第4話 巣立ち
月日はたち、春香が秋仁のもとに来て一年と少しが経った。
春香の周りに警察が介入したおかげで、小学校はきちんと対策を取ったようだ、春香にはまだ友達と呼べるほど仲の良い子はいないようだが、ランドセルや洋服を汚して帰ってくることはなくなった。寝る前、学校で何があったのか、春香は少しずつ秋仁に話すようになってきた。
大学では秋仁の所属する研究室だけでなく、研究科全体に春香の存在が知れ渡り、もはやマスコットだった。春香が研究棟の廊下を歩けば、あちらこちらからお菓子が春香の手元に集まり、ぜひうちの研究室にも遊びに来てね、と声がかかる。秋仁が忙しくて勉強を見てあげられなくても、春香の教師役の座は高倍率だったので、誰かしら入れ替わり立ち替わりしていた。そして秋仁の教授は安全性を高めるため、研究棟に防犯カメラを導入しようとどこからか予算を調達してきた。対する春香は、口数は多くないものの、自分よりずいぶん年上の人たちに臆することなく話していたし、ごくたまに笑顔を見せたりしていた。
そして最後に、春香の両親との関係についてだが、秋仁か小野寺の付き添いで、科警研の応接室や、春香の自宅で何度も面会を重ねた。この時ばかりは、春香も頷くなどの動作は見られるが、表情に乏しく、ほとんど話さない。春香の両親は、どうにか会話しようとあれこれ話しかけるが、その試みはあまり成功とは言えず、しまいには春香に対する小言になってしまった。
しかし、そんな平和に見える生活に問題が浮上した。秋仁に講師のお誘いがかかったのだ。30歳という年齢で臨時ではなく大学専任の講師になれれば早いほうで、秋仁のキャリアを考えれば、喜ばしい誘いだった。しかし、それはアメリカの大学からの誘いだったので、春香を引き取っている大義名分の一つ、家が近所という理由は使えず、簡単には連れていけない。春香を大切にしている秋仁にとっては即答できるものではなかった。苦悩する秋仁を見て、小野寺は春香に提案した。
「春ちゃん、そろそろお父さんとお母さんのところに戻る練習をしてみない?」
この提案は予想していたようで、春香は一瞬
「もちろん、いきなり昔のように生活しなさいという意味ではないよ。最初は一泊してみて、徐々に慣れてみよう。」
春香は再度、黙って頷く。春香も秋仁の身を削った努力の上に幸運が舞い込んできたのは分かっている。自分のせいで、秋仁がせっかくのお誘いを断ることになるなんて嫌だった。春香が両親の元へ帰る準備をする計画を小野寺から聞いたとき、秋仁は最初こそ春香を手放す悲しみと、自分のキャリアのために春香を振り回して、と良心の呵責に苛まれ、反対していたが、今でなくても近い将来、春香は必ず両親の元へ返さないといけないのだから、と小野寺の説得を受け、同意した。
「春香、辛いかもしれませんが、挑戦してみましょう。やってみてダメなようでしたら、私はアメリカ行きを断ってもいいです。」
秋仁にはそうとしか言えなかった。秋仁の大学は運悪くほとんど空きがなく、専任講師どころか、臨時講師ですら枠がなかった。半面、アメリカの大学での講師という職歴があれば、契約期間が終わって向こうで次のポストが見つからなくても、日本に帰国すれば、引く手数多となる。それは分かっていたが、春香のためなら、来るかはわからない次の機会を待っても良かった。しかし、春香にも秋仁の気持ちは分かっていた。
「私は大丈夫。そろそろ自分で歩かなくちゃいけない。」
春香は自分に言い聞かせた。
(私は大丈夫。この日が来るのは覚悟してた。楽しい時は続かない。続かないからこそ楽しいと感じられるんだ。これから頑張る分の倖せを秋仁お兄ちゃんがくれたから大丈夫。)
「…春香…。」
春香の伏せられた長い睫毛が震えた気がして秋仁は思わず声をかける。彼女は顔を上げた。その顔は秋仁をまっすぐ見上げ、微かに笑んでいた。
眩しいものを見上げる時のように目を細めながら。
まるで蜘蛛の糸に絡まった蝶が、もう二度と飛ぶ事のない空を恋い焦がれるかの如く。
***
春香が家に帰宅する日が来た。
とは言え、たったの一泊である。だが、両親と三人だけで長い時間を共にする事は一年前の事件以来であり、春香にとっては多大なストレスがかかることだろう。今日は平日、春香は学校から秋仁の家に帰り、泊りの準備をした後、研究室に訪れていた。もう日はほとんど落ちている。
「春ちゃーん、迎えに来たよー。」
まるで遊びに行くかのように春香を呼ぶ小野寺の声が秋仁のいる研究室に響いた。
「声が大きいです。」
すでに出発する用意をして待っていた秋仁と春香は、声を重ねて小野寺を一刀両断する。
「この前よりシンクロ率が上がってるー。」
懲りずに軽口を叩く小野寺を無視し、秋仁と春香は研究棟を出て、小野寺が運転してきた車に乗り込む。いつもは助手席に乗る秋仁だが、今日は春香と一緒に後部座席に座った。
「んもーそうやって二人で僕の事を仲間はずれにするんだから。」
