第57話 遠回りして見えた景色

 総合格闘技の道場に通い始めてから半年以上が経つ。


当初はフィットネス感覚だった俺が、今は格闘技の虜だ。

何よりの魅力は、言葉ではなく身体でコミニュケーションが取れるところであろう。

その効果は絶大で、初対面の相手でも2.3ラウンドもスパーをすれば、まるで旧知の如く打ち解けてしまうのだ。


こんな理由から、バンコクで趣味を探しあぐねている方には総合格闘技をおすすめしたい。年齢、性別、経験が一切不問な点もコールセンターで働く層とピッタリだ。

総合格闘技などと聞くと「刺青の兄ちゃんにボコボコにされるのでは?」と心配になるが、練習中はガチで殴りあう訳ではないのでご安心を。


さて、お世話になる道場のPRはこの辺で本題に入ろう。


     ※     ※


 それは、練習生たちによるジム内試合が催された日の出来事だった。


初心者同士で組まれたワンマッチ戦に、胸を借りるつもりで出場した俺は、なんと奇跡的にも柔道経験者の相手に勝利を収めたのである。

恥ずかしながら試合内容は全く記憶にないが、聞くところによると、カウンター気味のラッキーパンチがタイミング良く入ったそうだ。


早い話、この時の対戦相手がバンコクでフリーペーパーを発行する会社の編集責任者だったのである。


運命の女神が「前を向いて歩く者」に微笑んだのだ。


     ※      ※


 大会の日、一年生の中で最速だった俺は灼熱の太陽光が注ぐトラックで声援をあびていた。


もやもやと揺らめく陽炎のなか、陸上競技の花形種目である100M走が始まるのだ。


県央地区の選手が集まる大会には、さすがに速そうな奴らが集まっている。


いつもとは違う重圧感で鼓動は痛いほど速くなる。


スターティングブロックのセッティングが終わり「よーい!」の掛け声とともに腰を上げる。


そして、のピストル音が鳴り響いた。


スタートの直後、両サイドの人影は圧倒的なエネルギーで大地を蹴った。


野獣の足並みは暴力的だ。


萎縮する筋肉は言うことをきかず、心はポッキリと折れていた。


     ※      ※


 あの夏の屈辱がなければ、俺はきっと詰まらない人生を歩んでいただろう。


いじけた負け犬が、今、ドロ沼から這い上がる。


「泥中の蓮華」


蓮は泥の中でこそ大輪の花を咲かせるのだ。


遠回りしたからこそ見えた景色があった。


与えられた試練に心から感謝したい。


13歳の夏から20年の時を経て、俺は自分を乗り越えたのだ。


     ※     ※


 運命のワンマッチから数カ月後。


俺は、フリーペーパーの表紙に「バンコクキッド」というタイトルを見つけた。


          ー完ー

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バンコクキッド~俺はどこにでも行ける~ 綾瀬一浩 @kid-2016

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