第61話「世界」

 ユヴァスキュラに戻ったのは翌日だった。ゼンと俺は、素朴な老夫婦が営むあの郊外の宿に、ふたたび世話になった。


 調査隊のスタッフは皆ヘリから車に乗り換える際に別れたが、ベムゼットだけは最後まで俺たちについてきた。移動中、俺たちは何ひとつ言葉を交わさなかった。それでも、彼が監視目的ではなく、善意から同行しているのだと俺には感じられた。


 ゼンも同じだったのだろう、ホテル前で別れるとき、手を差しだしたベムゼットに、ありがとう、お元気で、そう言ってその手を握り返していた。


 二度と会うことはないが、忘れることもないだろうな、緩やかな坂道を下りていく車を見送りながら、俺はそう思った。


 夕食の準備ができましたよ、白く健康的な肌と潤んだ目をした女将さんが部屋をノックして声をかけた。俺たちは最初それを断った。食欲がなかったからだ。ゼンはどうかわからない。俺に合わせてくれたのかもしれない。


 女将さんは残念そうに目を伏せた後、何か思いついた表情になって、すぐ戻るわ、と弾んだ声で廊下を戻っていった。しばらくして、もう一度廊下に小気味よい足音がちいさく響いて、ドアがノックされた。


「シナモンロールを持ってきたわ、おいしいコーヒーと一緒にどう?」


 トレイに載せた皿とカップを置いて出ていく女将さんに礼を言って、俺たちはその軽食を口にした。コーヒーはほどよい温かさで喉をうるおしてくれ、シナモンロールは、思わず二度見するほどうまかった。


 口の中いっぱいに広がるシナモンの清々しい甘さに、ほんの少しだけ、現実を忘れられた気がした。


 なぁ、と俺は、満足そうにシナモンロールとコーヒーを交互に口へ運ぶゼンに言った。


「結局、何だったんだろうな」


 ゼンはすぐには答えず、かじりかけのシナモンロールを手に俺をじっと見た。それから、そうだね、とだけ言い、カップのコーヒーを口にした。


「あの世界も、洞窟の穴も、ボクらの旅も、何の意味があったかと言われれば、何もないのかもしれないね」


 今度は俺がゼンを見つめた。これまでのすべてが徒労だったと切り捨てるようなゼンの発言に、不思議と腹は立たなかった。そのとおりかもしれないな、俺はそう思っていた。


 でも、とゼンが続けた。


「でも、君は君にとって大切なひとに出会えたんだろ? それだけでいいじゃないか、ずっと一緒にいることが重要なんじゃない、会いたいと強烈に願ったその祈りが、一度でも叶うというそのことが大事なんだ、

 だってその瞬間はね、君とその相手は、完璧に重なり合っているんだよ、それだけで驚くべきことじゃないか、ボクはそう思う、そう思わないかい?

 きっとさ、その交わりのことを、ひとは奇跡と呼ぶんじゃないかな」


 ゼンがそう語るのを聞きながら、俺は、ケンジと、生前の親父、そして鎧の怪物を思い浮かべていた。


 ゼンが誰を指して大切なひとと言ったのかは定かではない。だがゼンの話はケンジにも親父にも当てはまる気がして、俺はふいに泣き出しそうになり、慌てて顔をそむけた。奇跡、という言葉が、胸の中に心地よく染み込んでいくのがわかった。


 ゼンはそれ以上何も言わなかった。俺たちは黙々と残りのシナモンロールを食べ、コーヒーを飲み、熱いシャワーを浴びて、眠った。


 次の朝、ゼンの電話に、あの老人の通訳から連絡が入った。話は聞いた、よく戻ってきた、彼のことは残念だった……男は電話口でそう言った。ベムゼットが報告したのだろう。


 男は鎧の怪物には言及しなかった。ベムゼットもゼンからそこまでは聞いていなかったらしい。彼は勇敢だったね、通訳を介し老人からそう言われ、俺は、ケンジは最高の友達だ、とだけ答えた。