そう言いながらも小野寺は優しい目をしながら、仲良く後部座席に収まっている似た者親娘を見ていた。
道中、他愛もない話――小学校での出来事や、秋仁の大学で仲良くなった教授の話など――を3人でしていると、程なくしてよく見慣れた『
かたん、と軽い音が鳴り、開錠された事がわかる。
ドアを開けると無人の家特有の張りつめた静寂が伺える。
外と比べて陰虚で暗い家内は、まるで春香のこれからを暗示しているかのようで、恐怖で春香の脚は地面に縫い付けられたかのごとく動かなかった。
「ああ、帰って来たのね。お帰り。」
春香は今度こそ肩を震わせた。誰の気配もしなかった暗がりから唐突に母親が現れたのだ。
春香はゴクリと生唾を飲み込んだ。
上品な笑みを浮かべている母
声のトーンがいつもより高い
よそいき用の声音だ
理由は説明できないが、春香には分かる。
この状態の母親は良い状態ではない、少なくとも春香にとって。
母親は今、相当怒りを抑えてる。
よそいき用の声音の裏に怒りが見える。
原因はわからない、しかし母親が春香に対して、激しい怒りを抑えている。
無人の家特有の張りつめた静寂と思ったのは、母親の激しく青く燃える冷たい怒りだったのだ。
秋仁と小野寺が母親と和やかに会話するのが春香の耳に意味をなさない音として聞こえる。
母親の高い声が頭に響く。
春香は身体の芯が凍るような恐怖を久々に感じていた。
春香は本能的に悟った、秋仁と暮らしていた一年分の怒りが母親の中にある事を。
そして、おそらく父親にも。
自分が秋仁の元で倖せにぬくぬくと浸かっている間に両親はこれ程までの怒りを溜め込んでいたのだ。
春香は早くも秋仁の元で過ごした一年間を後悔し始めていた。
毎日、少しずつ怒りをぶつけられた方が、一年分の怒りを一気にぶつけられるより安全なはずである。
肉体的にも、精神的にも。
怖い。
春香はぶるりと震えた。
秋仁と小野寺が帰った後、母親と、いや、両親と自分だけで家という檻に閉じ込められるのが。
他人の目が届かない密室に自分への怒りを溜め込んだ人間といることが。
「こんなにもお世話になって、本当にありがとうございました。」
母親が愛想良く頭を下げ、高い声でお礼を言ったところで、春香は現実に戻された。
「春ちゃん、楽しくね。」
小野寺の一言が春香に過酷な現実を突き付ける。
行かないで!!!!
春香は
ここは私の家なんだ。
この両親の元に生まれてきた私は彼らに育ててもらうしか道はないのだ。
ここで駄々を捏ねれば、おそらく今日は泊まらなくても良いかもしれない。
でも、いずれは、それも近い未来に、秋仁はアメリカで自分の未来をつかみに行かなくてはならず、私はこの家以外居場所がなくなる。その時に、今ここで駄々を捏ねた事を咎められる事のほうが恐ろしい。
それに、私は一年前とは違う。
太極拳を習得して、様々なトレーニングを重ね、力をきちんとコントロールできるようになった。
両親を脅かすものはもう何もないはずである。
今まで折檻されてきたのも、私が不用意に力を使わないようにするための
そもそも悪かったのは自分なのだ。
(悪い事をしなければ、お母さんだって怒らないし叩かないのよ。)
もう悪い事はしないよ。
母親の言葉を思い出し、それに答える。
(お父さんは春香が将来困ると分かるから殴るんだ。春香は罪人として一生刑務所で暮らしたいのかい?お父さんやお母さんが、他人から後ろ指を指されるような生活を送るのが見たいかい?)
いいえ、
私のせいで
お父さんやお母さんが
悪く言われるのは嫌です。
父親の言葉も思い出す。
どちらも正論なのに、なんだか泣きそうになった。
胸に重石があるように痛んだ。
悔しいような気もしたし
悲しいような気もしたし
怖くもあった。
「春香、また明日待ってますね。」
秋仁の声で再度現実へ引き戻される。
しかし、言葉にならない重い気持ちと、未だ拭えない両親と密室に閉じ込められる恐怖で頭の中がいっぱいになっていて上手く言葉が返せなかった。
「全くこの子ったら、お世話になったのに挨拶もしないで。」
母が取り繕うように笑う。
彼女の怒りが増すのを感じた。
「あ…ありがとうございました。
長い間おせわになって。
今日も送っていただいてありがとうございました。」
春香は早口で言葉を紡ぐ。
秋仁は春香の他人行儀な言い方に面を食らったように少し目を見張ったが、すぐに励ますような笑顔を向けた。
「大丈夫です。貴女はもう力を暴走させることはありませんよ。自信を持ってください。」
春香だけにでなく、母親にも言い聞かせるよう秋仁はゆっくりと紡いだ。
「ハ…イ。」
春香はどうしても、秋仁との会話に集中できなかった。
秋仁は心配そうに春香を振り返りながら車に乗り、小野寺と一緒に去って行った。
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