第5話 悪夢
春香は無言で家に入る母親の後に続いた。玄関のドアを後ろ手で閉めて顔を上げると、母親がこちらを見下ろしていた。
「あなたは
母親は下駄箱にかかっていた靴べらを振り上げると、春香の二の腕あたりに振り下ろす。バシン、と大きい音と共に焼けるような痛みが腕に広がる。
「一年も、他人様のお宅で厄介になって。
あなたは自分のやったことが、全くわかっていないようね。
あなたは一体どういうつもりだったの?
我儘がすぎると思わなかったの?」
一言一言、春香の身体に刻むように靴べらを振り下ろす。身体中が燃えるように痛くて玄関に蹲る。
「あなたも今叩かれて痛いかもしれないけどね、私たちの方がもっと痛くて大変だったのよ!ご近所にも精神科医にお世話になっている事がばれて白い目で見られるし。
お父さんはね、警察にお話を聞かれたことが会社に知れて、危うく職を失うところだった!私たちが大切にしてきたものを、あなたが全部踏みにじったのよ!この痛みが分かる!?」
靴ベラは人を殴る道具ではない、強い衝撃に耐え切れず、パキリと乾いた音を立てて折れてしまった。母親は折れて使えなくなった靴べらを放り投げると、来客用に準備してあるスリッパで
「そこを掃除したら、お父さんが帰ってくるまでそのまま正座していなさい。」
春香は流れる血をハンカチで抑えると、箒と塵取りで割れたガラスをかき集める。その後は冷たい玄関のタイルの上に正座してひたすら父親の帰りを待った。暖房の入らない11月の玄関先はとても寒く、身体の震えが止まらなかった。
秋仁と過ごした温かく倖せな日々が、嘘のように色を失っていくのを感じた。
まるで
でも、寂しいと、哀しいと感じるのは、寂しくも哀しくもなかった時があったからで。
だから、その泣きそうな想いを大切にしたいと思った。
それが秋仁との唯一の繋がりである気がして。
秋仁に会いたい気持ちを心の奥底に沈め鍵をかけた。
***
春香は、脳天を貫くような痛みで目が覚めた。どうやら眠ってしまっていたらしい。まだ、父親は帰っていないようだった。
「おまえは反省する気がないのか!ずいぶん余裕があるようだけど?」
怒鳴り散らす母親を後目に春香は状況を確認する。火は…大丈夫、どこも燃えていない、痛みは…どうやら布団叩きで思い切り左側頭部を殴られたのが原因のようだ。正座をしていた痺れと、寒さのせいで上手く身体が動かせず、床に転がったまま動けなかった。
「いつまで寝っ転がっているんだよ!早く起きろ!」
蹴飛ばされても身体は思うように動かず、どうしても動作が鈍くなる。身体を起こそうとついた左手を踏まれた。一度は乾いてくっつきかけた手の甲の傷が開き、再び血が流れ始める。
「何か言うことはないの!?」
「…めんなさい。」
声が掠れて上手く|喋<しゃべ>れない。
「聞こえないよ!!」
「ごめんなさい。私がいない間、たくさん迷惑をかけてごめんなさい。」
自分が罪の塊に思えて、もう何を謝れば良いのか分からなかった。だが、そんな自虐的な思考は母親の次の言葉で吹っ飛んでいった。
「悪いと思ってるなら、これから何をされても耐えられるわよね。」
まだまだ
その反面、春香は心のどこかで期待していた。この罰を受けたら、日常に戻れるのでは、と。今度は、家族3人で普通に暮らせるのではないかと。だって、もう力を暴走させることはないのだから。しかし、その期待は残酷に打ち砕かれる事になる。
***
秋仁は家に帰っても落ち着かなかった。春香の怯えた血の気のない顔が浮かんできて仕方がない。小野寺には心配しすぎだと言われたが、あの様子では自宅での滞在を楽しめるように見えなかった。もちろん、ひどい扱いを受けていた家に帰るのだから楽しくて仕方がない訳はないだろうが、あそこまで怯えていた理由が分からない。前回、両親と面会した時はあそこまでひどく怯えることはなかった。
小野寺の言うところによると、ここ最近では母親も随分落ち着いて、精神科医の治療を受けていたとは思えない程、普通の母親らしい会話をしていたようだ。軽い育児ノイローゼと診断されていた通り、もともと春香の話さえなければ、精神状態は良好だったのだ。そして、最近では、春香を心配して、自ら春香の話題を振り、早く春香を帰してほしいと言うほどの回復を見せていた。父親は穏やかな紳士的な人物で、妻の精神状態と春香の容態をひどく案じていた。春香のリハビリにも、秋仁と春香の生活にも協力的で、小野寺を初めとする警察にも信頼されている。仮に、起きては欲しくない「仮に」だが、母親が春香に暴力を振るう事になっても、父親がいれば安心だろう。
頭では分かっているが、秋仁はどうも釈然としなかった。一年ぶりに一人で過ごす夜は虚ろで
いや、子離れではないな、春香を自分の子どもと思ったことはない。妹?それも当てはまらない気がする。
可愛い
愛おしい
そばにいて欲しい
抱き締めたい
これらの気持ちが、自分のなんという名の感情から湧き出るのか秋仁には分からなかった。
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