 老人は言葉すくなで、アイリの件の約束は必ず守る、日本へ先に帰っていなさい、と最後にそう言った。わかった、と俺は承諾した。反論したところでアイリの居場所はわかりようがなかったし、まったく奇妙なことだが、老人に対する俺の激烈なほどの怒りはもう完全に消えていた。


 空港と、成田へ向かう飛行機の中で、俺は日本を襲う混乱を初めて知った。


 その中心にいたのはナガミネだった。俺たちが縦穴の洞窟にたどり着いた頃、ナガミネは大規模な演説集会を開催した。場所は渋谷の、彼が鮮烈なデビューを飾ったあの交差点だった。


 俺は知らなかったが、演説の前日、日本各地で、ディアーボの仕業と思われる襲撃事件が同時多発的に発生した。青森や福島、岐阜、三重、和歌山、高知、鹿児島の、いずれも外界とほとんど断絶された山間の集落や漁村で、それぞれ数十から百名ちかい人びとが犠牲になったという。


 過去の事件も十分にショッキングだったが、複数の個体が一気に出没したことで、いよいよ国民の不安と不満が限界に達した。そこへ、ナガミネがあの異様で危ういエネルギーをはらんだ新たな演説を行なった。警察、自衛隊をはじめ既存の体制を痛烈に批判し急激な変化を求める彼のスピーチに、中心的支持層である若者だけでなく、神出鬼没な怪物に怯える高齢者や一部のミドル層、それに子どもたちまでが熱狂した。


 新聞の記事に目を通しながら、俺は群馬N村の殺戮現場を、そして恵比寿の料亭でのゼンとナガミネのやりとりを思い返した。


 ナガミネに熱狂する人びとは、虐殺はディアーボの犯行であることを疑いもしないだろう。実際に、それらはすべて異界から現れたディアーボの手によるものかもしれない。だがもしかしたら、そのすべてが、そうでない可能性もある。俺には何が真実か、真実であるべきなのか、わからない。


 ほどなくして、カリスマとしてのナガミネが持つ特有の因子が作用したのか、あるいは単なる偶然なのか、ディアーボの出没が世界各国でも頻発するようになった。国内でも、北海道から沖縄まで、目を覆いたくなるような惨殺事件が相次ぎ、そのほとんどが、謎の怪物ディアーボによる憎むべき犯行であると報じられた。真偽は不明ながら、人びとを襲う怪物を確かに見たという目撃情報や、非常に不鮮明だがスマートフォンで撮影された動画の投稿も相次ぎ、日本だけでなく、世界全体が急速に不安定な状態へと傾いていった。


 ナガミネの人気はとどまることを知らず、彼の率いる政治結社への参加申し込みは異常な勢いで増え続けた。


 非公式ではあるがその数が三百万人に達したようだと各報道機関が伝え始めた頃、いよいよ選挙に乗り出すだろうとしきりに噂され、猛烈に忙しくなったナガミネと、俺たちは一度だけ会った。


 場所は恵比寿のあの店だった。アジトからゼンと出発して指定された時間に訪ねると、エプロン姿の女将さんが笑顔で迎えてくれた。通された部屋は前回と同じで、入るなりゼンが本棚に近寄って並んだ文庫本を眺めていた。十五分ほど遅れて、ナガミネが部屋に入ってきた。


「本当はさ、トップってのはあんまり忙しくしてちゃダメなんだけどな」


 ジャケットを脱いだナガミネは、伸びた前髪をせわしなく搔き上げながら、お茶ではなくビールをひと息に飲み干した。ほとんど寝ていないらしい。頰がこけ、無精ひげを生やし、目は赤くギラついていた。


 俺たちは二十分も話さなかった。ナガミネが次の予定に追われていたからだ。国内外のパニックの凄まじさと今後起こりうる政変、それに伴って発生するあらゆる分野での急激な変化についてナガミネが早口に喋り続けた。途中でそのことに彼自身が気づいて、ちょっと話しすぎたな、と頭をかいてから、お前らのことも聞かせてくれ、と落ちついた口調になって聞いた。

