか。」
「そういうことさ、よっこいしょっと」
それだけ言うと山口は重そうな買い物袋を両手に家の中へ入って行った。秋仁はそのまま他人の家の前に立っている訳にも行かないので、仕方なく帰路についた。
(火をつける、ですか。消防車は初耳です。私が大学に泊まっているときにきたのでしょうか…そんな子には見えませんでしたが。)
家に帰ってゆっくりと休むはずが、余計な問題に直面してしまい、痛み始めた頭を軽く振りながら秋仁は自宅の郵便受けをのぞき込んだ。
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