二十年前の過ち

 流山は、マスターに片手を上げて合図をし、自分の空になったハイボールのグラスを指差してお代わりを求めた。私も同じものを頼んだ。

「実は、もうそろそろ誰かに話さなければならないとは思っていたんです。随分前に、まあ、いわゆる時効というヤツも成立したことですし」そう言ってから短めのため息をついた。

「あれは一九九五年の四月二十五日のことでした。ご承知の通り、この年はバブル崩壊後の深刻な経済停滞に加え、大地震や地下鉄テロ事件などこれまでに経験したことのない大事件が重なって、私たちはちょっとした非日常の中にいたんだと思います。とはいえ、ゴールデンウィークの直前の給料日とあって、気持ちは幾分華やいでいました。その日は夕方から鹿島がこの『大人の恋』 シリーズ初夏バージョンのラフデザインをチェックしに来ることになっていたので、私は今のうちに給料を下ろしておこうと思い、約束の時刻の二十分前ぐらいに事務所を出て地下鉄駅前の銀行に向かいました。そして銀行のキャッシュディスペンサー用の入り口近くで、携帯電話で誰かと連絡を取っている鹿島の後ろ姿を発見しました。確かあの頃は、ちょうど携帯電話が一般に普及し始めた頃で、新し物好きの鹿島は早速入手してフル活用していたわけです。空いている方の手で大げさなジェスチャーをしながら大声でまくしたてている鹿島の後ろ姿は、なぜかいつもより憎々しく感じられました。私はそのまま無視して銀行に入ろうと思い、彼の横を通り過ぎようとした時、ちょうど彼の電話が終わり、くるりと振り向いた彼と鉢合わせになりました。彼は満面の笑みを浮かべながら、あれ、流山さん、今僕を無視して行っちゃおうとしたでしょ、やっぱり事務所の外で会いたくないんだ、などといってきたので、カネを下ろそうと急いでいたので気づかなかったと答えました。すると彼は、いやいや、嘘つかなくていいですよ、だって僕は流山さんのコピーにダメ出しばっかりしてるし、などと食い下がってきます。鹿島は絡み出すと結構しつこいんですよ。私はイライラしながら、とんでもないです、勉強になってます、と皮肉っぽく返しました。すると何かを感じ取った鹿島が、じゃあ今日も、この後思いっきり赤字を入れさせてもらいますね、流山さんが書いた部分がテンとマルだけになるくらいに。そう言いながらハハハッと笑って、大事なノートを会社に忘れたので一旦戻る、その後再度こちらに来るから待っているように、と言い残してさっさと地下鉄の入り口に向かって歩き出しました。その場に残された私はさっきの流山のセリフが頭の中をぐるぐる回って怒りで目がくらみそうになりました。テンとマルだけ、というのは要するに、文中の句点読点以外はすべて直す、という意味です。クリエイティブディレクターとはいえ、あまりにも失礼でしょう? しかも私は彼より年上で、キャリアも長いんですよ」

 流山は、ぶり返してきた当時の怒りを鎮めよう、とでもいうかのように、さっきとは違う大きな長いため息をついて、ハイボールのグラスをグイッと傾けてから私の方に向き直って言った。

「でもね、一番私が悔しかったのは、彼にからかわれたことではありません。彼が赤字を入れた、あるいは書き直したコピーの方が、私が書いたものより格段に優れていたからなんです。私が夜通し悩んで生み出したコピーより、彼がジョークを飛ばしながらその場でサラサラと走り書きしたコピーの方が素晴らしいことを認めざるをえない悔しさ。それが一番の動機だったのかもしれません。いや、今夜は酒が進みますね」

 流山はマスターに再度お代わりの合図をした。私のグラスはまだ半分しか減っていなかった。

「で、私はフラフラと夢遊病者のように鹿島の後をついていき、気づくと地下鉄のホームの一番進行方向寄りに立っていた彼のすぐ後ろに並んでいました。平日のちょうど帰宅ラッシュが始まる前の時間でしたから、鹿島は列の一番前で、周りに他の客はいませんでした。その時点で私が考えていたことは、決して大それたことじゃあなく、何か鹿島が傷つくことでも一言言い返してやろう、というぐらいの幼稚な内容だったと思います。鹿島は電車を待ちながら、平べったい鞄を下敷きにして、何かのレシートの裏にボールペンでメモを書きつけていました。もちろん真後ろに立っている私には気づいていません。そして、ちょうど電車が到着してホームの向こう端から轟音が響き始めたときでした。ホームの中ほどで母親が連れていた赤ん坊が、ベビーカーの中で突然大声で泣き始めたんです。君も遭遇したことがあるかと思いますが、例のギャーッという、けたたましい、聞いている者を不快にさせる、あの泣き声です。あれは周囲の注目を集め、一刻も早く自分の要望を叶えさせるための赤ん坊の知恵なんでしょうね。あの不快さから逃れるためなら誰だって、自分にできることなら何でもやるぞ、という気になるんじゃないでしょうか。まあそれはともかく、その尋常じゃない泣き声に、何事が起ったのかとホームにいたすべての人々の視線が赤ん坊と母親に集中しました。赤ん坊は泣きやまず、母親は育児で疲れてイライラしていたのか、赤ん坊に向かって何か怒鳴り始めたんです。ホームの人々の驚きは興味に変わり、視線は母親と赤ん坊に釘付けになりました。その時でした。私の心に誰かが、今だ! とささやいたんです。私は考える間もなく、反射的に、母親と赤ん坊に注目している鹿島の背中をトン、と押していました。強い力で押した覚えはありませんでしたが、何か、てこの原理にでもかかったように、鹿島は大きく前後に揺れ、ちょうど目の前に来ていた電車の真ん前に落ちていったんです。私は結果を見届けることをせず、すぐさまその場を離れて、背後に何か、今度は大人の叫び声を聞きながら、何食わぬ顔でコンコース行きの昇りエスカレータに乗りました。コンコースの事務室から駅員が飛び出してきて、ホームに駆け下りていくのとすれ違いましたが、あれ、何かあったのかな、などと声に出して振り返ってみたりして、我ながら上手い演技だ、などと少し悦に入ったりしたものでした。そうして地上に出て、ほっと一息ついて、ふと足元に目をやった私は驚愕しました。おそらく鹿島が落ちたタイミングで入ったのでしょう、彼が書いていたメモ書きのレシートが、私のチノパンのダブルの裾の間に挟まっていたんです。まあしかし、何も怖がることはありません。このレシートが何かの証拠になったとしても、それは今自分の手中にあるんです。私は落ち着いてレシートを摘み上げ、裏側のメモ書きを読みました。そこには、焼酎の商品名とともに、短い文章が書いてありました。私はすぐさま、これが夕方に予定されていた打ち合わせで、鹿島が我々に披露する予定のキャッチコピーの本命であることを察知しました。その『好きでいたいから、今日は会わない。』というコピーは、ずば抜けて優れているとは思いませんでしたが、当時私がラフスケッチに当て込んでおいた自分の作品よりはエッジが効いている、と思いました。そして私は直感的に、クライアントはこのコピーを選ぶだろう、と確信したのです。だから私は、自分の名前でこの、鹿島の作品をプレゼンしました……」


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