 

 ゼンも俺も自発的に何かを話そうとはせず、ナガミネの問いかけに応じてポツポツと短く答えるだけだった。ナガミネに不信感を抱いていたわけでも、疲弊していたわけでもない。ただあの場所での体験は、たとえ独特の鋭い感性をもつナガミネであってもきっと理解できないだろうと思っただけだ。


 俺たちのその悟りに似た諦めを感じとったのか、ナガミネも深くは追及してこなかった。ただ最後、じゃあそろそろ行くけど、と席を立ち上がった後、ジャケットの袖に腕を通しながら言った。


「お前らが行った、穴の向こうのバケモノの国ってのはさ」


 ゼンと俺が自分を見上げるのを確認して、続けた。


「きっとこの世の人間たちの、怒りの念が集まって作られた世界なんじゃないかと俺は思うな」


 怒りの念? ゼンがそうくり返した。


「そうだよ、怒りだ、地球に生まれた人間どもが、最初のひとりから今の俺たちに至るまで、腹の底に抱いてきた怒りの感情だ、

 これは俺がずっと小さいときから思ってることなんだけど、怒りってのはものすごく強い感情だろ、だから消えないんだよ、

 その消えない怒りが吐き出されて、この地球のどこかに集まって溜まっていく場所があるんじゃないかって、よくそんなことを考えたもんだよ、もちろん誰に言っても笑われたけどな、

 でもお前らの話を聞いて、たぶん俺のこの考えは間違ってないと思うよ、だって他に説明のしようがあるか? これでヤツらの世界が天上にあるんだったらそれっぽくないけどさ、うす暗い洞窟の奥底の、永遠に落ち続けるような穴の向こうなわけだろ、ぴったりじゃないか、怒りが吸い寄せられてヘドロのように溜まるなら、きっとそんな場所だろ、そう思わないか?」


 帰り際に興奮気味にまくし立てるナガミネに、ゼンは前回のように饒舌になったりせず、面白いね、とだけ呟いて薄く笑った。俺は笑わなかった。ナガミネは俺たちの顔を真剣な表情でじっと見下ろしてから、じゃあな、と部屋を出ていった。それからナガミネには会っていない。


 実家には帰らなかった。帰国してすぐ、姉貴に連絡は入れた。電話の向こうの声は憔悴しきっていたが、心配いらない、もうしばらくしたら必ず戻るから、そう伝えると、ほんの少し元気を取り戻したらしかった。親父のことは話さなかった。姉貴も何も聞かなかった。


 ナガミネと再会した晩、俺はゼンのアジトでベッドに横たわりながらあの異界のことを考えた。


 ディアーボの正体は何だったのか。それは誰にもわからない。実際にあの世界に足を踏み入れ、無数のディアーボと対峙した俺ですら、ヤツらについて何ひとつ理解などしていない。


 怒りの感情か、俺はナガミネの言葉を反芻してみた。案外、そうなのかもしれない。


 人類誕生以来の、すべての人間が心に抱いてきた大小さまざまな怒り。その感情が各地を流れ、暗闇に包まれた洞窟へと漂い、縦穴に流れ込んで底に堆積したことで、ディアーボと、あの世界が生まれた。


 そうかもしれないな、と俺は声に出さずもう一度つぶやいた。同時に、あの老人や、俺自身の境遇に対する怒りが、いつの間にかさっぱりと消えてしまったことにも思いがおよび、結局、やはり何もわからないのだと思った。


