第2話 小火

少女がいじめられているところに居合わせてから半月程たったある日、秋仁は友人と会っていた。榑井くれいはるかがいじめられている現場に居合わせたことは、近くの小学校に連絡をしたが、「情報ありがとうございます、担任には申し伝えます」とそれ以上の問答は受け付けない冷たい声で言われ、電話を切られてしまった。また、榑井家からの嫌な物音はその後聞いていないが、秋仁も大学に詰めており、自宅に帰ることが少なくなっているので、本当のところはわからない。


「最近どうよ?ポスドク1年生。」

「うるさいですね、ポスドクに学年制度はありません。」


小野寺柊おのでらしゅうは秋仁にとって数少ない気の置けない友人だ。高校で出会い、同じ大学に進み、研究室も同じだったが、彼は修士を終えた時点で、娑婆しゃば…ではなく一般社会へと戻って行った。国家公務員試験にあっさりと受かり科学警察研究所の研究員をしている。最小の労力で最大の結果を求める彼は、進んで迷宮入りの事件ばかり回される部署――言い換えれば一種の閑職だ――に所属している。密室にいたはずの人間が失踪した神隠し事件や、容疑者が殺害方法は呪いだと主張し釈放せざるをえなかった事件など、超常現象ともいえる事件を気ままに調べている。


「冗談だよ、冗談。来年も大学に残れそう?それとも、そろそろ公務員試験受けたくなってきた?」

「おかげさまで、大学に残れそうです。」

「それは良かった。」


年齢に制限あるものが多いが、公務員試験は高学歴ワーキングプア予備軍にとっての最後の砦だ。登り始めたアカデミアの道を志半ばで去るものは、たいてい公務員にならざるえないという選択の余地のなさ悲しい現実を、大学院に進んだ入院した学生ならだれでも知っている。仕方なしに皆、それをジョークにして笑い飛ばすのである。


「そういえばさー、最近妙な事件に悩まされてるんだよねー。」

「あなたの担当の事件はおおよそ妙だと記憶していますが?」

「ははっ確かにその通りだけどさ、」


他愛もなく話しながらも、どこか歯切れの悪い小野寺に疑問を抱いてていると、その彼の携帯に着信が入る。


「お、ちょっとすまない。」


小野寺は秋仁に一言断ると電話をとる。彼の自由気ままなところは昔から変わらない、と一人納得していると、小火という単語が秋仁の耳に飛び込んできた。


「小火?なに?また小火なのか?…ああ、……そうか、分かった。今そっちに向かう。」

「なにか緊急事態でも?」


電話を切り、おもむろに上着を羽織る小野寺に問う。


「いや、それ程ではないんだが、さっき話した妙な事件の最新情報が入ってな。なあ、お前も専門家だろ、一緒に来てくれないか?」

「私は農学博士ですが?」


小火も超常現象も自分に全く関わりない分野だ、適当なことばかり並べる小野寺に呆れた目線を投げた。


「えー、専門家って顔してりゃ、問題ないって!そうだ、焼畑、ほら、なんだっけ?後輩の江田が研究してたじゃん…中国農村部における焼畑農業と自然破壊だっけ?お前が論文添削してやってただろ、だから大丈夫だって。それにお前にも一緒に状況判断して欲しいんだよ。」


小野寺が真面目に頼んでいるのが後半の一文から感じられた。


「このままだと、あんな小さいのに病院送りか保護監察になっちまいそうなんだ。」


面倒ごとに関わるのは気が進まなかったが、小野寺の真剣さに圧され、秋仁は彼の車に乗り込んで現場に向かっていた。その車の中で小野寺が事件について軽く説明する。


「ある家で小火が多発しているんだ。そしてその家の子供が毎回現場に居合わせている。普通だったら、その子が火を点けた、で片付きそうなものなんだが、あいにくそうはいかなくてな。まず、何を使って火を付けたのかが判明できない。なにしろ、その子供は火災発生時なにも持っていないんだよ。火気のないところからいきなり発火、発火元は鉄でもガラスでも熱によって溶けて変形してるんだ、例えばマッチで放火したとしても、その発火温度なんてたかが知れているだろ?鉄やガラスはそう簡単に変形しないわな。だが困ったことに、原因は不明なのにも関わらず、毎回現場にいる子供に容疑がかかっているってわけだ。」


それを聞いた秋仁がまず思い出したのが、

(榑井はるか…?)

