キャッチコピーは密やかに

夕方 楽

青い夕暮れ

 そのころ私は、心が相当に疲れ果てていたので、近所のジャズ喫茶兼バーに夕方まだ日が沈む前から席を構え、瓶ビールを一本オーダーして何をするでもなく時間を過ごす日々を送っていた。

 私立探偵という仕事に嫌気がさしていたのはいつものことだが、それにも増して、人間が逃れることのできない人生という営みそのものにどうしようもなく疲れた気持ちになっていたのだ。

 もちろん、自分自身の人生のスケールの小ささ、という事もうんざりする原因のひとつではあるだろう。けれども、たとえ胸踊る冒険や心とろける恋愛に彩られた無二の一日があったとしても、人生はそこでハッピーエンドとはいかない。夜になれば眠くなり、朝起きれば再び充実を求めての狂騒を繰り返さねばならない。危機を乗り越え、望みの美女をついに抱いたとしても、翌日になれば、また腹が減るのと同じように、底のない欲望が頭をもたげてくる。それをただただ繰り返して行かねばならないのだ。

 そうした人間という生物のしくみに私はほとほと愛想をつかしていたのだが、かといって自ら人生を閉じるほどの英断にも程遠く、だらだらとバーで時間をつぶしていたのだった。

 店内は丸太をあしらったコテージ風の造りで、カウンターが数席と二人がけのテーブルが六組ほどで構成されていた。テーブルの上には当たり前のように灰皿があり、店内用のリクエスト用紙が短い鉛筆とともに木製の筒に挿さっていた。テーブル席の椅子はごわごわした黒いレザー張りで、スプリングは相当にへたっていた。小一時間座っていたら、立ち上がる時に間違いなく腰の痛みに背中に手を回し、イテテテと間抜けな声を上げる事になるだろう。

 そんな角のテーブル席に陣取って、とっくにぬるくなったビールにちょっと口をつけながらふと横を見ると、テーブルを二つ飛ばした反対側の角の席にくつろぐ一人の男が目に入った。

 男は見たところ五十前後でやせ型、短く清潔に刈り込まれた髪は、薄さや白髪を目立たなくさせるためというよりは、それがスタイルだから、といったさりげない主張が感じられた。服装は無地のピンクのポロシャツにジーンズ。広めの額の下に格納された、眼球の奥から光を放つような細い両目と、形のよい長い指で店に備え付けの青年漫画誌のページを無心に追いかける様は、頭脳労働型の専門職を想起させる。

 テーブルにミックスナッツの皿とハイボールのグラスを並べ、いかにもリラックスしているようだが、どこかにまだ何か緊張が残っていることが、気持ちだけ持ち上がった肩の線から見て取れた。

 その男に対して私は何を思うでもなく、いくらも経たずして六十年代初頭のジャズ・カルテットの演奏を大きめの音量で流すJBLのスピーカーの方に向き直った。そして次に会うまで、その男のことを思い出すことはなかった。


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