 次の朝、ゼンがアジトから消えていた。


 スマートフォンがテーブルに置いてあった。どこかへ買い出しにでも行ったのかと待っていたが、昼すぎに、ゼンの電話が鳴った。空港からで、かけてきたのはゼンだった。


「つい気恥ずかしくてね、許してくれ」


 決まり悪そうに、ゼンは電話口でそう言った。


 空港って、どこに行くんだよ、そう聞くと、南米のガイアナだ、とゼンは答えた。


「ママに、会いにいくんだ」


 まるで少年のような言い方だった。小さな子どもが、複雑な事情で遠く離ればなれになっていた母親の待つ場所へ出かける直前のような声。弾んだトーンではなかった。不安と期待の入り混じった、繊細で好感のもてる少年の声だった。俺はそれ以上何も聞かず、そうか、とだけ言った。ゼンは二度と戻らないだろう。それでも俺は、さようなら、とは口にしなかった。


 電話を切ろうとすると、ゼンが、あ、待ってくれ、と引きとめて何か言った。


 何だって? よく聞こえないよ。


「すぐにアジトを出たりしないでくれ、そうだな、三日ほど待ってくれよ、ボクはほんとに抜けてるところがあるから、君へのプレゼントを忘れてしまってたんだ」


 わかったよ、そう言って俺は電話を切った。スマートフォンは俺がそのまま使うことになった。


 同じ日の夕方、コーヒーを飲んでいるところに着信が入った。聞き覚えのある声で、あの老人の通訳からだった。


「準備が整った、君の友達の女性は、一週間後に日本へ到着可能だ」


 アイリはまだ回復の途上で、付き添いがつくにせよ通常のルートでの輸送は難しいために日数がかかるとのことだった。


 場所はどこがいいか、希望があればできるかぎり配慮する、と通訳は言い、俺は、樹海の街のアイリの実家を指定した。アイリのオヤジさんはもう帰国しているだろう、娘の行方と身を案じて消耗しきっているに違いない。


 どんな形であれアイリが戻れば、オヤジさんは救われる。そしてアイリにとっても、戻るべき場所は家族のところだ。俺にしてやれることはない。いつか再会を果たせるかもしれないが、それは今じゃない。


 今、俺にはやるべきことがある。俺は、戦いつづける。


 ディアーボはまだ、この世界にいる。


 ナガミネの自演の可能性もある。ヤツに限った話じゃない。恐ろしい話ではあるが、ナガミネがそれを考えつくなら、同じことを思いつき、そして実行する連中が世界にいても不思議はない。現にあの老人も、ケンジや他のサヴァイバーたちを監禁し、ディアーボへと転化させ、人びとを襲わせていた。


 それでも俺の直感が言う。穴の向こうからやってきたディアーボどもは、今この瞬間にも、獲物を求めて俺たちの世界をうろついている。


 俺はそいつらを探し、捕捉して、狩る。獲物は俺たちじゃない、ヤツらだ。


 穴の向こうの異界では、きっとケンジが戦い続けている。不思議とそう確信できた。親父も……と思いかけて、俺は考えるのをやめた。親父はもう生きてはいないだろう。この世にも、そしてあの異界にも。


 なぁケンジ、お前はそっちを頼む。


 俺は、こっちの世界で、あいつらと戦うよ。


 三日後の月曜日、郵便が届いた。ゼンからで、中身は手紙だった。


 ゼンがいつも座っていたイスに腰かけて、俺はその手紙をひらいた。便箋と写真がそれぞれ入っていた。写真はフィンランドでゼンが撮った、サンタクロース村での一枚で、裏には殴り書きの一文が書きつけてあった。ロヴァニエミのオーロラに一緒に行けなくてすまない、でもボクのことは気にせず君はぜひ観に行ってくれよ……


 便箋のほうには、いくらか丁寧な字の文章が並んでいた。


「じゃあね、ボクのベストフレンド、君と過ごした日々は楽しかった、ママに会えたら、まずはじめにサクヤ君のことを紹介しようと思う、君と一緒に足を踏み入れた、あの穴の底の世界での感動をボクはきっと忘れないだろう」


 手紙はこう結ばれていた。


「いつかまた、あのブラックホールの向こうで」



(完)

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ブラックホール・ブラックアウト 神谷ボコ @POKOPOKKO

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