秋仁には行き先を聞かなくても、この車がどこへ向かっているのか分かった気がした。



***



予想通りと言うべきか、やはり車は秋仁の家のはす向かいにある榑井家の前で到着した。すぐ近くの路上にもう一台車が停めてあることから、もうすでに警察関係者が榑井宅の中にいることが伺える。小野寺はインターホンを押した。


「科警研の小野寺です。」


インターホンから応答はなかったが、玄関のドアが薄く開かれた。すると、30代半ばの眉間に皺を寄せた女性がその隙間からこちらを睨みながら出てくる。彼女が榑井さんだろうか、以前会った時――まともに顔を合わせたのはもう何年前になるかは思い出せないが――とは受ける印象がまるで違い、秋仁は戸惑った。彼女はまるで殺人鬼と対峙し、身を守ろうとするかのように靴べらを構えている。また、長い髪は乱れ、洋服の裾が破れていることから、すでに一悶着あったことがわかる。


「なんなのよ!みんなで寄ってたかって!!みんなあの化けモノのせいなのに!」

「落ち着いて下さい、奥さん。怪我人はいませんか?」


小野寺が慣れた様子で、興奮冷めやらぬ女性に近寄り、落ち着かせようと試みる。秋仁はその二人越しに開いているドアから家の中を伺った。


「っ…。」


秋仁は暗い廊下に佇む女の子と視線が合い、思わず息を飲んだ。こちらを睨むように、しかし半ば放心したように佇む少女。


(………。)


秋仁はそんな少女に関わる覚悟を決めると、未だ興奮して騒ぎ立てている母親とそれをなだめる友人の脇を通り抜け、家の中に入る。後ろで勝手に家の中へ入る秋仁への苦情も並べられたが、そこは小野寺に任せることにした。


「こんにちは。先日もお会いしましたね。」


なんと陳腐ちんぷで意味を成さない挨拶だ、と自覚しながらも他にかける言葉が見つからないまま、秋仁は少女の元へ歩を進める。近付くと彼女がかなりの怪我を負っていることが分かった。おでこから血を流し、殴られたのか目の上が腫れ上がっている。唇にはすでに固まった血がこびりついていて白いワンピースは血や煤、焼け焦げで元の色を判別するのが難しい程汚れていた。秋仁があと一歩で少女の元に着く程近寄ると、彼女の目に表情が戻ってきた。


怯え


恐怖


錯乱


「いやああああ!!!

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

わざとじゃないの!!!ほんとよ、ほんと!

だからお願い、もうやめて!!

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい

ごめんなさい……っ!!げぼっ!ごぼっっ!」


彼女の悲壮な叫び声が途切れたのは、皮肉にも彼女が嘔吐をしてしゃべれなくなったからだった。


ほぼ透明な吐瀉物。

骨が浮き出ている身体。

落ち窪んだ目。

そして軽くはない外傷。


(やはりこの子は相当酷い扱いを受けているのか。)


少女を取り巻く劣悪な環境に眉を顰める。すると、叫び声が聞こえたのだろう、居間からスーツを着た男女が飛び出してきた。おそらく小野寺の同僚だ。


「春香ちゃん!大丈夫!?」

「あ、ぁあ、あ…!!」


少女は目を見開き、ひきつけをおこしたかのようにガタガタと震えながら、居間から飛び出してきた女性を振り返る。


「ぁあ、あ、い、ぃゃぁ。いゃ!いや!いやーー!」


ぼんっという軽い音がして女性の隣の飾り棚に置いてあった花瓶が燃え出す。


「っきゃ!」


と慌てて女性が飛び退いた。それを見た母親の目の色が変わった。


「このキチガイが…!!!!」


先ほどまで玄関口にいた母親が、小野寺と秋仁を突き飛ばし手に持っていた靴べらで少女を殴り飛ばした。


「やめて下さい!!」


壁に叩きつけられた少女を更に殴ろうとする母親を小野寺は羽交い締めにした。


不自然に壁に寄りかかり、ぐったりと動かない少女の元に秋仁は駆け寄ると、脈を測る。そして、脈が正常に打っていることを確認すると徐に少女を抱き上げた。


「病院へ連れて行きましょう。」


小野寺は未だ興奮している母親を二人の同僚に任せ、秋仁のあとを追った。

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